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四旬節 [音楽]


 「来月、マタイ受難曲の演奏会があり、私は合唱のバスのパートに出る予定です。
 福音史家の部分を神父さんが日本語で『聖書朗読』し、アリアや合唱の部分を歌う形式でやります。何分、若手、セミプロ、素人の集まりですのでハイレベルの演奏という訳には行かないと思いますが、もしお時間とご興味がありましたらご一報ください。」

 高校時代の山岳部の先輩・Eさんからそんなメールをいただいたのは、今年1月の中頃だった。二月の三連休の月曜午後、しかも場所は目黒のカトリック教会の中だという。そんなシチュエーションでJ. S. バッハ「マタイ受難曲」(BWV244)を聴かせていただく機会など、滅多にあるものではない。私は二つ返事で行かせていただくことにして、Eさんに直ぐにメールを返した。

 学校の年次も会社の会計年度も4月から始まる日本では、年が明けるとその年度の最後の四半期になるので、何かと忙しい。「一月は行く。二月は逃げる。三月は去る。」などと昔から言われて来たが、私自身にとっても今年はまさにそのような展開になり、気がつけば二月も既に半ば。Eさんからお誘いを受けた「マタイ受難曲」の演奏会の日が遂にやって来た。
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 当日の午後、家内と二人で目黒駅から西方向の行人坂へ向かい、途中で左に折れて緩い坂道を下って行くと、程なく左側に教会の入口がある。受付開始の13:30に合わせて来たのだが、私たちと同様に教会に向かう人々は多く、着いてみると座席はもう殆ど埋まりかけている。(教会の中だから席の指定などないのだ。)私たちも慌てて後ろの方に何とか席を確保したのだが、ギリギリ間に合ったという感じだった。

 やがて、オーケストラが登場して各自の位置に座り、続いてEさんを含む合唱団が登壇。それでも床がフラットな教会の中だから、演奏者たちは私たちの目の高さだ。そのあたり、コンサートホールでの演奏会とは異なる身近さや手触り感があって、なかなかいいものだ。
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 教会の中は、前方の祭壇に向かって信者が座る木製で横長の座席が、左右二列になって後ろに続いている。定刻の14:00になると、教会の後方からその左右のベンチの間の通路を通って指揮者が登場。大きな拍手に包まれた後、聖堂の中に柔らかく差し込む午後の光の中で、バッハの「マタイ受難曲」が粛々と始まった。これからイエスの受難という悲劇が始まる、その導入部としての厳粛にして荘厳なオーケストラの響きと、それに続く分厚い合唱。それにソプラノのコラールが絡み合っていく。

 ドイツ語の歌詞だから聴いているだけでは意味が解らないが、和訳は以下の通りだ。

合唱
来たれ娘たちよ、ともに嘆け。見よ - 誰を? - 花婿を、
彼を見よ-どのような? - 子羊のような!見よ - 何を? - 彼の忍耐を、
見よ - どこを? - 私たちの罪を 
愛と慈しみゆえにみずから木の十字架を背負われるあのお姿を見よ!

コラール
おお、罪なき神の子羊よ 犠牲として、十字架に架けられた御方よ、
たとえ侮辱されようとも、いつでも耐え忍ばれた。
すべての罪をあなたはお負いになった。さもなければ私たちの望みは絶えていただろう。
私たちを憐れんでください、おおイエスよ!

 この後、「マタイによる福音書」の第26・27章に従って受難曲は進行していくのだが、バッハの原曲では、エヴァンゲリスト(福音史家)が語る部分はテノール、イエスをはじめとする登場人物のセリフはバリトン或いはバスによる独唱、集団の声は合唱によって表現される。それに対して今日の演奏会では、福音史家の部分について教会の司祭が福音書を日本語で朗読する趣向になっている。これは私たちにとっては大変ありがたいことで、これだけでもストーリーの進行がよく理解出来るのである。

イエスはこれらの言葉をすべて語り終えてから、弟子たちに言われた。
「あなたがたが知っている通り、ふつかの後には過越の祭になるが、
人の子は十字架につけられるために引き渡される。」

 これに続いて、
●祭司長たちや民の長老たちが、策略をもってイエスを殺そうと相談する話、
●イエスがべタニヤで、らい病人シモンの家にいた時に、ある女が高価な香油をイエスの頭に注ぎかける話、
●十二弟子のひとり「イスカリオテのユダ」が、司祭長のところで、イエスを引き渡すことと引き換えに銀貨三十枚を受け取る話、
●夕方になって、いわゆる「最後の晩餐」の時に、イエスが「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている。」と予告する話
などの有名なストーリーが展開。そして、一同が讃美歌を歌ってオリーブ山に出かけ、イエスが
「今夜、あなたがたは皆わたしに躓くであろう。『わたしは羊飼いを打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう。』と書いてあるからである。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガラリアへ行くであろう。」
と述べた後に、美しくとても印象的なコラールが歌われる。

私を認めてください、私の守り手よ!私の羊飼いよ、私を受け入れてください!
すべての宝の泉であるあなたから、私のために多くのよいことが行われました。
あなたの口はミルクと甘い食べ物で 私を元気づけてくださいました。
あなたの聖霊は多くの天国の喜びを もたらしてくださいました。

 これが有名な「受難のコラール」で、この後も幾つかの場面で歌詞を替えて歌われる。この「マタイ受難曲」全体の主題曲とでも言うべきものだ。 
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 同じ一神教ながら、正典といえばただ一つ「コーラン」だけがあるイスラム教とは異なり、キリスト教の「新約聖書」は全部で6種類・計27の文書によって構成されるという。その中で最初のジャンルとして括られるのが、イエスの生涯とその死、そして復活を記録した4種類の「福音書」である。マルコ、マタイ、ルカ、そしてヨハネの順に成立したそうだ。

 「なぜ開祖の伝記が四種もあるのかというと、キリスト教会が最初から統一のとれた組織ではなかったからである。違う派がそれぞれに福音書を制作した。正典に入っている四種の他にも『福音書』と銘打たれた書は続々と出現した。ただし制作年代は少し下り、内容はなかり神話めいたものになっている。
 福音(書)をギリシャ語でエウアンゲリオンと呼ぶ。『良い知らせ(グッド・ニュース)』という意味だ。英語のゴスペル(Gospel)はこれを訳したもので、古語ではgod-spell(良い・話)と言った。(中略) 中国語で『福音』と訳され、日本語はこれを採用した。
 何がグッド・ニュースだったのかというと、もちろん救世主キリストの到来が良い知らせなのであった。神の子が出現して『神の国』を告げて死んで復活して昇天したことが、衝撃的なニュースだったのだ。」
(『聖書、コーラン、仏典』 中村圭志 著、中公新書)

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(上表の「パウロ書簡」の中で網掛けをした文書は、パウロの殉教(西暦65年)以降に成立したと見られ、現在ではパウロの作ではないとされているようである。)

 ライプツィヒの聖トーマス教会においてバッハの「マタイ受難曲」が初めて演奏されたのは1727年のことであるという。バッハがこの街にやって来てから、間もなく満4年が経つ頃であった。

 ライプツィヒに来る以前の6年弱を、彼はケーテンという小さな街で領主レオポルト候に仕える宮廷音楽家として過ごしている。その間に、あの膨大な数にして傑作揃いの室内楽曲・器楽曲の大半が作成されたというのは想像を絶することだが、その一方でバッハの活動には大きな制約もあった。レオポルト候は宗教的にはカルヴァン派に属していたため、宮廷での礼拝からは殆ど音楽が締め出されており、バッハには礼拝用の音楽を作曲する機会がなかったのである。

 やがて彼は大都市ライプツィヒ(ケーテンからは南東へ60kmほど)の聖トーマス教会のカントル職に応募し、採用されることになった。当時「トーマスカントル」と言えば、教会の合唱団を指揮して礼拝用の音楽を取り仕切り、教会に付属する小学校で教鞭を取り、なおかつライプツィヒ市全体の音楽をも差配する監督でもあるという、大変に名誉ある職だった。その肩書を与えられたバッハは、堰を切ったようにカンタータをはじめとする礼拝音楽の作曲に邁進していく。

 「激務だった。だがバッハは全力をあげてこの仕事に立ち向かった。
 生涯を通じてルター派の信仰を持ち続け、また教会に奉職することが長かったバッハにとって、その頃全盛を極めていたルター派の礼拝音楽は、信仰と音楽の双方を追求できる絶好のジャンルだった。」
(『バッハへの旅』 加藤浩子 著、東京書籍)

 加えて、大都市ライプツィヒでは人々の耳も肥えていたようだ。「教会の国」と呼ばれたこの街では「教会音楽も街の売り物の一つ」だったようで、「人々は劇場の桟敷席に通うように、教会の定められた席に坐った」という。

 「おびただしい数にのぼるバッハの作品のなかでも、傑作といえば真っ先に指を折られる二つの受難曲、《マタイ受難曲》BWV244と《ヨハネ受難曲》BWV245も、この時期に初演された。(中略) 復活祭前の聖金曜日に上演される決まりになっていた「受難曲」は、「聖金曜日の受難楽」として、ライプツィヒ市民の年間の楽しみのひとつだったのである。」
(以上、引用前掲書)

 イエス・キリストが十字架に架けられて刑死する受難劇という、いささか残酷で重苦しい内容のドラマが「市民の年間の楽しみのひとつだった」という、その感覚にはちょっとついて行けないなという思いがなくもないし、実際に日本では、キリスト教の信者でなくてもクリスマスは盛大に祝うが、このイエスの受難と復活という、いわゆるイースターは(少なくとも私から見る限り)世の中では殆ど話題になることがない。イエスの受難という重苦しい話は、わが国ではやはり好まれないのだろうか。その一方、私たちの周りでは「義によって主君の仇討を果たした家臣たちが、最後は名誉の切腹を賜る」という話が年末のたびにドラマになり、歌舞伎にもなっているのだから、人間とは意外と悲劇を好む生き物であるのかもしれない。

 西方教会の教会暦では、復活祭(イエスが復活した日曜日。定義は「春分の日の後の最初の満月の直後の日曜日」)の46日前から四旬節と呼ばれる期間に入り、それが復活祭の前日まで続く。今年(2018年)で言えば4月1日(日)が復活祭だから、2月14日(水)から四旬節が始まることになる。そして、復活祭の前々日、即ちイエスの受難の日である金曜日(聖金曜日、Good Friday)に受難曲が演奏されていた訳だ。

 2月12日の今日、東京・目黒の教会でバッハの「マタイ受難曲」の演奏を鑑賞している私たち。座席は教会の長椅子だから、3時間を過ぎようかというほどの公演になると、正直なところお尻が痛くなって来る。元々はあまり長居をする場所でもないからか、夕方に近くなると教会の中は次第に底冷えがしてきて、おまけに隙間風も冷たい。今日はまだ2月の中旬だからそれも仕方ないのだが、東京よりも寒冷な気候である筈のライプツィヒでは、イースターの時期といってもまだ冷え冷えとしている頃なのだろう。そんな中で受難曲を楽しむというのも決して楽ではないに違いないが、それが愛好されてきたというのは、やはり信仰の賜物なのだろうか。
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(ライプツィヒの聖トーマス教会)

 バッハの「マタイ受難曲」は、休憩を挟む二部構成になっている。「最後の晩餐」や「オリーブ山の祈り」の後、そのオリーブ山から麓に降りたゲッセマネでイエスが捕縛されるところまでが第一部、そして最高法院での裁判に始まって、ピラトの尋問、十字架のくびき、ゴルゴタでのイエスの死、そして埋葬までが第二部である。捕縛されてから十字架に架けられるまでの経緯をかなり詳しく描いているので、第二部の方が演奏時間は長い。その中で特に印象に残るのは、やはり十字架上のイエスが死を迎える部分である。

さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 福音書の朗読の後、死に瀕したイエスの前に預言者エリアがはたして現れるか否かという人々のやり取りが続いた上で、司祭が次の一節を静かに読み上げる。

イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息を引き取られた。

 これに続いて歌われるコラール。ここでも先に述べた「受難のコラール」が用いられているのだが、バッハはここで音階を4度下げ、敢えて中世以来の古風なフリギア旋法を用いることで、イエスの死を限りなく昇華させている。お見事!としか言いようがない。

いつしか私がこの世に別れを告げるとき、私から離れないでください。
私が死の苦しみにあるとき、目の前に現れてください!
この上ない恐怖が私の心を囲むとき、
あなたの苦悩と痛みの力で 私を恐れからお救いください!

 このようなドラマが生まれたエルサレムという街は、一体どんな所なのだろう。昨年に膵臓がんの手術を受けた身である以上、自分の命があとどれだけ残されているのか、今はまだ何とも言えないが、死ぬまでには一度訪れてみたいなと、私は思い始めていた。
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 ローマ総督のピラトがイエスの墓に番人をつけるように命じ、石に封印が為されたことが語られると、第一部の冒頭に用いられたメロディーが再び登場し、合唱をもって受難曲は終了する。

私たちは涙してひざまつき そして、墓の中のあなたに呼びかけます。
安らかにお休みください、やすらかに。お休みください、疲れ果てた御体よ!
安らかにお休みください、やすらかに。
あなたの墓と墓石は、悩める良心にとっては ここちよい憩いの枕
魂の憩いの場となるべきもの。

 会場が盛大な拍手に包まれたのは17:00を少し回った頃であった。途中20分の休憩を挟み、3時間に近い演奏であったが、私たちはこうしてイエスの受難劇の全てをじっくりと鑑賞することができた。これほどの大作に挑むのに、コーラスの練習には一体どんな量のエネルギーを必要としたことだろう。お誘いいただいた先輩のEさんを含めて、演奏者の皆さんの大いなる努力に、心からの敬意を表したいと思う。

 そして、改めて思う。パウロが語るように、キリスト教の要諦は、やはりイエスの受難と復活なのだ。

 「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」
(『ローマ人への手紙』第10章9)

 私たちにはなかなか理解の及ばないところであるのだが、人間が本来背負っていた原罪をイエスが一人背負って死に、そのことによって人類は救われ、そしてイエスは復活した、だからイエスはキリスト(救世主)なのだ、という信仰である。(私自身も、そこは今も腑に落ちていない。)けれども、信仰そのものではなく宗教学的なアプローチからこのキリスト教の要諦について考えてみることには、きっと意味があることだろう。今日のような機会を利用しながら、これからも学んでみたいと思う。

 私の大好きなバッハの世界にたっぷりと触れた休日の午後。このような機会を与えていただいた、尊敬すべき山の先輩・Eさんに改めて大きな感謝を捧げつつ、家内と二人で再び目黒駅へと向かう。

 坂道を上った所からは、夕暮れの富士山がその頭だけを見せていた。

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立春 [季節]


 2月4日(日) 立春。といっても、外はまだまだ寒い時期である。

 東京の都心部の朝は曇り空が広がっていたのだが、食後のコーヒーを飲みながら読みかけの本に目を通している間に天候が回復していたようで、ふと気がつくと窓のカーテンが明るい陽射しに輝いている。ベランダに出てみると、空の2/3ぐらいに青空が広がっていた。ならば、本の続きは後にして散歩に出てみようか。

 小さなデイパックを肩に、我家の近くにある植物園へ。ここも随分とご無沙汰してしまっている。いつものように正面の坂道を登って桜の広場に出ると、あたりの木々はひっそりと春を待っていた。
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 空が曇っていた朝こそ肌寒かったものの、正午を過ぎたばかりの今は南側の空が良く晴れていて、太陽の輝きが眩しくて暖かい。考えてみれば、今日が立春だから、太陽が一番低くなる冬至から1ヶ月半ほどが過ぎた訳で、春分までの道のりのちょうど半分が経過したことになる。
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 暦というのはよく出来たもので、毎日の平均気温の平年値(現時点で適用されるのは1981~2010年の30年間の平均値)が年間で最低になるのは、二十四節気のちょうど大寒の頃だ。それを過ぎてもまだ気温はなかなか上がらない一方で、南中時の太陽高度は冬至を過ぎてからは徐々に上がり始め、その後は次第に加速をつけて高くなっていく。太陽の輝きの眩しさと風の冷たさとの間のギャップ、すなわち「光の春」を一番感じるのが今頃だというのも、やはり理屈があってのことなのだ。
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 桜の広場からスズカケの林を過ぎ、針葉樹林を抜けて坂道をゆっくりと下ると、日本庭園の先にある梅林ではその1/4ほどの梅の木が既に花を開いていた。
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 ある時期になると多くの木々が一斉に開花する、まるで集団行動のような桜とは対照的に、梅の開花時期は木によって様々だ。そして、花の色にも個性があり、寒風・冬枯れの中で一人花を開き、微かな芳香を放つ・・・。座禅によって己(おのれ)を見つめ続ける禅宗では桜よりも梅が好まれるというのも、何だかわかるような気がする。
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 その日、東京の日中の最高気温は9.8度まで上がり、風のない穏やかな昼下がりを、私はこんな風に植物園の自然の中でのんびりと過ごしていた。そして、翌2月5日(月)は冷え込みが厳しかったものの、東京は引き続きよく晴れた冬の一日だった。ところが、その日から北陸地方では稀に見る大雪が始まっていたのである。

 日本列島が西高東低の冬型の気圧配置に覆われる時、等圧線の間隔が狭くて縦に並ぶものは「山雪型」、等圧線の間隔が広くて斜めに並ぶものは「里雪型」と呼ばれる。2月5日と6日の天気図を見ると、等圧線の間隔は広く、そして等圧線の方向がちょうど北陸地方の上空で斜めになっていた。これは平野部で大雪になるパターンだ。事実、北陸三県では雪が降り続き、特に福井県でそれが激しかった。県庁所在地・福井市の毎日の最深積雪量を見ると、2月4日時点で40cmだったのが5日には82cm(+42)、6日には136cm(+54)に急増、そして翌7日には147cmに達している。
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 147cmと簡単に言ってしまったが、よく考えてみればテニスコートの中央にある審判台の座面の高さが150cmだから、要するにあの審判台がほぼスッポリと埋まってしまう高さである。山の中ならともかく、市街地でその高さの積雪とは大変なものだ。

 2~3日の間にこれだけの量の雪が積もってしまえば、鉄道も道路も除雪が追いつかなくなるのは当然のことだろう。トンネルが多く、除雪のための仕組みを色々と備えた北陸新幹線は別として、在来の鉄道が軒並み運休となっただけでなく、特に福井県下で国道8号線をはじめとする道路交通にも深刻な影響が出て、極めて多数のクルマが立ち往生してしまった様子は、日夜報道されている通りである。

 「雪国」のイメージのある北陸地方だが、平野部で1メートルを超えるような積雪がずっと続く訳ではない。県庁所在地の福井市・金沢市・富山市をとってみれば、冬の間の積雪量は平年値ベースで20~30cm程度のものである。交通が寸断されて市民生活に大きな影響が出るような豪雪というと、近年では1980(昭和55)年の年末から翌81(昭和56)年1月中旬にかけての、いわゆる「五六豪雪」に遡ることになる。
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 この時は北陸三県で12月28~29日、1月5~6日、同13日及び15日と波状的にドカ雪となり、福井市では積雪が1月15日に史上最高の196cmに達している。金沢・富山でも程度の差こそあれ同じような状況だった。
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 五六豪雪の時の北陸地方は、実は12月から平年に比べてかなり寒い冬を迎えていた。気温が低いと降った雪がなかなか融けず、そこへ新たな雪が積み上がってしまう。福井市の場合、年明け後も平均気温が平年値よりかなり低い状態が2月中旬まで続いたために、1月15日に196cmに達した積雪が2月中旬までは1mを超えた状態で残ったのである。

 平均気温と積雪量の逆相関のような関係は今年も同じで、1月に何度かあった平年よりも低温になった時期に積雪量が多くなっている。そして2月に入り、五六豪雪時よりも更に寒くなったところへ里雪型の気圧配置になったことが、今回の豪雪をもたらしたのだ。注目すべきは、2月6日に福井市の最深積雪量136cmが五六豪雪の時の同日の積雪量に並び、翌7日にはそれを上回ったことだろう。局面的には「五六を超える豪雪」とも言えるのである。

 いささか昔話になってしまうのだが、大学を卒業して社会に出た最初の3年間を、私は富山市で過ごしている。着任をしたのは、ちょうどこの五六豪雪の雪がすっかり消えた4月の第3週のことだ。着いた翌日が穏やかによく晴れた日で、真っ白な北アルプスの立山や剱岳、そしてその北方にある毛勝山などが間近に見えていたことを、今でもよく覚えている。

 山が近く、豊かな自然に囲まれた富山市は誠に愛すべき街で、今から思えばその何とものんびりとした環境の中で社会人の第一歩を踏み出せたのは、大変に幸せであったという他はない。多くの人達に本当によくしていただいたので、私の記憶には楽しかったことしか残っていない。仕事のことはともかく、雪国の暮らしを実際に経験することはとても貴重なことで、実に多くのことを学ばせていただいたように思う。(そのおかげで、雪道でのクルマの運転にも一応の「免疫」が出来ていて、それが今の仕事でも役に立つことがある。) 以来、私の中では富山への愛着心をずっと大切にし続けてきた。

 その北陸が、あの時以来の豪雪に見舞われている。福井県でも2月8日のうちに何とか道路上でのクルマの立ち往生を解消したいとのことだが、その先の天気予報を見てみると、これから週末にかけて日本列島には気圧の谷がやって来て、2月11日(日)は全国的に雨。そして振替休日となる2月12日(月)には再び冬型の気圧配置となる見込み。そして想定される等圧線の形はまたしても里雪型だ。しかもその日から強い寒気がまた降りて来る。北陸はもう一度大雪への備えが必要になるようだ。
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 雪の季節での北陸の暮らしは懐かしいが、大雪に人々が難儀するようなことにはなって欲しくない。久しぶりに寒い冬となった今年だが、大雪もそろそろ手仕舞にしてはもらえないだろうか。

 日々の天気予報を眺めつつ、彼方の北陸の空に思いを馳せている。

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続・冬は北へ (3) 津軽鉄道 [自分史]


 1月22日(月)、青森県・大鰐温泉の朝は氷点下13度まで下がった。

 「この冬一番の冷え込みです。こっちの気候に慣れてる筈の私でも、今朝は『うわぁ、寒っ!』って思いましたもの。」

 ホテルのフロント係の女性が肩をすくめながらそう言って笑った。朝8時に迎えを頼んだタクシーは、後部トランクが凍結して開かないと、ゴマ塩頭の運転手さんが四苦八苦している。移動性高気圧は東へ去ったが、オホーツク海と日本海中部にそれぞれ低気圧があって、東北地方の北部は緩い気圧の尾根が東西に延びた形になっているため、夜は晴れたのだろう。それが放射冷却をもたらしたという訳だ。ホテルのロビーから眺める池も、今朝は完全に凍りついている。

 折角のリゾートホテルだから朝はゆっくりしたかったのだが、今朝は弘前発08:49の快速「リゾートしらかみ2号」に間に合うように、ホテルを出なければならない。朝食は少し急ぎ足にならざるを得なかったのだが、その代わりに神様からの素晴らしいご褒美があった。タクシーが大鰐温泉の中心部を抜けて国道7号に入り、岩木川の支流が造る狭い谷から津軽平野に出ると、津軽の名峰・岩木山(1625m)の大きな姿がフロントガラス一杯に広がったのだ。しかも、山頂までくっきりと見えている。
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 厳冬のこの時期に何という幸運。昨年の一月下旬にも家内と私は弘前を訪れているが、その時の岩木山にはガスが終日かかり、中腹から上は見えなかった。それだけに、今日のこの眺めには大感激だ。

「この山が風を防いでくれるから、津軽には米もリンゴも育つんですよ。」

 タクシーの運転手さんは、そう語る。津軽平野の西に忽然と盛り上がったような岩木山。周囲には他に高い山がないため、その裾野の広がりの優雅さがひときわ印象的だ。30万年前頃から噴火と山体崩壊を繰り返し、現在のスカイラインが形成されたのは1万年前頃のことだそうだ。いつまでも眺めていたい山である。

 予定通り8時半過ぎには弘前駅に到着。駅のコインロッカーに荷物を預け、私たちは五能線を走る「リゾートしらかみ」に乗車。40分足らずで五所川原に着いたら、そこから私鉄の津軽鉄道に乗ることにしている。タクシーの中からはあれほどすっきりと見えていた岩木山の山頂は、列車の中からその姿を追いかけた時にはもうガスの中だ。やはり、山というのは朝早くに眺めるべきものなのである。

 その岩木山の山裾を見つめ続けているうちに、間もなく五所川原に到着する旨の車内放送が流れた。先頭車両に乗っていた私たちは、運転席の右側の窓から正面を凝視。ゆっくりと近づいて来た五所川原駅の構内は、何とも懐かしい昭和の雰囲気に満ちている。
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そして、ホームに降り立つと、跨線橋の向こうの津軽鉄道の小さなホームには、お目当てのストーブ列車が私たちを待っていた。
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 左から、ディーゼル機関車DD350、客車のオハフ33、津軽21型気動車、そして最後部になぜか雪かき車キ100の姿が。機関車の左に見えている古い気動車は、既に廃車になって留置線に置かれている旧国鉄のキハ22である。(昨日乗って来た秋田内陸縦貫鉄道を走っていたこともあったそうだ。)

 この編成の中で、客車には2台の石炭焚だるまストーブが暖房用に設置され、冬の風物詩として観光客の人気を集めている。(但し、乗車には400円のストーブ券が必要だ。) 平日にもかかわらず、今日もこの客車の席がほぼ埋まっている。そんな中で私たちがストーブの近くに席を取ると、先ほどまで乗って来た五能線の「リゾートしらかみ」が、秋田を目指して発っていった。
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 9:32 津軽中里行きのストーブ列車は定刻に発車。2台のだるまストーブのおかげで、車内は暖かい。同乗している女性アテンダントによる沿線の観光案内が早速始まると共に、ワゴンによる車内販売も同時にスタートした。言うまでもなく、車内で楽しむ酒やスルメ、そして津軽鉄道グッズなどの販売である。
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 そこで買い求めたスルメは、もちろん車内のストーブで焼いてくれるのだが、女性アテンダントは実に手際よくそれをこなしている。私たちを含めてかなりの乗客が途中の金木駅で降りるので、乗車時間は30分足らず。その間に次々とスルメを焼くのだから彼女は結構忙しいことになる。

 僅かの時間ではあるが、それでもこのスローでレトロなストーブ列車に揺られ、スルメをかじりながら常温の酒で一杯というこの一時は、なかなか得難い経験である。
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 9:58 五所川原から12.8kmを走ったところにある金木駅に到着。ホームの様子は何やら映画「鉄道員(ぽっぽや)」の一コマでも見ているかのようだ。
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 私たちはここで下車し、街の中を700mほど歩いて「斜陽館」を見学。言うまでもなく、太宰治(1909~48)の生家だった旧津島家の大邸宅である。太宰の実父で戦前の衆議院議員も務めた大地主・津島源右衛門が1907年に建てた木造二階建て、入母屋造り、宅地面積が680坪の邸宅で、今は国の重要文化財に指定されている。太宰はここに生まれ、自らが旧制青森中学に進学するまでの間、この家で育てられたそうだ。(上京後は共産党の活動に手を染めたりしたために、彼は郷里から勘当されている。)
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 館内では案内係の男性が30分ほどの時間をかけて一階・二階それぞれの様子を詳しく説明してくれた。或る部屋では太宰の時代のマントを羽織って写真を撮れたりするのだが、ここで冬の今は床が冷え切っていて、靴を脱いで屋敷の中を歩いていると両足が芯から冷えて来る。太宰が暮らしていた当時、全部で19部屋もあるこの屋敷では、一体どれほどの量の薪を燃料に使ったのだろうか。

 この大きな屋敷の中をそれなりにゆっくりと見学させていただき、来た道を通って駅に戻ると、上りのストーブ列車が程なくやって来た。先ほど乗って来た列車が終点の津軽中里で折り返して来たものである。
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 津軽に鉄道がやって来たのは、意外に古い。官営鉄道として奥羽本線の青森・弘前間が開業したのは1894(明治27)年の12月だ。鉄路はそれから南に延びて、1992(明治35)年には秋田に達した。
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 次いで、鉄路は津軽半島地域にも延びていく。1918(大正7)年9月、奥羽本線の川部(弘前から2つ青森寄りの駅)と五所川原を結ぶ私鉄の陸奥鉄道・五所川原線が開業。それは大正時代が終わるまでの間に、日本海に面した鰺ヶ沢まで延伸していた。

 他方、秋田県の能代から海岸線沿いに北上する官営鉄道の能代線の建設が1908(明治41)年から順次進んでおり、1926(大正15)年の暮には秋田・青森両県の県境に近い岩館までが開業していた。そして、国は能代線と五所川原線を一体の鉄道として管理することを企図し、1927(昭和2)年6月に陸奥鉄道を買収。1936(昭和11)年に日本海側で南北の線路が繋がり、ここに現在の五能線が全通することになった。

 この陸奥鉄道の買収に際し、株主たちには当初の出資金の2倍を超える金額が払われたそうだ(額面50円の株式に対して115円!)。だが、昔の人は偉かったと言うべきか、巨額の金を手に入れた陸奥鉄道の株主たちは、「この資金で郷里にもう一つ鉄道を造ろう。」という意見でまとまる。そこで翌1928(昭和3)年に設立されたのが、津軽鉄道株式会社なのである。同社は直ちに鉄道建設に取り掛かるが、岩木川沿いの湿地は地盤が緩く、想定を越える難工事になった。そのためにかなりのコストオーバーランになったようだが、ともかくも1930(昭和5)年11月に五所川原・津軽中里間20.7kmが全通することになった。

 因みに、1930年というと太宰が21歳の年だ。それよりも前、彼は中学入学と共に実家を離れているから、この津軽鉄道開通には縁がなかったことになる。後の1945(昭和20)年に彼が東京から疎開して来た時には、この鉄道に乗ったのかもしれないが。

 こうしてスタートした津軽鉄道。だが、結果的に昭和恐慌の真っ只中で開業したために、当初は業績が振るわず苦労したようだ。地域の乗合バス事業を次々に買収して収入源を確保し、何とか危機を乗り越えたが、色々あって戦後はそのバス事業も手放している。

 金木駅から雪原の中に細々と続く単線鉄道のレール。今から88年前の津軽鉄道の開業時も、こんな風景だったのだろうか。
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 津軽鉄道が公表している直近の財務諸表は2年前の2015年度のものだが、それによると鉄道事業は▲25百万円の営業赤字。これに対して15百万円ほどの補助金を得ているが、最終損益は▲5.3百万円の赤字である。バランスシートには▲65百万円の累損を抱え、純資産は36百万円だから、このペースで赤字が続くと、7年後(→現時点からは5年後)には債務超過に陥ってしまうことになる。

 五所川原駅ではJRから津軽鉄道に乗り換える際にも跨線橋に改札口がないから、そうした乗客に対しては車掌が車内で改札を行っている。その際に使われるのは、乗車駅と降車駅の欄に車掌がハサミを入れる、昔懐かしい補助券だ。そして有人駅で発売する切符は、これまた昔ながらの硬券である。かつて鉄道が開通した頃から殆ど何も変わっていないようなこうした姿は、私たちからすればいつまでも残して欲しいと思うが、ビジネスの現状を見る限り、よほどの観光需要に支えられない限り、存続は非常に厳しいのではないか。そういえば、昨日・一昨日と回って来た田沢湖温泉郷や秋田縦貫鉄道がアジアからの観光客を引き付けていたのと比べると、今日は中国語も韓国語もかなり限定的にしか聞こえて来ない。
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 11:29 ストーブ列車での往復も終わり、私たちは五所川原駅に戻って来た。JRに隣接する津軽鉄道・津軽五所川原駅の駅舎は、いたって簡素である。
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 それから私たちは雪が舞う五所川原の中心街を歩き、海産物を扱う市場でゆっくりと昼食。食堂で買った丼飯を魚屋の前に持って行き、好みの刺身を注文するスタイルで、これがなかなかいい。そして、食堂のテレビのニュースでは、予報通り東京で大雪が始まり出したことを頻りに伝えていた。
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 食後は津軽鉄道直営の店でコーヒーを楽しみながら、五能線の列車を待つ。私たちが乗る13:20発の弘前行きが出ると、その次の列車は2時間51分後だ。それもまた、五能線の味わいである。
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 昨年に続いて、今年もまた真冬の東北を家内と旅した。厳しくも美しい自然。人と人の触れ合いの素朴な温かさ。そして、そこかしこに残る懐かしい日本の姿。冬の東北がまた一つ好きになった旅が終わろうとしている。

 川部駅で進行方向が逆になり、列車が弘前へと近づいていく時、窓の外には再び岩木山の大きな姿があった。
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続・冬は北へ (2) 秋田内陸縦貫鉄道 [自分史]


 1月21日(日)、田沢湖高原温泉郷のホテルで朝早く目が覚めた。窓の外は雪が舞っている。家内と私はそれぞれ朝の入浴に出かけ、少しゆっくりしてから朝食へと向かった。家内は昨夜の露天風呂で久しぶりに星空を眺めて楽しんでいたという。そうであれば、ここまでやって来た甲斐があったかな。

 8:30発の送迎バスでホテルを出発。9:00少し前に田沢湖駅に着き、暫くしてやって来た秋田新幹線の「こまち1号」に乗ると、9:34に角館に着いた。「大人の休日倶楽部パス」は新幹線も乗り放題だから楽なものだ。
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 角館では次の予定まで一時間近くの時間がある。今日は曇り空だが風がなく、北国ながらそれほどの寒さは感じない。せっかくだから、観光案内所に荷物を預けて、街中を少し歩いてみよう。家内と私は角館総鎮守の神明社という神社へと向かった。駅からは15分ほどの距離である。
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 中世の時代に角館の中心が今の市街の北部の古城山にあった頃から、その山の鎮守の神として人々に崇められていたというこの社。江戸時代の明暦期に佐竹北家によって現在の場所に移されたという。実際に訪れてみると、天照大神をお祀りし角館総鎮守と呼ばれるだけあって、境内はなかなかの風格を持っている。

 私自身、昨年に膵臓がんを患い、開腹手術や抗がん剤治療という経験をしてからは、家内と二人で神社を訪れることが多くなった。これから先、食生活を含めて健康には十分留意していくつもりではあるが、将来がんの転移が起きるのかどうか、こればかりはまだ何とも言えない。けれども、たとえどんなことがあったとしても、自分の命が続く限りは真っ当に生きて行こう。角館の天照大神にも、そのことを誓った。
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 神明社から角館の武家屋敷街へ向かうように歩いていくと、道の左側に立派な蔵を持つ味噌・醤油の蔵元があった。日曜日の朝10時を回ったところだが、開店しているようなので店内を覗いてみることにした。
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 江戸時代の明暦期以降、角館は佐竹氏の分家・佐竹北家による統治が続いたが、その佐竹北家の初代・佐竹義隣が京都の公家・高倉家からの養子であったことから、角館には多くの京文化が取り入れられ、「みちのくの小京都」と呼ばれるように独特の雅やかな文化が育まれて来た。今回訪れた老舗の蔵元にもクラシックな雛壇が飾られ、生け花も実に立派だ。家内も私も暫くの間、目の保養をさせていただいた。
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 角館には3年前の秋に家内と二人で訪れたことがある。http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2015-11-14 あの時に美しい紅葉に包まれていた武家屋敷の家並みは、雪の時期の今はどんな様子だろうか。街の中をまだ歩き続けていたい気持ちも十分にあったのだが、次の列車の時刻が迫っている。私たちは再び駅へと向かった。

 JR角館駅の北側に隣接して、小さな鉄道の駅がもう一つ。その駅舎も「小屋」と呼んだ方がいいぐらいのサイズだ。この角館とJR奥羽本線の鷹ノ巣を結ぶ全長94.2kmの単線鉄道、「スマイルレール秋田内陸線」の愛称を持つ秋田内陸縦貫鉄道である。

 私たちは角館を11:02に出る急行「もりよし2号」に乗るつもりで、「こんな冬の真っ只中にこのローカル線に乗ろうというもの好きなんてそんなにいないよ。」とタカを括っていたのだが、何と改札口の前に行列が出来ていて、しかもここでもマンダリンが飛び交っている。慌てて乗車券を買い求めて構内へ。たった一両のディーゼルカーはほぼ席が埋まり、危うく立席になるところだった。そして、改めて車内を眺め回してみると、乗客の半数以上はアジア系の外国人である。
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 昨日の田沢湖周遊といい、今日の秋田内陸線といい、この時期の日本観光としては相当ニッチな行先である筈なのだが、この盛況ぶり。いやはや、外国人によるインバウンドの観光需要には、私たちの想像を超えたものがあるようだ。

 そもそも日本人の中だって、地元の人々と鉄道マニアを除けば、秋田内陸縦貫鉄道という名前を知っている人はそんなに多くはないのではなかろうか。この鉄道の原型は、旧国鉄の阿仁合(あにあい)線(鷹ノ巣⇔比立内(ひたちない))と角館線(角館⇔松葉)という二つのローカル線である。
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(秋田内陸縦貫鉄道のルート)

 前者は日本三大銅山の一つだった阿仁鉱山から鉱石を運ぶために戦前に建設され、戦後に阿仁合から比立内まで延伸された。そして後者は、もうすっかりモータリゼーションの時代に入っていた1970年に開通し、列車は一日三往復だけという、生まれながらの超ローカル線だった。そして、両者を繋ぐ山岳区間の延伸工事が当時の鉄建公団によって続けられていたのだが、1980年の国鉄再建法の施行によって角館線と阿仁合線の段階的な廃止が決まったことから、鉄建公団の工事も中断。それを地元自治体の出資による第三セクターが引き継いで、JR発足直前の1986年に再スタートしたのが、この秋田内陸縦貫鉄道だ。未成区間が完成して全通したのは1989年4月のことである。

 降雪の中を、たった一両の急行「もりよし2号」は定刻に発車。ディーゼルエンジンの重厚な音を響かせながら、列車は白一色の景色の中をトコトコと走り始めた。乗客はそれを眺め、シンプルに喜んでいる。雪を見ることのない国からやって来た人達には、この北国のいささかクラシックな単線鉄道に乗ること自体が、非日常のわくわくするような体験なのかもしれない。
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 とは言え、この鉄道を取り巻く環境は非常に厳しい。沿線地域は「全国一の高齢化県」といわれる秋田県の中でも有数の高齢化地域だ。旧国鉄から引き継ぐ前年の1985年と比較すると、2010年の時点で沿線の人口は6割近くも減った。その傾向は勿論今も続いていて、それはこの鉄道の輸送実績に直接影響している。
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(秋田内陸縦貫鉄道の一日当り乗客数)

 一日当りの乗客数を月別に見ると、稼ぎ時は例年8~10月なのだが、そこは年々苦戦していると言わざるを得ない。だが不思議なことに12~2月の冬場だけは、少しずつではあるが輸送実績がコンスタントな改善傾向にあることがわかる。乗客の絶対数は年間で最も少ない時期なのだが、その季節の実績が意外と底堅いのだ。それは、例えば今日のような冬場の外国人旅行者によって下支えされていると見ることは出来ないだろうか。1月下旬から2月中旬と言えば、例年旧正月の時期である。

 戸沢という駅を過ぎて全長約5.7kmの真っ直ぐな十二段トンネルを抜けると、阿仁マタギ駅に到着。先ほどのトンネルによって分水嶺を越えたので、ここから先は米代川水系の阿仁川の渓谷を眼下に眺めることになる。両方の窓からの眺めは一段と山深く、雪に覆われたモノトーンの世界。こんな中を単線鉄道がダイヤ通り正確に運行されていることが、何だか不思議に思えて来る。
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 やがて、列車は阿仁合駅に到着。ここで台湾人の結構大きなグループが下車していった。このあたりはかつてのマタギの文化が残る地域。真冬の今はとりたてて景勝地がある訳でもないから、台湾からやって来た人達はきっと何らかの体験型観光を楽しみにやって来たのだろう。

 最近では「地方の活性化のために外国人観光客のインバウンド需要を上手く取り込もう。」ということが良く言われているが、その割には、彼らが日本の何に価値を見出しているのか、どんなことに魅力を感じているのかを、私たちは実のところあまり良くわかってはいないのではないか。今日、この列車に乗っている外国人たちも、決して鉄道マニアのように「乗り鉄」をしに来た人たちではないはずで、それでもこうして座席の半分以上を彼らが占めている。結局は私たち日本人が、祖国の風土や伝統文化をもっとしっかりと理解すべきなのだろう。それは自分自身への反省を込めてのことでもあるのだが。

 阿仁合を過ぎて、どうやら鉄路は下り勾配が続き始めたようだ。ディーゼルエンジンを稼働させた力走ではなく、空走をしていることが多くなり、静かな室内にカタンカタンという線路の継ぎ目の通過音だけが心地よく響いている。私は運転席の右側の窓に陣取り、雪の中に細々と続く鉄路を子供のように見つめ続けていた。
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 13:02 列車は定刻通りに終点の鷹巣駅に到着(JR奥羽本線の駅名表記は「鷹ノ巣」だが、秋田内陸線の駅名は同じ読みで「鷹巣」と書く)。そこで奥羽本線の弘前行がやって来るまで9分の待ち合わせなのだが、鷹ノ巣駅は何にもなくて寒い。空には雲を通して白い太陽の姿があるのだが、光の暖かさは伝わっては来ない。駅舎の外壁に掲げられた温度計は、ちょうど0度を指していた。
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 程なくやって来たのは二両連結の弘前行の電車。ロングシート車両なので通勤電車のようだが、これから大館を経て秋田・青森両県の県境へと向かうので、沿線風景は寂しい限り。奥羽「本線」とは言いながら列車ダイヤは一時間に一本あるかないかといった頻度だから、ローカル線色の極めて濃い区間である。

 それまでの道中にスマートフォンで受信したメールに返信したり、ミラーレス一眼で撮影した何枚もの写真を整理したりしているうちに、列車は青森県に入る。そして14:04に大鰐温泉駅に到着。寒々としたホームの向こう側では、弘南鉄道大鰐線の車両が発車を待っていた。
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 田沢湖駅から列車を乗り継いで来た私たちの旅も、今日の行程は終わりに近い。チェックインの時刻にはまだ少し早いが、私たちはタクシーで今夜宿泊予定のリゾートホテルに向かうことにした。設備はいいホテルだから、まだ部屋には入れなくてもロビーでゆっくりさせてもらおう。
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 広々としたロビーで特製の「りんご茶」を楽しみ、部屋に案内された後はこのホテルの名物の「りんご湯」につかり、私たちは津軽の夕暮れ時をのんびりと過ごすことにした。
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(To be continued)


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続・冬は北へ (1) 田沢湖 [自分史]


 1月20日(土)、天気はゆっくりと下り坂に向かっていた。

 冬型の気圧配置が崩れ、前日の午後から東北地方を覆っていた移動性高気圧が東に抜けて、弱い気圧の谷が日本海から近づいて来る。今朝のニュースで解説されていたのは、そんな天気図だ。私たちが目指している秋田県の田沢湖のあたりは、スポット天気予報によれば正午頃まで晴マークで、午後からは曇、そして夕方からは乾雪が降ることになっている。
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 こういう気圧配置の時は、東京は移動性高気圧からの東風で雲の出ることが多い。事実、10:20に東京駅を出た秋田新幹線「こまち13号」の車窓に広がる沿線風景は、北へ行くほど青空が多くなり、雪を纏った那須連峰や安達太良山、吾妻連峰、そして宮城蔵王がよく見えていた。

 11:54 仙台駅を発車。これからいよいよ東北地方の北半分へと入って行くのだが、高気圧が遠ざかっていく過程にあるから、車窓から眺める山の姿も、山頂まで含めてそのスカイラインは確認出来るものの、その輪郭も色彩もだいぶ淡くなりつつあった。12:10を少し回り、くりこま高原駅を過ぎて車窓の主役に踊り出た栗駒山(1626m)の姿も、どこか淡色水彩の絵を見ているかのようだ。
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 12:57 北海道新幹線の新函館北斗へ向かう「はやぶさ13号」から切り離されて、盛岡駅を離れた「こまち13号」は田沢湖線に入る。その時、右側の車窓に雄大な岩手山(2038m)の姿が。天気が崩れる前に何とか間に合った!
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 私はこんな風に、相変わらず窓の外の山の眺めに見とれてばかりだが、本来の趣旨に戻ると、今日は家内と二人で一年ぶりの旅行に出ている。

 昨年は4月初めに私の膵臓がんが見つかり、大急ぎで入院・手術、そして術後の療養と抗がん剤による治療という、人生始まって以来の大病への取り組みで、あっという間に過ぎてしまった一年だった。比較的早期の発見と適格な処置のおかげで、12月末の診察でその後の転移が起きていないことが確認されて抗がん剤の服用が終わり、半年後に経過観察を受けるだけの身になったことは本当に幸いだったが、ともかくも家内には大きな心配をさせてしまい、とりわけ術後の療養期間には手間をかけてしまった。ようやく、相応に自由の身となった今、JRの「大人の休日倶楽部パス」を利用して、東北の温泉で家内にも少しゆっくりしてもらおう。去年の暮に二人で計画して、今回の旅を決めていたのである。

 列車が雫石駅を出た頃、走って来た方向をふり返ると、岩手山の山頂はもう雲に隠れている。つい10分ほど前に車内からカメラを向けたのがラストチャンスだったのだ。いよいよ気圧の谷が近づいて来ている訳だが、今日の本当のお目当てである秋田駒ケ岳(1637m)はこの後に姿を見せてくれるだろうか。

 窓の両側の景色が一段と雪深くなり、奥羽山脈を横断する仙岩トンネルを抜けると、列車は秋田県に入る。間もなく田沢湖駅に到着。時刻はまだ13:10頃なのだが、曇り空の下ではもう少し夕方に近いような印象を受けてしまう。駅舎から外に出ると、さすがに寒い。
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 列車JR田沢湖駅に着いた時刻から15分の接続で、田沢湖一周の路線バスが出ている。それに乗り込んだのは私たちを含めて10人ほどなのだが、そのうちに気がついたのは、その中で日本人は私と家内の二人だけで、他はみなアジアの国々からの観光客だという事実だ。広東語やマンダリンが聞こえてくる。確かにこの先には秘湯として今や超人気の乳頭温泉や、私たちの目的地である田沢湖高原温泉、更には新玉川温泉などがあって、雪を眺める冬の温泉ツアーは外国人の間でも人気が高いのだろうけれど、それにしても、京都でも北海道でもなく田沢湖にやって来た彼らは、間違いなく日本観光のリピーター達なのだろう。

 駅前から生保内(おぼない)地区を抜けてしばらく北上を続けたバスは、やがて国道を左に折れて田沢湖畔へと近づき、そこから時計回りに田沢湖を一周。その途中、二ヶ所の景勝地でしばらく止まってくれる。丸い田沢湖を時計の文字盤に見立てると、凡そ8時の位置に「たつこ像」というこの地の伝説の女性の銅像が立つ場所があり、バスは約20分停車。私たちは歩いて湖岸に向かう。そして、そこで待っていてくれたのは、私が今回一番のお目当てにしていた秋田駒ケ岳の全容だった。
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 今日は極めてゆっくりと天気が下り坂になるパターンで、等圧線の間隔が広く、この時期にしては珍しいほど風がない。日本一の水深(423m)を誇る田沢湖の湖面は冬でも凍ることがなく、風がないから湖面は文字通り鏡のようだ。天気が何とか持ちこたえた上に、「逆さ駒」というおまけまで付いて、ここまでやって来た甲斐があった。寒がりの家内もすっかりその眺めに見とれている。そして外国人の観光客たちは、それこそ「自撮り棒」を持って大変なはしゃぎようだ。
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 乗客の全員を再び乗せてバスは出発し、続いては田沢湖のほぼ最北端の位置にある御座石(ござのいし)神社の前で10分ほど停車。この神社は600年ほど前の室町時代に、熊野権現を信奉する修験者が修験の地としてこの場所を選んだとのご由緒があるそうだ。事代主神(ことしろぬしのかみ)・綿津見神(わたつみのかみ)といった記紀に登場する神様と共に、この湖の竜神がご祭神とされている。中央の神様とローカルな神様とが合祀されているのはよくあることなのだが、それにしてもこの御座石神社は実にシンプルだ。鳥居の向こうには何もなく、ご神体は湖そのもの。簡素なこと極まりない信仰のかたち。これが日本なのだ。
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 ご由緒書きによれば、三神のご神徳は開運厄除、勝利成功、そして美貌成就だという。私と家内がそれぞれ何をお祈りしたのかはともかくとして、昨年の私の大病の後に、縁あってこのお社を訪れ、二人で田沢湖に向かって手を合わせる機会を持つことが出来た。何はともあれ、昨年以来多くの方々に助けられ、支えられて来たことに深い感謝を捧げつつ、この先も自分なりに真っ直ぐに生きていくことを誓わせていただこう。

 再びバスに乗り、田沢湖駅へと戻る間に、それまで見えていた秋田駒ケ岳はもうすっかりその姿を隠してしまった。電車の中から眺めた岩手山に続き、田沢湖畔から眺めた秋田駒ケ岳の姿は、先ほどの撮影時がラストチャンスだったのだ。そう思うと、今日は何か「持ってる」のかもしれない。15:00少し前に田沢湖駅に到着すると、そとはもう雪が舞っていた。

 暖房の効いた田沢湖駅の待合室の中には、周辺の地形を表した立体地図が展示されていてわかりやすい。途中二ヶ所での小休止を含めて田沢湖を時計周りに一周して来た私たちは、この後はホテルの送迎バスで秋田駒ケ岳の山裾を北上し、田沢湖高原温泉郷へと向かう予定だ。
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 送迎バスが来るまで30分以上の時間がある。駅前の土産物店を眺めていたら、見たこともない缶詰が目にとまった。
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 「熊の缶詰」とは何とも面妖な名前だが、ラベルを読むと、要するに醤油、味噌、生姜、砂糖、赤ワインで熊肉を煮込んだものだそうで、この近辺で獲れた熊を使っているという。そんなに量産出来るものでもないのだろうから結構なお値段だが、風変わりなお土産にはなるのかもしれない。

 やがてホテルのマイクロバスがやって来て、定刻に駅前を出発。国道341号を北上し、右に折れて県道271号に入ると、標高が上がるにつれて路上の雪は深くなる。右手の秋田駒ケ岳の西斜面にはたざわ湖スキー場が広がっているのだが、雪が舞っている今は山の上にガスがかかり、殆どホワイトアウトしているような状況だ。
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 駅からおよそ30分。16:10過ぎに、雪深い田沢湖高原温泉郷のホテルに到着。今日は東京駅発が10:20というゆっくり目のスタートだったが、田沢湖観光を済ませてこの時刻に投宿できるのだから便利なものである。夕食までにはまだたっぷり時間があるから、旅装を解いて早速温泉を楽しむことにしよう。
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 スキー客も数多く宿泊するこのホテルでも、アジアの国々の言葉が飛び交っていた。

(To be continued)


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隅田川テラス [散歩]


 都心から乗った東京メトロ日比谷線の北行きの電車が、三ノ輪を過ぎて地上に出る時、進行左側の窓から外を眺めていると、近づいてくるJR常磐線の高架との間に挟まれた狭い土地にちょっと大きなお地蔵さんを見下ろすことが出来る。
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 既に速度をかなり落とした電車は、その直ぐ先の南千住駅に到着。南口の改札口から猫の額のようなロータリーに出ると、向かい側にそのお地蔵さんが見えている。延命寺というお寺の境内に鎮座するそれは「首切地蔵」という縁起でもない名前のお地蔵さんで、なぜそんな名前がついたかというと、江戸時代に小塚原の刑場がこのあたりにあったからだ。常磐線の線路によって分断される前は、その北隣にある小塚原回向院と一体になっていて、要するに幾多の刑死者が埋葬された場所だったのだ。

 回向院の境内に入ってみると、幕末期の「安政の大獄」で処刑された橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎らの墓が並んでいる。そして、もう一つ忘れてはならないのが、ここは前野良沢、杉田玄白らによって刑死者の「腑分け」が日本で初めて行われた場所で、それに因んで「解体新書」の表紙のデザインをレリーフ化した「観臓記念碑」が置かれている。
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 おっと、いけない。目的地で電車を降りたとたんに道草をしてしまったが、今日は歴史探訪の散歩に来た訳ではなかった。駅前に戻って更に北へ進もう。JR貨物の隅田川駅を右手に見ながら、新興の高層マンション街を抜けて10分ほど歩くと、やがて隅田川の右岸に出た。

 岸の高さまで降りてみると、左側(=上流側)にトラス橋が見えていて、日比谷線の南行き電車が轟音を立てながらその鉄橋を渡るところだった。実はそこはメトロの日比谷線、つくばエクスプレス、そしてJR常磐線用のそれぞれのトラス橋が3つ並行する、鉄道風景としてはなかなか壮観な場所なのである。
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 おっと、いけない。今日は鉄旅をしに来た訳でもなかった。私はジョギング用の服装でここまでやって来た。これから隅田川の右岸沿いの遊歩道を、河口に近い勝鬨橋まで距離にして12kmほどなのだが、それをジョギングしてみようという魂胆である。今朝の東京は今冬一番の冷え込みとなったが、正午を過ぎたばかりの今は風もなく、冬晴れの太陽が眩しい。

 昨年の4月末に膵臓がんの開腹手術を受けた私は、その後の養生の過程で3回ほど隅田川沿いの遊歩道「隅田川テラス」を部分的に散歩していた。初回は術後2ヶ月ちょっとの7月初めに、両国駅から浅草駅までを恐々と歩いた。まだ体調は全く安定していない時期だったから、試運転そのものだ。その2ヶ月後の9月初めに、今度は永代橋から佃島を経て築地の勝鬨橋までを歩いた。少し元気が出て来た頃だった。更に、金木犀の香る10月初めには、京成関屋の駅を起点に水神橋を渡って浅草までを歩いた。そうした隅田川沿いの散歩を重ねるうちに、「本当に元気になったら、この隅田川テラスを千住から築地まで通しで走ってみたい」と思うようになっていた。

 既にこのブログにも綴って来た通り、術後の抗がん剤の服用も12月下旬で予定通り終了し、半年後の今年6月の経過観察までは病院に通うこともない身になった。体力の回復も概ね順調で、日帰りの山歩きにも特に問題なく行けている。ならば、この週末に隅田川テラスのジョギングを実行してみよう。年が明けて二週間。寒さは厳しいが、今この12kmを完走出来たなら、自分にとっても励みにもなることだろう。
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 汐入公園と呼ばれる一画の西端にあたる隅田川テラスの起点からジョギングを開始。そこは隅田川の大きな蛇行に沿って右カーブが続き、真昼の今は太陽を真正面に見ながら走ることになる。程なく汐入大橋・水神橋という比較的新しい橋を通過。そこから先は上述の通り散歩をしたことがあるので大体の様子はわかっている。白髭橋を過ぎるともう浅草が近い。
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 白髭橋の一つ下流側に桜橋というエックスの形をした歩行者専用のユニークな橋が架かっている。そこからは東京スカイツリーがもう見上げる高さまで近い。今日の起点からここまで凡そ3.5kmの距離である。
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 再び走り始め、言問橋を過ぎると、歴史を感じさせる、しかし重厚なだけでなくどこか優雅なスタイルのトラス橋が近づいてくる。1931(昭和6)年に竣工した東武伊勢崎線の隅田川橋梁だ。ちょうど上り列車が橋を渡って右手の浅草駅に進入するところで、列車は殆ど止まりそうなほどゆっくりとアプローチしている。
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 それもそのはずで、東武伊勢崎線のルートは隅田川を横断するや否や半径僅か100mほどの左急カーブを切り、最終的には川に並行した東武浅草駅のホームへと入って行く。従って、この間は15km/hの徐行にならざるを得ないのだ。
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 明治30年に北千住・久喜間で営業を開始した東武鉄道は、その後南北に鉄路を伸ばすも、隅田川を越えて都心への乗り入れを行うことにはなかなか認可が下りなかった。京成電鉄との激しい鍔迫り合いの末、昭和6年に念願の浅草入りを果たすのだが、当時東都最大の繁華街の一つだった浅草に線路を敷くのは大変で、そのルートも隅田公園に入らぬように配慮した結果、現在の急カーブになったという。橋のトラスの背が高くないのも同様に景観への配慮で、だから鉄橋の割にいかめしくない印象があるのだろう。
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 おっといけない、またしても鉄旅気分になってしまった。先を急ごう。浅草駅前のほぼ真下になる吾妻橋の西詰を潜り、なおも走り続けると、風格のあるアーチ橋が近づいてくる。1927(昭和2)年竣工の駒形橋だ。関東大震災後の復興計画の一環として新たに架けられた橋で、それ以前は渡し舟が行き来していたという。
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 春日通りが走る厩橋をくぐり、次の蔵前橋を過ぎると、再び大きなアーチ橋が迫る。JR総武線の隅田川橋梁だ。1932(昭和7)年、総武線の両国・御茶ノ水間の延伸のために架けられた鉄橋で、たった一つの長いアーチが印象的である。今日の起点から約6.5kmだから、コースの半分が過ぎたところだ。今のところ、お世辞にも速くはないが、私なりに順調に走れている。
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 さて、この橋を過ぎたら右手の陸側に上がるように気をつけていないといけない。この先は右手から神田川が隅田川に合流するため、遊歩道自体は一度途切れている。江戸時代には、ここから隅田川を遡って遊郭・吉原へと通う舟が多数出入りしていたという。
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 小さな橋で神田川を渡り、幅の広い靖国通りを横断して両国橋の西詰へ。その先から隅田川テラスが再び始まる。首都高の6・7号線を潜ったあたりから隅田川は少し東向きに蛇行。そのために新大橋を過ぎるあたりまでは走路が日陰になり、とたんに寒くなった。太陽エネルギーとは、やはり偉大なものなのだ。
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 それが、再び南方向にカーブしていくと正面に太陽が復活。眩しい光の中に現れるのが、優雅な吊り橋の清洲橋だ。そのクラシックな姿は見ていて楽しい。これも震災復興計画の一環として1928(昭和3)年に架けられたというから、今年で満90歳の卒寿だ。いつまでも大切にしたい景観である。
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 もう一つ首都高の下を潜る所があって(地上部分には隅田川大橋という一般道用の橋があるのだが)、それを過ぎるといよいよ永代橋が近く、そのどっしりとしてクラシックなアーチと、背後に並び立つ佃島の高層マンション群とが絶妙なコントラストを見せている。
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 永代橋の手前で日本橋川が右から合流するので、隅田川テラスはそこで再び途切れており、陸側で日本橋川を越え、永代通りを横断して永代橋の西詰から川に戻る。ここから先は昨年9月に家内と歩いたコースだが、あの時に比べると、冬晴れの下で高層ビル群が更にくっきりと見えている。

 コースが幾分西を向き、日本橋川の分流が右から合流するところで中央大橋を渡り、佃島へ。眺めの良いこの佃島の北端で360度のパノラマ写真を撮りたかったので、予定通りそこで小休止。隅田川の本流と豊洲運河に囲まれた「水辺の風景」がパノラマ写真には絶好の場所だと、前回来た時から思っていたのだ。今日の起点からちょうど10kmの距離である。


 さあ、残りは僅かになった。再び頑張ろう。佃島の北端から中央大橋を潜って南西方向へ。左手に住吉神社の境内をチラッと眺め、その先の佃大橋へと上がって隅田川の右岸に戻る。そして隅田川テラスに下りれば残りは1kmほどである。
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 何度か写真を撮りながらの行程になったので、ずっと走り続けた訳ではなく、タイムを意識するつもりもなかったからスピードは極めてゆっくりとしたものだったが、特段ペースを変えることもなく、呼吸の苦しさや足の疲れを感じることもなく、今日はこうして築地の近くまで走り続けることが出来た。昨年の秋に散歩をしていた頃は、隅田川テラスを走ることが出来るのはいつになるだろうかと思ったものだが、年明けから二週間後の今日、こうして12kmの道のりの完走を間近にしてみると、色々な感慨がこみあげて来る。何よりも、ここまで元気を取り戻したことについて、昨年4月の入院以降お世話になった、そしてご心配をいただいた多くの方々への感謝の気持ちで一杯だ。

 隅田川テラスが行き止まりになる勝鬨橋の真下。誰もいないその場所にゴールテープが張ってあるつもりで、私は今日のランニングを終えた。
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海と山と湘南カラー - 幕山・南郷山 [山歩き]


 「子供の頃の、それも記憶に残る一番古い部類の思い出を、何か一つパステルで描いてごらん。」

 そう言われたら、皆さんは何を描くだろうか。

 私の場合、それはきっと湘南のミカン山の風景になる。母の実家が小田原から二つ東京寄りの国府津にあり、就学前の小さな頃は随分と長い間逗留させてもらうこともあった。子供心にも気候が穏やかでのんびりとした土地だった。南側は一面の大きな海で、その後背地にはミカン山が続いており、冬でも鮮やかな緑の葉とミカンの実の優しいオレンジ色が青空によく映えていた。祖父母にとっては私が初孫だったから随分と可愛がってもらったものだが、そんな頃の象徴として記憶に残るのが、ミカン山の平和な風景なのだ。

 母の実家の北側には東海道本線が走っていた。私は祖父母に手を引かれ、多くの列車が行き交う様子を線路端で飽きることなく眺めていたものだった。戦後の東海道本線では、私が生まれる前の1950(昭和25)年に80系電車(いわゆる「湘南型」の電車)がデビューし、緑とオレンジの鮮やかなツートンカラーが戦後の新時代の一つの象徴になっていた。私が幼少の頃には、急行などの優等列車が1958(昭和33)年登場の新型電車153系に置き換えられつつあったのだが、普通列車では80系がまだまだ健在であった。それらを毎日眺めていた私にとっては、ミカン山の風景と80系電車のツートンカラーのイメージがまさに重なっている。
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 「黄かん色」(濃いオレンジ色)と「緑2号」(濃い緑色)のツートンカラー。「湘南色」と呼ばれるようになったこの色使いは、元々「よく目立ち遠くからも識別が可能」という理由から採用されたもので、湘南のミカン山のイメージというのは、実は後付けの理由であるそうだ。それでもこの湘南色の塗装は以後の国鉄の中距離用電車にも引き継がれ、全国各地の直流電化区間で見ることが出来た。それは現在のJRの電車の側帯としても使われている。また、川崎球場を本拠地としていたプロ野球・大洋ホエールズは、この湘南色に似たツートンカラーのユニフォームを一時期使用していたものだった。
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 2018年1月7日(日)、同年代の山仲間たちとの年初の日帰り山歩きは、私の音頭取りでコースに湯河原近郊の幕山(625m)と南郷山(611m)を選んだ。年初の寒い時期だから日差しの暖かい地域の低山を選び、久しぶりに山から海を眺めてみようという趣向だ。箱根の外輪山から続く山並みが北西側に連なっているために、富士山は見えないのだが、木々の葉が落ちた冬は相模湾から伊豆の東岸にかけての海の眺めが広がる山である。そして、私にとっては幼い頃の記憶を呼び覚ましてくれるような湘南のミカン山の風景が楽しみだ。
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 小田原から熱海行の電車に乗り換えると、そこから二つ目が根府川駅。昔からそうだったのだが、ホームからただシンプルに海の眺めが広がる、愛すべき無人駅である。ホームに設置されたフェンスの上辺と海の水平線とがちょうど重なり、朝日に照らされた海面がちょっと不思議な、けれども私にとってはどこか懐かしい風景だ。
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 根府川の駅を出て二つのトンネルを過ぎ、列車は程なく三つ目の真鶴隧道へと入る。実はここから真鶴駅までのルートは1972(昭和47)年から変更されたもので、それ以前は1924(大正13)年に開通した時の、現在よりも海よりのルートを3つのトンネルで真鶴に向かっていたのだ。私は進行左側の窓から目を凝らして見ていたのだが、真鶴隧道の手前には旧線の様子を見ることが出来なかった。旧線ではその付近に赤澤隧道の入口があり、それは海側の側面にアーチ型の窓が幾つも開いていて、そこから海の景色が見えるという、「眼鏡トンネル」の愛称と共に東海道本線の名物になっていた。私の幼少の頃の記憶にも明確に残っている。
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 ネット上では、廃線跡を訪れることが好きな人たちによって、この旧線の3つのトンネルの探訪記が幾つも掲載されている。今日の私には探訪の時間がなく、真鶴隧道の暗闇の中で幼い頃の記憶をたどるのみである。

 さて、8:53の定刻に湯河原の駅に降り立ち、今日のメンバー7人が揃った。今日の趣旨は乗り鉄ではなくて山歩きである。先を急ごう。

 登山口の幕山公園までは駅から路線バスを利用する予定だったのだが、乗り場に行ってみると、発車待ちのこのバスが結構混んでいる。私たちは2台のタクシーに分乗することにして、10分ほどで幕山公園のバス停に着いた。天気は上々。風もなく、東京よりも暖かい。そして青い空を背景に幕山の姿が大きく見えている。
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 9:15に登山開始。登山道はこの幕山の麓にある梅園への入口から始まる。関東有数の梅の名所だから、その時期になれば多くの人々で賑わうのだろう。今はまだ1月の初旬だから閑散としているのかと思いきや、意外に多くのクライマーたちが幕山の岸壁に取り付いていた。ここはロック・クライミングの練習場としても有名なのである。
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 幕山へは標高差425mほどの登り。梅園が終わり、その先の植林の中を歩く部分も直ぐに終わって、そこから先は落葉樹の森なので、今の季節は見通しが良く、空が明るい。順調に登って正味65分ほどで幕山の山頂に着いた。私たちの他には登山者が1人・2人といった静かなピークだ。見渡す空が一段と碧い。
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 小休止の後、山道を進む。標高差125mほどを下り、白銀林道を横切って森の中に入ると、やがて右手に自鑑水という小さな池が現れる。今から838年前、石橋山で平家打倒の挙兵をするものの敗れた源頼朝がここで自害を図ろうとしたが、池の水に映ったのは天下を平定した自らの姿であったことから自害を思いとどまったという伝説が残る。仲間のT君が近寄ってみたが、池の近くは底なし沼のような状態で、とても自らの姿を映す所までは近づけないという。或いはその当時からだいぶ水量が減ったのだろうか。
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 自鑑水から登山道を更に進むと、国土地理院の地図には載っていない林道の工事中で、地図通りの山道が一旦途切れている。森の中に張られたテープを見ながら、本来の登山道を私たちは何とか見つけたが、一般的にはこのルートファインディングはやや難しいのではないだろうか。
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 本来の山道を更に進むと、やがて南郷山の尾根に向かって竹が茂る中を直登する箇所が始まる。これがちょっとした緑のトンネルで、気分が変わって面白い。標高差40mほどを一気に登り詰めれば緩やかな尾根の上に出る。
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 11:20に誰もいない南郷山の小さなピークに到着。幕山からは40分ほどだ。相模湾を見下ろす暖かい日だまりで、こんなに穏やかな日和ならゆっくりと昼寝を決め込みたくなる場所だ。さあ、昼食にしよう。
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 この時期の山は寒いから昼食は何か暖かいものを作ろう、というのが当初からの計画で、湯を沸かして「鍋キューブ」でスープを作り、卸し生姜に斜め切りのネギ、エノキダケ、竹輪、市販の水餃子、それに「鍋ラーメン」を投入すれば出来上がりだ。眼下の海の眺めは遠く房総半島まで広がっている。H氏持参の「お屠蘇」で乾杯し、暖かい昼食をとりながら、私たちは至福の一時を過ごした。
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 気がつけば1時間を少し過ぎるほど、私たちは山頂での大休止を楽しんだことになる。さて、山を下ろう。ここから先は真鶴半島を見下ろした後、ゴルフ場の縁を通ってミカン山の中を下る1時間程度のコースだ。そしてその後は日帰り温泉が待っている。

 山頂から下り始めた途端に、海の景色が大きく広がる。今日はこれが楽しみだった。真鶴半島や伊豆の東岸、そして彼方の海に浮かぶ初島と伊豆大島。年が明けて一昨日には寒の入りを迎えたというのに、眼下に広がる湘南の海は何とも穏やかだ。いつまでも眺めていたい風景である。
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 その後、山道はしばらく山の南面をトラバース状に下るので、この海の眺めを連続して楽しめる。その後は尾根を下る道になるのだが、落葉が積もっていて滑りやすい下りだ。そして、不幸にもそこでメンバーの一人が左足首を捻って傷めてしまった。皆が持ち寄った物で応急手当をしたが、本人が痛がっている様子からすると、このまま予定していた山道を下り続けることは現実的でない。だが、不幸中の幸いというべきか、その場所から再び歩き始めて直ぐに、舗装道の白銀林道に出た。この林道を下りながら、可能なところまでタクシーに来てもらうことを考えるべきだろう。
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 本人の荷物を他のメンバーに担いでもらい、そして本人にはメンバーの一員の肩を借りて歩いてもらうことにして、私は皆よりも先に林道を早足で下る。携帯電話の電波は通じるが、自分たちの居場所をタクシー会社に理解してもらえる所までは行かねばならない。15分ほど、殆どジョギングのようにして下ると、林道にゲートが下りていてクルマの通行が遮断されていた。タクシーを呼ぶとしてもそこまでしか入れない。その先は「さつきの郷」という園地なのだが、オフシーズンの今は人っ子一人いない場所だ。私は道路を更に下り、湯河原美化センターという施設の前まで来て漸くタクシー会社と連絡を取った。やがて2台のタクシーが来てくれたので、先ほどのゲートのある場所まで上がってもらうと、それからさほど時間がかからずに仲間たちが順次到着。足を痛めた本人もよくここまで歩いてくれた。

 という訳で、ハプニング発生のために予定していた下山行程は途中で打ち切りとなったが、ともかくも私たちは湯河原駅前に戻り、怪我をした本人には自力で帰りの電車に乗ってもらうことが出来た。とはいえ、中学・高校時代の同級生たちを中心に週末日帰りの山歩きを始めるようになってから、今度の春で丸9年になろうとする中、山での行動中に怪我人が出たのは今回が初めてである。同じ時間だけ私たちも年齢を重ねて来た訳だから、昔は出来たのに最近は出来なくなってきた、というようなこともゼロではない筈だ。そして、下山中の転倒はもっと大きな事故にも繋がりやすい。今回のことを踏まえて、私たちはより慎重に、そして行動計画には余裕を持って山へと望む必要があるだろう。(今回も決して下山を急いでいた訳ではないのだが。)

 私の幼い頃の記憶に残るミカン山の穏やかな景色。けれど、それだって決して侮れない存在であることを、湘南のミカン山はこの歳になった私たちに教えてくれたように思う。

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ワルツと戦争 [歴史]


 2018年を迎えた。

 元日の朝、自宅マンションのベランダに出てみると、例年通り午前7:04頃にビルの右肩から新年初めての陽が昇る。大晦日は曇り空の一日だったが、今朝はすっきりと晴れている。こうして初日の出を眺めるのは、やはりいいものだ。
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 毎年元日は、午後に我家と妹の一家が都内の実家に集まり、母と早めの夕食を共にしている。今年は姪が年末からNYへ転勤になったので一人欠けたが、それでもこれまでと同じように母を囲んで賑やかに一時を過ごすことができた。

 共に23区内に住んでいて、クルマを使えば実家まで我家からは約40分、妹の家からは30分足らずなのだが、母にとって4人の孫たちはいずれも社会人になっているから、母の前に全員揃った姿を見せることが出来る機会は、一年の中でも滅多にないことだ。それだけに、独り暮らしの母にとっては元日の集まりを最も楽しみにしているのだろう。今年も元気で、心穏やかに過ごしてくれればと思う。
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 実家での元日の集まりを終えて帰宅すると、これも例年と同じようにウィーン・フィルハーモニーの「ニューイヤー・コンサート」のライブ中継が始まっている。今年の指揮者はイタリア人のリッカルド・ムーティー。私の学生時代、彼はまだ30代の後半で、フィルハーモニア管弦楽団で指揮をとる実に颯爽とした姿が印象的だったのだが、そのムーティーが今年喜寿を迎えるとは・・・。私も同様に歳をとる訳だ。

 ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートといえば、演奏プログラムのトリはヨハン・シュトラウス2世の「美しき青きドナウ」、そしてアンコールは彼の父親であるヨハン・シュトラウス1世の「ラデツキー行進曲」と決まっている。毎年変わらないのに、会場内は割れんばかりの大拍手。特にラデツキー・マーチに合わせて聴衆が手拍子で参加する時の場内の盛り上がりは元日の名物だ。いつになっても伝統を守り続ける、その「変わらなさ」が、世界が認めるウィーンの音楽文化の価値なのだろう。
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 このラデツキー・マーチは1848年の出来事に由来する。ナポレオン戦争後のウィーン体制に対して民族主義・自由主義を求める政治運動が欧州各地で激化し、「諸国民の春」と呼ばれた1848年、当時オーストリア帝国の領地であった北イタリアで起きた革命運動を鎮圧したヨーゼフ・ラデツキー将軍の軍功を称えて、ヨハン・シュトラウス1世が作曲したものだ。興味深いことに、その時に23歳の若者だった息子のヨハン・シュトラウス2世は市民革命側が優勢と考え、革命勢力を支持する作曲活動を行ったために宮廷との間に距離が出来てしまったという。(その後、彼は革命運動に嫌気がさして宮廷との関係を再構築するのだが。)

 この、明るく躍動的なラデツキー・マーチとは対照的に、優雅で気品のあるウィンナー・ワルツの「美しき青きドナウ」。だが対照的なのはその曲想だけでなく、実は時代背景も正反対なのだ。それは1848年の革命運動から18年後、オーストリアがプロイセンとの戦争に敗れた1866年の普墺戦争に由来している。

 神聖ローマ帝国の名の下で国土が小さな領邦国家に分かれ、国家統一が遅れていた現在のドイツ。その統一をオーストリア帝国内のドイツ人居住地域まで含めるのか、そうではないのか、そのあたりの路線を巡ってプロイセン帝国とオーストリア帝国が対立。両者が共同で戦ったデンマーク王国との戦争で勝ち取った北方の州の管理方法を巡って、遂に両者は干戈に及ぶのだが、1866年6月15日に始まったこの戦争は「鉄血宰相」ビスマルク率いるプロイセンが大勝し、8月23日には休戦。以後はプロイセンがドイツ諸邦の盟主として国家統一へと突き進んで行くことになる。

 ヨハン・シュトラウス2世の「美しき青きドナウ」が世に出たのは、この屈辱的な敗戦の翌年の1867年だった。ウィーン男性合唱協会からの依頼に基づく合唱曲で、「プロイセンに敗れたことはもう忘れて、楽しく愉快に行こう!」という趣旨の歌詞が用意された。そして、どういう経緯からなのか、その歌詞の内容とは全く無関係な「美しき青きドナウ」という題名が付されたという。だが、合唱曲としての評判は今一つであったようで、ヨハン・シュトラウス2世は程なくオーケストラ演奏のみのバージョンを発表。これが大成功を収め、後に「オーストリアの第二の国歌」と称されるまでになった。宮廷での華やかな舞踏会をイメージするような優雅なこのワルツだが、作曲された背景には、峠を過ぎて坂道を転げていくハプスブルク帝国の姿があったのだ。
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 1867年といえば、その年の秋の日本では、旧暦の10月14日に「最後の将軍」徳川慶喜が京都の朝廷に大政奉還を奏上。これに対して薩長の巻き返しによる王政復古の大号令が12月9日に発せられ、年が明けた1868年の1月3日には鳥羽・伏見で遂に戊辰戦争が始まる。薩長軍が掲げた「錦の御旗」によって戦意を失った慶喜は軍艦で江戸に逃げ帰り、そこから先は「勝てば官軍」の展開となって、3月13日には西郷と勝が会談。おかげで江戸の街は戦禍を免れ、9月には明治改元。そして明治天皇が京都を離れて江戸へとやって来る。要するに、大政奉還から一年足らずの内に日本は大変革を経験することになったのだ。ちょうど今から150年前のことである。
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 その時代から50年後の1917年、日本は大正時代の半ばに差しかかっていたのだが、ヨーロッパは再び大きな動乱期を迎えることになる。

 その時点で、1914年のサラエボ事件(オーストリア皇太子暗殺事件)に端を発した第一次世界大戦の勃発から足掛け4年。近代国家同士がそれぞれの全国民を巻き込んで総力戦を戦うという史上初めてのスタイルの戦争。しかも戦車や航空機、毒ガス等の新兵器が登場して膨大な戦死者・負傷者を出すことになった。こんな戦争を4年も続ければ、どんな国でも疲弊してしまい、厭戦気分が高まろうというものだ。事実、この年の3月にはロシアで革命が起こり、皇帝ニコライ2世が退位を余儀なくされてしまう。その後、この革命はレーニンの指導によって更に先鋭化し、11月には共産主義に基づくソヴィエト政権が樹立される。史上初の共産主義国家の誕生である。他方、1914年の開戦以来大陸の戦争には不介入方針を続けてきた米国が、この年の4月にドイツに対して宣戦を布告。戦局はドイツ・オーストリア側にとって急速に不利になっていく。
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 明けて1918年の1月、ウィルソン米大統領が「14箇条の平和原則」を発表。後のパリ講和会議の基調とすべき事項を早々と宣言して、戦後の国際秩序を米国が仕切ろうとする姿勢を見せる。そして11月にはドイツ国内でも兵士の反乱から革命が起きて、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命。ドイツは遂に休戦を宣言し、ここに第一次世界大戦がようやく終結。その翌日にはオーストリアが共和制へと移行し、ハプスブルク王家による支配は遂に終焉を迎えた。

 この年の7月にはロシア前皇帝のニコライ2世とその家族がソヴィエト政権によって処刑されていたから、前年11月のソヴィエト政権の誕生から僅か1年の間にロシア、ドイツ、オーストリアの三国で帝政が姿を消してしまったことになる。そして、ともかくも戦争は終わったが、疲弊した英国に代わって世界の中心に踊り出たのは米国だった。1867年から68年にかけての日本と同様に、1917年から18年のヨーロッパでは、何かのきっかけで始まり出した変革が驚くほどの速さで欧州各地を一気に駆け巡ったのだ。
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 因みに、第一次世界大戦といえば日本にとっては対岸の火事であったと受け止めてしまうことが多いのだが、実は日本も少なからずその影響を受けている。何といっても大戦景気が続いたために物価が上がり、しかも米英から頼まれてソヴィエト政権への干渉、すなわちシベリア出兵を行うことになったために米価が更に高騰し、それが富山県を震源地とする「米騒動」を誘発することになった。そうした事態に的確に対処出来ず、大きな批判を浴びた寺内正毅内閣はやむなく退陣。そして「平民宰相」原敬に組閣の大命が下り、陸相・海相を除く全ての大臣が立憲政友会の党員という初の本格的な政党内閣が誕生。以後、五・一五事件が起きる1932年までの間、日本は従来の藩閥政治に代わる政党政治の時代を迎えることになった。これも、1918年のヨーロッパがもたらした大変革の1ピースと捉えるべきなのだろう。
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(陸相・田中義一、海相・加藤友三郎以外は政党人だった原内閣)

 それでは、日本の明治維新から150年、そして第一次大戦終結前後のヨーロッパの大変革からちょうど100年、明けたばかりの2018年はどのような展開を見せるのだろうか。

 既に過去形で語ることになった2017年。振り返れば、シリア情勢に端を発した難民問題と、それを排斥する極右思想の広がり、無差別テロの横行、揺れ動く中東情勢、太平洋を挟んだ米中の派遣争い、そして北朝鮮問題など、何れも2016年から抱え続けて解決の方向性が見えないままになっていた世界の諸問題が、年初からの「トランプ旋風」によって一層ややこしくなってしまった、そんな一年ではなかっただろうか。

 その一方で世界レベルでの歴史的な低金利が続き、この何年か巨額の緩和マネーが供給されてきたこともあってか、世界経済は総じて底堅く、IoT(物のインターネット)やAIをはじめとするITの世界は着実に進歩を続けており、政治面での国際情勢がどうであれ、ITを通じた第四次産業革命は今後も一段と加速しそうな勢いである。けれども、行き過ぎた株主資本主義や経済のグローバル化がもたらした格差の拡大は社会の分断をもたらし、「資本主義の限界」が指摘されている。

 加えて吾々が決して目を逸らしてはならないのが、人類の経済活動が自然環境に与え続けて来たインパクトの深刻さだ。世界各地で今までに例を見ないような規模の自然災害が相次いで発生しているのは、決してそのことと無縁ではないだろう。
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 それらを踏まえて2018年を展望する時、先に述べた今から150年前の日本、そして100年前のヨーロッパの史実が示唆するものは、旧制度がもはや存続不能な状態に陥ると、それが崩壊して大変革が起き、周辺国を巻き込んでいく、そのスピードは私たちが一般に想像するよりも遥かに速いものだ、ということではないだろうか。

 来年の元日にウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを再びテレビ鑑賞する際に、きっと変わることなく演奏されるであろう「美しき青きドナウ」を、私たちはどのような気分で聴くことになるのだろうか。少なくとも、「あの戦争の惨禍を忘れよう」という150年前のスタイルは御免蒙りたいものである。

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感謝 [自分史]


 12月28日、木曜日。会社が御用納めになるこの日の東京は、朝からくっきりとした冬晴れの空が広がっていた。朝の通勤電車の窓から見えた富士山の姿には、まさに「屹立」という言葉が相応しい。山の南東側には雲が渦巻いていたから、強い北風が吹きつけているのだろう。いよいよ真冬の到来である。

 朝から机の周りの片づけに取り組んでいた私は、昼前に会社を抜けて再び電車に乗り、途中の駅で家内と落ち合う。そして東京湾岸の駅に降り立ち、地上の改札口を出ると、硬質ガラスのような冬の青空の下にいつもの病院の建物の姿があった。

 「これはこれでなかなか美味しいじゃない。」

 野菜カレーを口に運びながら家内が微笑む。再診受付と血液検査を済ませた私は、院内にあるレストランで家内と昼食をとっていた。丸の内のお堀沿いに本拠を持つ有名レストランがこの病院の中にも店舗を出している。この病院にお世話になることになったのが今年の4月。それから既に9ヶ月の月日が流れたことになるのだが、このレストランで食事をしたのは今回が初めてだった。

 「ここでこんな風に普通の食事が出来るなんて、入院していた頃は想像も出来なかったからなあ・・・。」

 讃岐うどんをすすりながら、私もちょっとした感慨に囚われていた。そもそもこの病院にお世話になること自体が、今年の春を迎える前は想像すら出来なかったことだったのだから。
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 今年の4月5日に、高校時代の同級生S君が院長を務める都内の消化器内科クリニックでたまたま胃カメラを吞んだ時、前後して行われた超音波エコー検査で膵臓に病変らしきものがあることが判明。初期の膵臓がんが疑われ、S君がこの病院への入院と手術を大急ぎで手配してくれて、4月25日に開腹手術を受けることになった。そのイキサツと以後の経過については、既に何度かこのブログにも記載してきた。

 術後は延べ25日ほど入院し、7月中旬からは、今後のがん転移の可能性をゼロに近づけるために抗がん剤服用を開始。二週間服用して一週間は休み。それを8サイクル繰り返すというプログラムで、それが先週の12月21日で終了。その前日の20日にCT検査を受け、今日は主治医からその結果の説明を聞く予定になっていた。13:30から執刀医で消化器外科のA.S.先生、続いて14:00からは抗がん剤治療の指導をしていただいた消化器内科のT.S.先生の診察予定なのだが、年内最後の診療日とあってか院内は普段より混雑しているから、なかなか時間通りには行かないだろう。
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 「膵臓がんを疑う」という所見をS君から聞いたのは、もちろん私にとっては思いも寄らぬことだった。自覚症状が何もなかったから仕方がないのだが、膵臓がんというのはそういうものだそうで、だからこそ発見が遅れ、しかも進行が速いために、判明した時には手遅れで手術も出来ないというケースが非常に多いという。「がんが見つかってから半年ほどで亡くなってしまった」というような話は膵臓がんであることが多い。ところが私の場合は、全くの偶然ながら比較的早い段階で見つかったので、今なら手術が出来るという。事態の重大性が自分でもまだ十分飲み込めていないが、ともかくも旧友S君や執刀医A.S.先生の所見に全面的に従って、私は開腹手術を受けることにした。5月の連休に入る直前、新緑のきれいな頃だった。

 膵臓の半分と脾臓、胆嚢、二つある副腎の片方、そして周囲のリンパ節を切除した上で、膵臓の切除面に小腸を被せるように繋ぎ替えるという、5時間にわたった開腹手術。問題の膵臓がんはステージ2で、切除した部位の中のチェックポイント68箇所中、2箇所に転移があったという。従って、術後2ヶ月ほどが経過した頃から、今後の転移の可能性を極力ゼロに近づけるべく、抗がん剤の服用を一定期間続けることになった。そして、一般論として膵臓がんは予後も良くないケースが多いということも言い含められた。

 還暦になってから初めてこのような手術を経験することになった私にとって、開腹手術とは想像以上に体への負担が大きいものだということを、私はそれから思い知らされることになる。特に小腸をいじれば必ずそうなるとのことなのだが、手術以降なかなか下痢が治らず、当分の間は食欲も湧かず、カステラと牛乳ぐらいしか喉を通らない。加えて季節は次第に暑くなる時期だから、体は汗をかく。6月8日の退院後から比較的早く職場に復帰はしたものの、栄養失調と脱水症状で体が思うように動かず、正直言って電車の中で立っていることさえ辛いような状態だった。

 しかも、そんな状態が続く中で7月中旬から抗がん剤の服用が始まると、その副作用の辛さが上乗せになる。私の場合は抗がん剤の量を調整することで副作用はそれでも軽い方だったのだが、味覚障害が最初の頃は激しく、何を食べても美味しくなく、それでなくても細い食が更に細くなってしまう。手術から3ヶ月の間に体重は14kgほども減ってしまい、体から筋肉が随分と失われてしまったことに気分が落ち込んだ。

 こんな状態がいつまで続くのか、回復することはあるのか、いずれは歩くことさえ出来なくなってしまうのではないか・・・。先の展望がなかなか見えなかった7月末頃が、自分にとっては一番辛い時期であったと今にして思う。がんの宣告を受けてもつとめて深刻には受け止めず、「それもまた運命。ジタバタしても仕方がない」と考えてきたつもりだった私も、次第に「遠からずやって来る死」を意識し始めることになる。エンディング・ノートを作らねばならないかなと考えるようになったのも、この時期だ。そして、頻りにバッハのオルガン曲を聴くようになっていた。
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 体調が少しずつ安定の兆しを見せたのは、8月のお盆の時期を過ぎた頃だった。抗がん剤の副作用としての味覚障害は続いているものの、食欲がそれなりに回復し始めていた。まだ思い出したように下痢が起きたりはしていたのだが、オフの時間に起き上がって何かをすることが以前よりも楽になり始めてもいた。そして、自分にとって少し自信がついたのが、8月最後の日曜日に上毛電鉄の名物電車デハ101を見に、北関東まで半日の乗り鉄&撮り鉄に一人で行けたことだった。
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 これぐらいの時期に体力の回復が始まることを見越してのことだと思うのだが、三週間に一度の経過観察の時に、内科医のT.S.先生から「そろそろ適度な運動を行うことも心掛けて下さい。」とアドバイスを頂くようになった。それに従って、おそるおそるジョギングを始めてみる。最初はまず2km、次は2.5km、問題がなければその次は3km、という風に徐々に距離を伸ばしていった。始めてみると、痩せて体が軽くなった分だけ走りやすい。まだ残暑の続く頃だったが、体を動かして汗をかくことの爽快さを私は久しぶりに思い出していた。そして、9月下旬には2泊で東北地方にある我社の工場へ出張。10月最初の日曜日には、山仲間のH氏が付き添ってくれて、高尾山を徒歩でゆっくりと往復することが出来た。毎日の通勤電車で座る席を探す必要もなくなり、立っていることには問題がなくなっていた。
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 会社の仕事が俄かに忙しくなり始めたのも、この秋になってからのことだった。11月の上旬には社長と共にドイツへ一週間の出張。今のビジネスクラスはフル・フラットの座席なので、往復のフライトも特段辛いことはなく、現地でも(食べ物には用心する必要があったものの)大きな支障はなかった。そして、日曜日の日帰りの山歩きにはその後2回ほど出かけることになる。抗がん剤の服用は続いていたが、自分ががん治療中の身であることをあまり意識しなくなっていた。
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 もっとも、術後をこんな風に過ごすことが出来たのは、何といっても家内が全面的にサポートしてくれたことのおかげである。手術によって膵臓の半分を失った訳だから消化能力は落ちており、私にはなるべく脂質の少ない食事を続ける必要があった。そうなると、特に最初のうちは食べられる物が限定列挙されるような状態なのだが、家内は色々と工夫を凝らして、私の体に極力負担のない、それでいて単調なメニューにならないよう配慮を重ねてくれた。そして、社食では揚げ物などが多くて心配だからと、毎日の弁当も用意してくれた。更には、三週間に一度の経過観察にも必ず同行してくれたので、医師のコメントを常に二人で共有することが出来た。

 実父を胃がんで失っている家内は、私が膵臓がんの宣告を受けたことを当の本人よりもずっと深刻に受け止めていた筈で、きっと多くの不安を抱えて来たことだろう。それでも、二人の子供たち共々、私の前ではつとめて明るく振る舞ってくれた。そのことには何と言って感謝したらいいのだろう。私の体調がなかなか安定せずに苦しんでいた頃も、家内には決して我儘は言うまいと、私は心に決めていた。
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 時計は既に14:00を回っている。しかし、首から吊り下げている呼び出し用の機器は沈黙を続けたままである。今日は診察が終わったら会社に戻り、17:00からの納会で社員に向けて一言述べた上で乾杯の発声をしなければならない。ここから会社までは一時間近くかかるが、はたして間に合うだろうか。そんなことが少し気になりだした14:30過ぎに、呼び出し機が震えて「診察室51-7へお入り下さい。」というメッセージが小さな液晶画面に表示された。予約の順番とは異なり、消化器内科の診察が先になったようだ。

 「今日はA.S.先生の診察が遅くなっているようなので、私の方から先に説明しちゃうことにしました。」

 いつもの穏やかな語り口で、内科医のT.S.先生の診察が始まった。机の上のモニターには、先週の水曜日に受けたCT検査の画像が映し出されている。

 「A.S.先生からもあらためて説明があると思いますが、CTの画像からは、がんの転移は見られませんね。特に心配なところもありません。今日の血液検査の結果にも特に問題はありませんから、TS1(抗がん剤)による治療は予定通りこれで終了になりますね。後は今後の経過観察のタイミングについて、A.S.先生からお話があるでしょう。」

 「食事については、今後も脂質の多い物や甘い物(果物を含む)を摂り過ぎないよう注意することと、消化器の動きを活発にする意味で、適度な運動には積極的に取り組んで下さい。」

 今年の7月以降、三週間毎に経過観察の診断を受けて来たから、T.S.先生も私たち二人の様子はよくわかっておられる。

 「まあ奥様の前ですから、アルコールは一応その・・・、飲まないに越したことはないですが・・・、お屠蘇ぐらいなら・・・。」

と、ニコニコしながら慎重に言葉を選び、「まあ、上手くやって下さい。」ということを言外に匂わせていた。

 こういう内容だったので、T.S.先生の診察は10分ほどで終了。この夏以来お世話になったことへの心からの謝礼を述べて、私たちは診察室を出る。それから15分ぐらいして再び呼び出し器が震え、今度は消化器外科で私の手術をして下さったA.S.先生の診察室へ。膵臓がんの手術では日本で最も多くの数をこなしておられる外科医のお一人である。

 検査結果の説明内容はT.S.先生と同じで、今後は4~6ヶ月毎に経過観察を行う旨のお話があり、次回は来年6月21日に決まった。血液検査とMRI検査を行い、検査に続いてA.S.先生の診察を直ぐに受けられるそうだ。今回の件で文字通り私の命を救って下さった先生に深々と頭を下げて、私たちは病院を後にした。
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 現時点でがんの転移はみられず、抗がん剤治療がひとまず終わった。今後は4~6ヶ月毎の経過観察。朗報である。それを聞いて確かにホッとしたことは事実だ。けれども、そのことに飛び上がって喜ぶというよりも、寧ろかえって身の引き締まる思いがした、というのが私の偽らざる心境だった。

 私が膵臓がんの宣告を受けて以来、本当に多くの方々に助けられ、支えられて、ここまで来ることが出来た。何といっても、病変の早期発見とその後の処置に尽力してくれた旧友S君、入院の前後から幾多の心遣いをしてくれた山仲間のH氏とT君、日曜日の礼拝のたびに私の回復を神に祈ってくれたという旧友Y君をはじめ、私のことを心配していただいた全ての皆さん。そのご厚意の数々があらためて胸に沁みる。仕事を通じて親しくなったドイツの設備メーカーの機械技師のPさんは、クリスマスイブの日曜日にわざわざメールを送ってくれた。
 We wish you for the next year all the best and especially the most important “health”.
そして、きっと大きな不安を抱えていたに違いないのに、常に明るく振る舞ってくれた私の家族・・・。私は何と幸せな環境にあるのだろう。

 これらの御恩に報いるために私がこれから行うべきことは、自分に与えられた命が続く限り、曲がったことをせずにしっかりと生きて行くことだろう。目先の検査結果はともかく、大事なのはこれから先のことである。多くの皆さんに支えられて来たことを背広の内ポケットに大切にしのばせて、前を向いて行こう。

 病院の外に出ると、15:30の太陽はもうだいぶ傾いていたが、鮮やかな冬晴れは続いている。この春以来何度も通った駅までの道を、もちろん家内と手を繋いで歩いた。

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難を転じて - 生藤山・陣馬山 [山歩き]


 「おっ、ようやく朝日が出たな。」

 山仲間のT君が電車の窓の外を眺めながら呟いた。

 12月10日、日曜日。東京の日の出は午前6時39分だ。その日の出の17分前に新宿から乗った中央特快に揺られ、私たちは山を目指している。今朝5時半過ぎに家を出た時、もちろん外は真っ暗で、下弦の月が空高く昇っていた。冬至まであと12日。一年で最も夜明けが遅い時期である。

 途中の国分寺でK氏が合流。そして立川で大月行の普通列車に乗り換える時に、鎌倉から長駆やって来てくれたK女史が合流して今日のメンバーが揃う。上野原駅で下車し、タクシーで石楯尾(いわたてお)神社の前に着いたのが7時45分頃。あたりの集落では東向きの里山にようやく朝日が当り始めた頃で、さすがに冷え込みが厳しい。畑は霜にびっしりと覆われていた。
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 生藤山(990m)への登山口へと向かう舗装道の両側には、やけにシュールな案山子が立っている。まだあたりが多少薄暗いこともあって、私は本物の人影かと一瞬思ってしまったほどだが、カラスもなかなか賢いから、これぐらいのことをしないと追い払えないのだろうか。
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 やがて舗装道が里山への入口に差し掛かったところで生藤山への山道が左に分かれ、植林の中を佐野川峠まで標高差にしてちょうど300mほどの登りが始まる。地形としては西向きの谷の中を上がっていくので、今の季節だとほぼ一日を通して太陽を拝めない場所だ。それだけに寒さは一段と厳しく、手先が何とも冷たい。
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 今日はこれから佐野川峠へ上がり、その後は尾根伝いに三国山(960m)・生藤山(990m)・陣馬山(857m)を経て陣馬の湯(陣谷温泉)まで約12.5km、標高差が上り約1,300m、下り約1,400mのコースを歩く。もう何度も歩いたことがあるので様子はわかっているのだが、今年の4月25日に膵臓がんの手術を受けて以来、私にとってリハビリを兼ねた山歩きは今日が3回目。前回(11月3日)は相模湖方面から小仏城山・景信山を経て小仏バス停へと下りる8km程度のものだったから、今回は私にとってハードルを一段上げたことになる。このところの体調から考えれば歩き通せると確信はしているが、ともかくも自分の体の様子を注意深く確認しながら歩くことにしよう。
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08:06 登山道入口 → 08:37 佐野川峠 → 09:00 甘草水 → 09:23 三国山

 佐野川峠を目指して山の斜面をつづら折れに登って行く山道。最近になって植林に手が入れられているのか、以前よりも谷の中が幾分明るくなったような印象がある。傾斜はわりと一定していて、ともかくも植林の中を黙々と登って行く道だ。今日、私は4人パーティーの先頭を歩かせてもらうことにして、自分のペースで登る。山へ行く時はいつも同じで、歩き始めは体が慣れるまで登りが少し辛いが、しばらく我慢すれば自分なりの「巡航速度」が出来てくる。特に息が上がることもなく登り続け、頭の上に見えていた山の尾根が右手から近づくと、佐野川峠はすぐ先だ。

 日陰の寒い谷を登り続け、日の当たる尾根に上がったとたんに体一杯に感じる太陽の暖かさ。懐かしいその感触は、学生時代に本物の冬山をやっていた頃を思い出させてくれる。その当時とは山のグレードを比べるまでもないが、あれから40年ほどが経った今もなお山を歩いていることの幸せを、改めて思う。
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 尾根に上がれば一転して山道の傾斜も緩くなり、太陽の暖かさも手伝って私たちの会話も弾む。談笑しながら歩くうちに桜の名所でもある甘草水のベンチに到着。ここからもお目当ての富士山が見えるのだが、藪を通しての眺めだったのでごく短い休憩にとどめ、更に20分ほど登って三国山の山頂に出た。

 春や秋ならば三国山の山頂は多くの登山者で賑わっているが、今日は師走の第二日曜日。それに上野原からの路線バスに乗った場合よりも30分早く登山を始めたので、山頂には私たち以外に二人ほどしか登山者がいない。そのひっそりとした山頂で、今までにこの場所から眺めた中で最もクリアーな富士山の姿を、私たちは見つめ続けた。
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 青く澄んだ冬空の下、西の方角には雪を抱いた南アルプスの悪沢岳(3,141m)、赤石岳(3,112m)、そして奥聖岳(2,979m)が見えている。こんなに素晴らしい天気になるなら、もう少し山梨県の中央部に近い山から南アルプスを眺めてみたかったな。そして、こんな日に限って望遠レンズを持って来なかったことを、私はいささか後悔していた。
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09:33 三国山 → 09:41 生藤山 → 10:32 山の神 → 11:35 和田峠 → 12:10 陣馬山

 三国山からの富士山の眺めは実に素晴らしいのだが、じっとしていると再び手がかじかんで来る。先を急ぐことにしよう。山道を進むと、すぐ先に生藤山のピークに上がる道と巻き道とが分かれている。ここから先はさしたる展望もないピークが幾つか続くアップダウンの大きな箇所で、それらを全部巻き道でパスしてしまってもいいのだが、「生藤山には行ってみようよ。」とT君が言うので、今日のコースの最高峰に敬意を表して直登コースを選ぶことにした。ここだけはちょっとした岩稜になっていて面白いのだ。

 そして、生藤山のピークに上がって後ろを振り向くと、ちょうど富士山の方角だけ展望が開けていた。私たちは再び、富士の眺めにしばし見とれる。「〇〇と煙は・・・」と言われそうだが、やはりピークには上がってみるものなのだ。
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 生藤山から先しばらくの間は、細かなアップダウンはあるものの概ね水平な山道だ。このあたり、春先は新緑が目にも鮮やかで私はとても好きなコースなのだが、日陰になる箇所では先週あたりの雪がまだらに残っていて、寒々とした冬景色だ。それでも山道が南側に回り込めば角度の低い日差しが眩しい。落葉を踏みしめながらのんびりと歩き続けたい道である。
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 連行峰という名のピークを巻き道でやり過ごすと、山道は大きく下降を始める。それを概ね下りきったところで生藤山からほぼ1時間を経過したので、小休止。今日は日本海の低気圧に向かって弱い南風が吹くパターンなので、関東南部は小春日和。山の上も日なたは随分と暖かい。小休止の間に眺めた落葉樹の森も、初冬というよりは晩秋の佇まいだ。
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 そこから先は和田峠まで、何ともとりとめのない森の中のコース。特にカメラに収めたくなるような眺めもない。独りで歩く時はトレール・ランニングのようにすっ飛ばして行きたくなる箇所なのだが、今日の私はまだリハビリ第3弾の最中だから、それは止めにして引続き巡航速度で歩く。

 11:35に和田峠に到着。小休止の後は、陣馬山のピークへ今日最後の登りが待っている。距離は700mほどのものなのだが170mほどの標高差があり、その取り付きから急な階段が始まる。まあ、それでも30分足らずの我慢だ。
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 三ヶ所に分かれた階段を登りきると一気に展望が開け、草原状の陣馬山頂への最後の登りになる。振り返れば奥多摩の大岳山(1,267m)がだいぶ大きくなってきた。
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 今朝、そこから富士山を眺めた生藤山が、広い谷を隔てた向こう側に見えている。私にとってのリハビリ第3弾の今日の山歩き。ここまで特に問題もなく歩いて来られたのは何よりだ。
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 山頂の茶店のそばに、ちょうどテーブルが一つ空いている。私たちは荷物を降ろし、用意してきたオニオン・スープを温めて昼食を楽しむことにした。明るい太陽に照らされて、背中は暑いぐらい。ここまで気温が上がれば、富士山はムクムクと沸き上がる雲に隠れてしまってもおかしくないのだが、今日はすこぶるご機嫌がいいようで、正午を回った今もその堂々としたピークを見せてくれている。何とも良い山日和になったものだ。
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13:05 陣馬山 → 14:20 陣谷温泉

 山を下る。今日のコースがありがたいのは、下山ルートが比較的短くて、降りれば温泉が待っていることだ。陣馬山頂から景信山方向へ山道を少し進むと、栃谷尾根を下る山道が直ぐに右に分かれる。瞬く間に階段状の下りが始まり、とんとん拍子に降りて行く。私たちも、ここまで来たからには早く温泉に入りたいという思いが既に頭の中を占めているので、4人とも快調に山道を下った。

 山頂から40分ほどが経過したところで、植林の中を下る山道が終わり、茶畑や柚子の木が並ぶ集落の上部へと出た。奥多摩から奥高尾・陣馬あたりの山歩きは、山から下りて来て出会う山里のどこか懐かしい風景に出会えることが嬉しい。
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 今年4月25日に私が膵臓がんの手術を受けてから、今日で7ヶ月半。医師から示されている予定では、夏から続いた抗がん剤の服用によるいわゆる化学療法も、残すところあと10日余りとなった。幸い、秋を迎えてから体力が目に見えて回復し、今日のようなコースを特に問題なく歩くところまで何とか漕ぎつけることが出来たのだが、それを待っていたかのように仕事も忙しくなって、先月は結果的に月の半分を国内外へ出張していた。

 「大きな手術を受けた身なんだから、これからは健康第一。仕事は程々にね。」

 多くの人々がそう言ってくれるのだが、マンパワーが決して潤沢ではない会社の実情は何も変わっていないのだから、現実的には自分が責任を持つことからそう簡単に手を抜けるものでもない。先週あたりは根を詰めたパソコン作業を続けたことで、肩や背中の張りが結構辛くなっていた。

 それがどうだろう。今日こうして同い年の山仲間たちと初冬の低山を楽しく歩き、遥かな富士を眺め、そして山里の懐かしさに包まれながら和やかに半日を過ごしただけで、このところ溜め込み始めていたストレスはもうどこかへ行ってしまったようだ。肩もすっかり軽くなっている。やはりそれが山歩きの効用と言うべきものなのだろう。最良の時間を与えてくれた穏やかで美しい日本の国土と、いつも心優しい山仲間たちに、改めて感謝を捧げたい。
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 山里を更に下って行くと、民家の石垣に南天が鮮やかな紅の実を結んでいた。

 その読みが「難を転ずる」に通じることから、縁起物として用いられて来た南天。がんの手術を受けた私などは、特に良く拝んでおくべきものなのかもしれない。

 確かに、自分にとって今年の4月以降は大きな試練ではあったが、以前と比べてスリムになったことで体を動かしやすくなってはいるし、膵臓が半分になってしまったものの、家内のサポートを受けて日々の食事に大きな注意を払いながら過ごして来たことは、以前よりもずっと健康的な生活に繋がっている。知人・友人たちと飲み歩くことがなくなったことには淋しさがあるものの、逆にそれが自分の時間の使い方の見直しにつながったことは前向きに捉えるべきなのだろう。

 南天の実にあやかって、来年もしっかりと生きていこう。

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