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願いと祈り [自分史]


 10月9日(月)、三連休の最終日の東京は前日に続いて季節外れの夏日となった。私は午前中から既に二つの用事をこなし、今は家内と二人で四谷の駅前を目指して歩いている。地表付近の天候がどうであれ、太陽の動きはきっちりと暦通りだから、午後4時に近くなると早くもその光には赤みが差してきて、その限りではいかにも秋なのだが、歩いていると半袖でも汗ばむような陽気とのミスマッチが何だか不思議だ。

 JR四谷駅の麹町側に出ると、目の前が上智大学のキャンパスだ。その駅寄りの角地に建つカトリック麹町聖イグナチオ教会。かつては主聖堂のクラシックな姿がこの辺りの景観のシンボル的な存在だったのだが、老朽化により1997年に取り壊され、1999年に現在の楕円形の建物になった。それからもう18年も経つのだが、旧聖堂が姿を消して以降、四谷の駅前を通りかかったことがなかった訳ではないはずなのに、今の聖堂を改めて見つめてみるのは、もしかしたら今回が初めてだったのかもしれない。
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 その楕円形の姿がどこか音楽ホールのような主聖堂を左に見ながら敷地の中を進むと、正面に植え込みの緑が豊かな低層の建物があり、二階のテラスのような場所から旧友のY君が手を振りながらこちらを見ている。私もそれに手を振って応え、家内と共に外階段から二階へと上がる。そして、久しぶりにY君と握手。「元気そうでよかった。」と彼は再会を喜んでくれた。Y君の奥様にもお目にかかり、建物の中へと案内される。そこは、マリア聖堂。丸屋根の部分に据えられた円形の大きなステンドグラスは、旧聖堂から引き継がれたものだそうだ。
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(写真は教会のHPから拝借)

 Y君は大学時代のゼミの同期生である。卒業後、就職も同じ業界で、お互いの結婚式にも呼び合った仲だ。それに会社では共に国際部門を長く経験したので、以後も何かと連絡を取り合って来て、海外でも会ったりしたものだった。その彼が私のブログを見て見舞いのメールをくれたのが今年の7月末のことだった。私が膵臓がんの手術を受けてからちょうど三ヶ月が経過した頃である。

 「驚きました。(中略)ブログでは出社されているようなので少し安心しましたが、この人生の困難に立ち向かわれているのを知り、まずは貴兄への神のご加護を強く祈っております。以前お話ししたように私はカトリック教徒です。」

 そんな風に書かれていて、以後も毎週日曜日に教会で私のために祈りを続けてくれているそうである。彼からメールを貰った時期はまだ私の体調が安定せず、大幅に痩せて体力もすっかり落ちてしまった頃だったから、心の底から私のことを心配してくれたY君の友情が、言葉の真の意味で身に染みる思いだった。

 Y君は中学・高校時代を神奈川県のカトリック系の学校で過ごしている。その後、留学や駐在勤務でメキシコ・スペインといった国々を経験しているから、カトリックという信仰が深く根付いた社会の在り方をつぶさに見て来たはずである。そんな彼が日本に帰って来た後、思うところあってカトリックの洗礼を受けたというのは、私から見れば不思議なことではないのだが、それは何も知らない門外漢にはそう見えるというだけのことで、実際に入信するということは彼の人生の上では大きな決断であったことだろう。

 8月以降もY君と何度かメールをやり取りする間に、彼はイエズス会司祭の英(はなふさ)隆一朗という神父さんの存在を教えてくれた。英氏は聖イグナチオ教会で精力的に活動し、日曜日毎のミサはもちろんのこと、週二回のキリスト教入門講座なども開いていて、非常に多忙な方であるようだ。その英神父がインターネット上に立ち上げた「福音 お休み処」というブログの冒頭には、こんな記載がある

 「主イエスは次のように仰せになりました。

 『疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる』(マタイ11章28節~29節)と。

 この聖句を読むたび、心がほっとします。現代社会の中で、重荷を負って、疲れ果てている方々がおられるのではないでしょうか。私自身も重荷に耐えきれなくなったり、疲れ果ててしまうことがたびたびです。しかしながら、イエスのもとで休み、イエスに学びながら、魂の安らぎを得て、また立ち上がる力をいただきます。

 このブログを通して、疲れた人や重荷を負っている人が主のもとで休みをとり、主から学び、また立ち上がって歩んでいく手助けをしたいと思っています。」 http://hanafusa-fukuin.com/

 このブログは彼が行った日曜日のミサの説教の音声ファイルやテキスト画面にもアクセス出来るようになっている。Y君にはこの英神父の講話を他の教会で聞く機会があり、「何か腹に自然に落ちる話をされる人」だと思ったそうだ。今の日本のカトリック教会において、こういう話が出来る神父さんは本当に少ないのだという。その英神父が祝日の10月9日(月)に「いやしのミサ」を聖イグナチオ教会で開くことになった。

 「このミサは、病気のいやしという特別な意向のためにささげられるミサです。ご自身が病気の方や、親族・友人のいやしを願われる方はどうぞご参加ください。いやしのミサの後に、個人的にいやしの祈りを祈る時間が設けられます。」

 Y君はこのお知らせを上記のブログで見つけ、わざわざ私に声をかけてくれたのだった。「貴兄の信条に反するかもしれませんが、祈りは呼びかけに結びつくかも知れません。彼は心に響くことを語れる人だと思います。」とも書かれていて、私自身の常日頃の考え方にも配慮をしてくれた上でのことだった。

 Y君ご夫妻に挟まれる形で私たち夫婦が聖堂内の椅子に着席。午後4時からミサは粛々と始まった。幾つかの讃美歌が歌われ、英神父が聖書の一節を読み上げ、一同が祈りを捧げる。そして信者の代表が聖書の朗読を行った後、いよいよ英神父の説教が始まった。

 病を得たということは、あなた個人にとっては苦しみではあるが、そのことによって逆に、病もなく日常を平穏に過ごすことの有難さに気づくことが出来る。そして、同じように病を得た人々の苦しみを理解することも出来る。それは神から与えられたあなたの役目なのだ。病を得た人はその治癒を願い、神に祈る。聖書の中でイエスは多くの病人をいやした後、「あなたの信仰があなたを救った」と言っている。神が必ず救ってくださるという確信、神から力と恵みを与えられていると考える謙虚さ、病が治癒することへの希望、そして信仰。それらによって願いは真の祈りとなる・・・。

 ごく簡単に言ってしまえばそんな内容だったと記憶している。
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 今日、このミサに列席する機会を得るまで、正直言って私は願いや祈りというものをあまり深く考えたことがなかった。日本人だから多分に神道や仏教の考え方の影響を受けているのだろうが、それでも何かを神仏にお願いする・・・例えば浄土教のように、諸々の苦しみからの救済を求めてひたすら阿弥陀仏にすがる、というような考え方が好きではなかった。むしろ神道のようにこれからの自分の行動に誓いを立て、それを神様に見守っていただくと考えること、或いは禅宗のようにあらゆる執着を捨てて泰然と生きて行くことの方が、自分にはしっくりと来るものだった。神仏が万能であるとは信じておらず、それに頼ったりすがったりするのは人間として弱い考え方だとすら思っていたのだろう。

 今回、Y君は「いやしのミサ」に誘ってくれたことに加えて、英神父が書いた『祈りのはこぶね』という小さな本を私のために買っておいてくれた。100ページ足らずの分量で文章も極めて平易なので、一晩で読めてしまうものだが、英神父の当日の説教の内容とこの著書の内容とを合わせて復習してみると、今まで私が気づいていなかったことが明らかになった。それは、願いや祈りとは何かということである。

 「願うことを嫌う人もいる、それは何か他力本願で、人間の努力を軽んじているように見えるからだ。
 本当の願う祈りは、他人任せや努力の放棄を意味していない。むしろ願う祈りには、懸命の努力が伴うものなのだ。例えば、病人がいやしを願っているとしよう。その病人がいやしを願いながら、薬も飲まず、医者の注意も聞かず、養生もしないなら、その人は本当に願っていると言えるだろうか。本当に願う祈りをしているならば、薬を飲み、養生して、自らの努力と実践を通して治ろうとするだろう。願う祈りとは他人任せにすることではなく、自分の全力を傾注して事に向かうことなのである。
 願う祈りは、自分の今の課題を示し、向かうべき具体的な方向を示してくれる。」

 『祈りのはこぶね』を読み始めると、早々にこんな記述が出て来る。参ったな、と私は思った。神仏などにはすがらないぞ、と思っている自分は、それではどんな努力をしているというのか。

① あなたの心の中に、どのような願いがありますか。願っていることを書き出してみてください。
② それがかなえられることをどれほど強く願っていますか。強く願っているものから順番に、番号をつけてみましょう。
③ そのためにどのような努力や実践をしているか、ふりかえってみてください。

 『祈りのはこぶね』の各章にはこんな設問も用意されていて、自分を客観的に見つめるためには、確かにそういう作業が必要なのだろうと考えさせられる。そして本書を更に読み進むと、祈りとは人々の願いや嘆きを具体化するものであり、今日がどんな一日であったかを思いおこすことであり、たとえそれが苦難に満ちたものであったとしても、願いに先立って感謝を捧げるチャンスであり、そして悔い改める機会でもあることが平易に説明されていく。
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 科学上の理屈だけから言えば、病気が治ることと願いや祈りとは直接の因果関係を持つ訳ではないのだろう。けれども、私が膵臓がんの手術を受け、今も定期的な経過観察に通っている病院では、現状を確認するための設問が20個ほど用意されていて、患者はタブレット端末を通じて回答を入力することになっているのだが、それらの設問の半分ぐらいはメンタルな事項に関するものである。今の体調が今の気分や人とのコミュニケーション、そして仕事への取組み姿勢などにどのような影響を与えているか、といったことを尋ねるものなのだ。

 「がん患者への最良の薬は、自分ががん患者であることを忘れることだ。」という指摘もあるぐらい、がん治療にはメンタルな部分のケアが重要なのだそうだが、考えてみれば、それは英神父が易しく説いてくれる願いや祈りにも繋がるものであるのかもしれない。

 既に述べたように、今までの私は願い事が叶うよう神仏にすがるという考え方を好まず、祈るということをあまりして来なかったように思う。願っていることが実現するよう自分が努力するのは当たり前のことだが、そこから先はなるようにしかならない訳で、それがどんな結果であっても泰然として受け止めるのが男のあるべき姿だと思っていた。

 自分の機嫌の良し悪しで人との接し方を変えたり、人に愚痴をこぼしたりするのは嫌いだったし、仮に何かの不幸に襲われた場合にも他人からの慰めは不要で、結局は自分自身で悲しみ・苦しみを呑み込み、乗り越えて行くしかないと思っていた。そして、その過程で溜まったストレスは、例えば親しい友人たちとの酒の席や、時に山歩きをすることで自分なりに発散していたつもりだった。

 けれども、自分がこうして病を得るという経験をしてみると、色々なことを独りで呑み込もうとするのではなく、逆にそれらを素直に吐き出してみることで自身を客観的に見つめることが出来るのではないか、ということを考えさせられたように思う。言い換えれば、粋がらず自分の弱さにもっと正直になれ、ということだろうか。そんな悩みや苦しみを素直に吐露すれば、自分の周りにはそれを一緒に聞いてくれる家族や友がいてくれる。そして、そうした悩みや苦しみのない日々の到来を願い、祈り、その実現に向けて努力を続ける時、私たちの背後には神の存在がある、と考えるのが信仰というものなのだろう。
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 最後の讃美歌が歌われ、「いやしのミサ」の一連の進行が終わったところで、個人的にいやしの祈りを行う場が設けられ、希望者が英神父の前に二列に並び始めた。車椅子に座った人、杖を突く人々など様々だ。実は、Y君は私が膵臓がんの手術を受けた身であることを事前に英神父にメールしてくれていて、神父は私のためにも祈りを捧げて下さるというので、Y君ご夫妻に導かれる形で私と家内もその列に加わることになった。

 やがて私の番が回って来たので、家内と二人で英神父に一礼。私は次のように話した。

 「私は今年の4月に膵臓がんの手術を受け、今も抗がん剤の服用による治療を受けています。この先、がんの再発・転移が起こるのかどうか、今はまだ何とも言えませんが、たとえ何が起ころうとも、自分の命の続く限りは精一杯生きようと思っています。」

 頷きながらそれを聞いていた神父は、その両手を私の頭に置き、暫くの間何事かを唱えていたが、最後にこのように語ってくれた。

 「あなたの今の考え方は、神が一番喜んでおられると思います。是非それを大切にしてください。」
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 マリア聖堂の中でのミサを体験した一時。私のために様々な心遣いをしてくれたY君ご夫妻に改めて感謝しつつ建物から出ると、5時半に近くなった外はもうすっかり夕暮れを迎えている。私たち4人はそれから四谷駅近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら、暫くの間なごやかに語り合った。

 思えば大学を卒業してから既に36年。時には青臭い議論も含めて本当に色々なことを語り合って来たゼミの同期生同士。それがお互いにこの歳になり、夫婦一緒に今日こうしてこのような時を過ごしていることの不思議さと有難さ。人間、歳をとるということにも大切な意味があるものなのだ。熱いコーヒー以上に、Y君ご夫妻の温かいご厚意がはらわたに深く染みた。

 午後6時を過ぎ、四谷駅でY君ご夫妻とお別れをして、私たちは地下鉄のホームへと歩く。Y君のおかげで、私にとって神様の存在が少し身近になったかもしれない。ともかくも、余計な肩の力を抜いて病と向き合い、自分自身の弱さをもう一度見つめながら、今ある生をしっかりと生き抜いて行こう。

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続・川を眺めた日 [散歩]


 このところ、我家の週末の散歩は何やら隅田川に引き寄せられているかのようだ。

 三連休の中日の10月8日(日)、日本列島は移動性高気圧に覆われているが、その東の縁にあたる関東南部は、北東風が吹き込むので雲の多い天気だ。けれども時折雲間から陽が射すと、これがまた結構暑い。従って、それなりに風が吹いて涼しい場所を散歩道に選ぼうとすると、結局は川沿いを歩くことになる。

 家内と二人、正午を少し過ぎてから家を出る。都バスと電車を乗り継いで京成関屋駅で降り、外の大通りを南方向へと私たちは歩き始めた。今日はこの少し先から隅田川の左岸に出て水神大橋で川を渡り、浅草を目指して川の右岸を歩くことにしている。
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 日曜日で車の少ない大通りをしばらく歩き続け、荒川と隅田川を繋ぐ水路を短い橋で渡ると、右手に隅田川が見えて来る。ならば次の信号で道路を渡り、川の方へ歩いて行こうか。すると、その信号機の背後にカネボウ化粧品の建物があった。そうか、この先をあと700mほども歩けば東武鉄道の鐘ヶ淵駅だから、このあたりはまさにカネボウの発祥の地なのだ。
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 明治時代末期の地図を見ると、たしかにこの一帯は鐘ヶ淵紡績會社の広大な敷地で、隅田川沿いに工場が立ち並んでいたことがわかる。原材料や製品の搬送には水運を利用していたのだろうか。
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(星印が、現在のカネボウ化粧品のビルの位置)

 この地図の時代から95年後の2004年、多額の債務超過に陥って経営危機に瀕した旧カネボウ株式会社は、その主力事業である化粧品部門を切り離して産業再生機構の支援を仰ぎ、それは2006年に花王株式会社の100%子会社となった。先ほどのカネボウ化粧品のビルの左隣には花王のロゴを掲げた建物が並んでいて、鐘紡発祥の地の新しい景観を形成している。20世紀末の金融危機を経て大手銀行がメガバンクへと再編され、巨額の債務を抱えた数々の企業にどのような審判を下すのかが問われていたあの当時、カネボウの企業再生は大きな注目を集めた事案だったのだが、あれからもう10年以上の月日が経ったことになる。私も歳をとるわけだ・・・。

 さて、私たちは隅田川の土手に上がる。対岸もかつては工場の煙突が並ぶ一帯だったのだが、それらが移転した跡地の再開発が進み、今は学校や高層住宅が建てられると共に、川沿いの土地には緑地や遊歩道が綺麗に整備されている。
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 そして、隅田川の河口の方向を眺めると、シンプルで大きなアーチが印象的な橋が架かっている。平成元年に竣工した水神大橋だ。
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 昔の地図でこのあたりを探すと、鐘紡の工場群の南隣に水神森という記載が見える。現在の隅田川神社の前身にあたる「水神社」の鎮守の森だったのが、この水神森で、小高い場所にあったために、隅田川が増水した時にも水没することがなかったという。そして、伝説によれば、平家追討の兵を挙げた源頼朝が1180年にこの地を訪れ、水神の霊験を大いに感じたことから、そこに社殿を建てたのが始まりなのだそうだ。(もっとも、現在の隅田川神社はかつての水神社から100mほど南へ移動しているそうだが。)

 戦前に荒川放水路(=現在の荒川)が掘削される前はたびたび洪水を引き起こしていた隅田川。その水難から逃れるということについて、昔の人々には切実な思いがあったのだろう。そんな時代の名前を受け継いだ水神大橋を渡り、私たちは隅田川の右岸へと向かう。その橋を渡り切った所には、かつての隅田川の堤防の一部がモニュメントして残されていた。なるほど、こういう堤防が河口まで延々と続いていたのだから、かつての隅田川遊覧船からの両岸の眺めが殺風景だったのも無理はない。
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 緑地と遊歩道が整備された右岸をしばらく歩き続け、次の白髭橋が見えて来たあたりで、私たちは一休み。少し晴れて来て日差しが暑いが、川っぷちだから吹く風は心地よい。ススキの穂もすっかり大きくなって、隅田川沿いもそれなりの秋だ。
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 さて、白髭橋までやって来ると、その西詰に一本の石碑が立っていた。見れば「明治天皇行幸對鷗荘遺跡」とある。その奥に用意された説明書きのプレートによれば、話はこうだ。

 明治6年の10月、いわゆる征韓論を巡って明治新政府の閣議は真っ二つに割れていた。その過程で、征韓派の意見が通らない場合の辞任をちらつかせた西郷隆盛の言を怖れた太政官にして議長の三条実美が、朝鮮への特使の即時派遣を一旦は決めたのだが、逆に大久保利通、岩倉具視ら征韓反対派の参議が相次いで辞任。そんなあれこれによる過度のストレスから、三条公は高熱を発して人事不省に陥ってしまった。その三条さんが寝込んでいたのが、この場所にあった對鷗荘という屋敷で、事態を憂慮した明治帝が直々に見舞いに赴いたというのである。
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 三条さんが倒れたことによる「議長の空席」は、征韓反対派に巻き返しの時間を与えることになり、太政大臣代理に就任した岩倉が事態を仕切ったため、逆に西郷ら征韓派が下野することになった、この明治6年の政変。幕末期には長州の攘夷派に担がれ、「七卿落ち」も経験している三条さんは、この時点で36歳だった。この場面を描いた歴史物のテレビ番組などでは、オロオロして倒れてしまう三条さんはもっと年上のイメージなのだが、実際にはまだ壮年だったのだ。一方、この時に国の命運を賭けて激論を交わした西郷は45歳、大久保は43歳。公家にしては珍しく体を張って征韓派に立ち向かった岩倉は48歳。そして、三条さんを見舞った明治帝に至っては弱冠20歳だった。幕末維新は随分と若い人たちが時代を動かしたんだなあ・・・。

 プレートの説明書きを読みながらちょっとした感慨に囚われている私を見て、家内がクスクス笑っている。
 「こういう話が本当に好きなのねぇ。」
 まあ、いいじゃないの。男は大体そういうものなんだよ。
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(錦絵に描かれた、征韓論をめぐる閣議の紛糾。丸印の人物が三条実美)

 心地よい風に吹かれながら隅田川テラスを歩いていると、頻りに甘い香りが漂ってくる。季節は10月上旬。この時期は一年に一度、金木製が輝くような存在感を見せる時だ。この川沿いの遊歩道にもその木が幾つも植えられていて、自らの季節を謳歌していた。
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 言問橋のもう一つ下流に架かる桜橋に近くなると、対岸の東京スカイツリーもだいぶ大きく見えて来る。この隅田川テラスを歩く人の数も多くなって来た。
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 川沿いの散歩はここまでにして、丘に上がる。街中を暫く歩くと、小高い丘の上に寺院が一つ。江戸名所の一つだった待乳山聖天(まつちやましょうでん)である。
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 ご由緒によれば飛鳥時代の昔に地中から突然湧き出た霊山だそうで、この地が大規模な旱魃に見舞われた時に、十一面観音菩薩が大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)に姿を変えて現れ、人々を苦しみから救ったとされる。大聖歓喜天とは、吉祥天とか弁財天、韋駄天などと同じ部類に属するインド発祥の神様で、仏教を守護し、衆生を迷いから救って願いを叶えさせてくれるものとして信仰されて来たという。仏教を守護することにどの程度重きが置かれていたのかはともかくとして、現実的な諸々のご利益を願って人々は参拝を重ねたようだ。かつてこのあたりは、吉原で遊ぶ人々を乗せて隅田川を遡る舟が上陸した地点だったから、何かと賑やかな界隈であったことだろう。
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(歌川広重が描いた待乳山)

 この待乳山聖天というのは別称で、寺としては本龍院という名の、浅草寺の子院の一つだそうだ。それならば、今日の散歩の最後に浅草寺にも寄ってみよう。と言いながら、私たちは浅草寺への道の途中で店に入り、抹茶のソフトクリームで一休み。昨今の浅草には本当に多くの外国人観光客が集まり、今日も観光バスが続々と到着しては、中国語やスペイン語の騒々しい一団を吐き出している。

 京成関屋駅を起点にした隅田川沿いの今日の散歩。スマホのアプリが計測したここまでの歩行距離は約6.5kmだった。4月の下旬に私が膵臓がんの手術を受けてから約5ヶ月半。転移を防ぐための抗がん剤を服用しつつ、体力の回復に努める過程の中にいるのだが、このところは体調も安定し、今日も何の問題もなく家内と二人で散歩を楽しむことが出来た。浅草寺の観音様にそのことを報告し、感謝の気持ちと共に頭を下げる。

 観音様を背にして本堂の階段を下りると、賑やかな境内には引き続き様々な言語が飛び交っていた。

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四つのチェロの響き [音楽]


 金曜日の夜遅くに帰宅すると、A4サイズのごく軽い封書のような荷物が宅配便で届けられていた。封を切ると、内容物は1枚の音楽CDだ。それは、私がインターネットでHMVのサイトから8月22日に注文を入れたものだった。

 私のお目当ての物はその時点ではHMVに在庫がなく、取り寄せになるので出荷まで二週間程度の日数が必要とのこと。今年の7月にフランスで発売されたばかりの新譜だが、もう品薄なのだろうか。その「二週間程度」が過ぎた9月7日にHMVからメールが来て、商品をまだ手配中なので出荷が遅れるとのこと。そして9月23日にもう一度メールの配信があり、依然として手配中ということだった。

 確かに音楽のジャンルや企画の内容からすると、それほど多数の売上があるとも思えないから、これは気長に待つしかないのかな。そう思ってゆったり構えていたところ、10月5日になって「商品を発送しました。」というメールが入り、翌6日の夜までに配達されたのである。たかだか2,000円ぐらいのCD1枚の注文にこたえるために一ヶ月半ほどの時間をかけて、欧州と日本との間でいったい何人の人たちが動いてくれたのだろう。ネット通販で便利な世の中になったとはいえ、何だか申し訳ないような気持ちになってしまう。

 遅い夕食を簡単に済ませ、夕刊にもざっと目を通した後、私はベッドサイドのCDプレーヤーに届いたばかりのディスクを入れて、音量を小さめに調整し、大の字に寝そべって目を瞑る。流れて来たチェロ四重奏の気品に満ちた優しい響きは、忙しかった今週のあれこれを頭の中からデリートするには十分だった。

 男女二人ずつのチェロ奏者によって構成される、フランスのポンティチェッリ四重奏団。私が選んだのは、彼らがJ.S.バッハ『オルガン小曲集』を4台のチェロで演奏するという、ちょっと風変わりなアルバムである。
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 偉大な作曲家である以前に偉大なオルガニストでもあったJ.S.バッハは、その65年の生涯のうちに約250のオルガン曲を作曲したという。その圧倒的な質と量はまさに「綺羅、星の如く」と形容すべきバッハのオルガン曲の作品群において、45曲の小品によって構成される『オルガン小曲集』は些か地味で目立たない存在ではあるが、時にじっくりと耳を傾けてみると、これがなかなか味わいのある作品なのだ。いずれも教会でコラール(ルター派の教会で会衆によって謳われる讃美歌)を歌う前の前奏曲として作られたものである。

 ベルリンのドイツ国立博物館へ行くと、このバッハの『オルガン小曲集』の原本が保存されているそうだ。縦15.5cm x 横19.0cmというから、B5(18.2cm x 25.7cm)よりもまだ一回り小さいサイズで、全184ページの冊子。その最初のページには次のようにバッハ自身の言葉が記載されているという。

 「オルガン小冊子。修行中のオルガニストにコラールを展開するあらゆる技法の手ほどきをすると共に、ここに収録されているコラールをペダルを完全にオブリガートで演奏する事によって、ペダルの使用に習熟する事を目的としている。至高の神にのみ栄光あれ、また隣人はこれによって教え導かれます様に。作者は現アンハルト=ケーテン候の宮廷楽長、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」

 バッハのこの肩書からすると、彼がケーテンという小さな町に居住していた1717~23年の間に書かれたことになるが、これら45曲のかなりの部分は、それ以前に彼がヴァイマールで宮廷礼拝堂のオルガニストを務めていた1708~17年の間に作曲されたそうだ。その当時は、この『オルガン小曲集』の前文に書かれているような教育目的ではなく、おそらくは自分の仕事のために書きためておいたものではなかっただろうか。更には、ずっと後の1740年代、彼のライプツィヒ時代にも一部の作品に手を加えていたというから、足掛け30年以上の期間にわたって編集された作品群なのである。

 私はキリスト教徒ではないし、キリスト教への一般的な知識も極めて浅いから、これは今までに読んだ本の受け売りでしかないのだが、それによるとクリスマスの四週前の日曜日から、教会暦と呼ばれる一年間のカレンダーがスタートするという。そこには各日曜日の行事や様々な祝日が定められていて、例えばルター派の教会では、それぞれの日の礼拝時に歌われるコラールの数が全部で51曲。その他の様々な機会に歌われるコラールが全部で113曲。合わせると164曲のコラールがあるそうだ。

 バッハはその全てにオルガンによる前奏曲を作ろうとして、必要な数のページを『オルガン小曲集』の中に用意し、音符を書き込む五線を引いていたという。だが実際に作曲されたのは、日曜・祝日の礼拝用のものが35曲、その他の機会に使われるものが10曲、計45曲であった。(BWV(バッハ作品番号)でいうと599~644の46曲なのだが、633と634(最愛なるイエスよ、われらここに)が同じ作品の新旧バージョンなので、一般には全45曲とされている。)
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 教会暦に従えば、クリスマス前の四週間は待降節(アーベント)と呼ばれ、クリスマスの準備をしてイエス・キリストの降誕を待つ期間である。それが始まるのが12月の最初の日曜日(待降節第一主日)だ。バッハの教会カンタータ第61番 『いざ来ませ、異邦人の救い主よ』(Num Komm, der Heiden Heiland) BWV61 はこの日の礼拝のために作曲されたもので、『オルガン小曲集』の第1曲もこれと同じタイトルを持つオルガン用の短い前奏曲BWV599となっている。

 バッハが従事していた教会では、まずオルガンでこの曲を奏でた後に61番のカンタータが始まったのだろう。大いなる祝祭気分はクリスマスに取っておいて、ここでは人々を慎まくも厳かな信仰の世界に導き入れる、そんな曲想の前奏曲になっている。まずはパイプオルガンの演奏で原曲を聴いてみよう。(Helmut Walchaの演奏によるもの)


 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。
 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。
 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。
 そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。
 ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。
 だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。
 このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。
 だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。
(『マタイによる福音書』第24章37~44)

 さて、これに対してポンティチェッリ四重奏団の演奏はこんな風だ。

 教会の中の厳粛な雰囲気とは異なり、私たちにはもっと身近な、優しさと共に気品に溢れた音色。このアルバムは終始こうした味わいで、肩の力を抜いて聴くにはぴったりだ。HMVのサイトには「・・・これは癒されます。」と書かれていたが、今風に言えばそういうことなのだろう。そして、キリスト教の教義や教会行事に対する知識を抜きにして純粋に音楽として聴いてみても、更には当初の指定とは異なる楽器での演奏を試みても、バッハの作品の音楽性は少しも揺らぐことなく、むしろ驚くほどの包容力を見せる、そんなことを改めて認識させてくれるアルバムである。

 この『オルガン小曲集』の中で人気の高い第24曲、『おお人よ、汝の大いなる罪を嘆け』(O Mensch, bewein dein Sünde gross) BWV622 は私も大好きなので、この記事にもポンティチェッリ四重奏団の演奏の一端を貼りつけておこう。受難節に歌われるコラールのための前奏曲なのだが、その安らかなメロディーが何とも魅力的で、私の命が尽きる時にはこんな音楽に包まれていたいと思うほどだ。

 そして、このBWV622と並んで愛好される作品が『主イエス・キリストよ、われ汝に呼ばわる』(Ich ruf zu dir, Herr Jesu Christ) BWV639だ。以前にもこのブログに書いたことがあるが、1972年公開のソ連映画『惑星ソラリス』のテーマ曲として使われたことで一躍有名になった前奏曲である。深い悲嘆や悔い、或いは諦念を思わせる重厚なパイプオルガンの響きとは趣の異なる、エレガントにして高い精神性を保つチェロの響きの重なりは、目の前のことにばかり囚われている私たちの頭の中を解きほぐし、目を閉じて静かに呼吸を整えることの大切さを教えてくれている。

http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2017-08-30

 注文を入れてから一ヶ月半ほどを待ち続けた甲斐があった。聴き込んでいくとバッハの音楽がまた一つ好きになること必至のアルバムである。

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再会(開)の秋 [自分史]


 「膵臓がんとは穏やかじゃない、大事(おおごと)じゃないですか。ショックです。(中略)日本へ帰国したら、とにかくご連絡します。何としてもお会いしたい。」
 
 中学・高校時代の級友だったA君からそんなメールを貰ったのは、9月13日の早朝のことだった。

 A君はもう30年以上もカナダのトロントで暮らしていて、日本とカナダの文化交流を深める仕事を一貫して担ってきた。私が今、高校クラス会の幹事をしていて、11月に開く予定のクラス会関係のメールを彼にも送った時、海の向こうからのA君の参加はなかなか難しかろうからと、今年の4月以降に私の体について起きたこともそのメールを通して伝えておいた、それに対して反応してくれたのである。彼はたまたま親御さんの介護の関係で9月27日から一週間ほど東京に滞在する予定にしており、その間に是非会いたいとのことだった。

 A君も私も、区立の小学校から受験をして同じ中学に入り、高校でも同じクラスだったから、長い付き合いである。電車通学が始まった中学時代、彼は五反田から、私は渋谷からそれぞれ山手線に乗って学校へと通った。だから、帰り道に渋谷まで一緒になることが多かった。A君は最近、故石岡瑛子のポスターの展覧会をトロントで手掛けていて、往年の渋谷PARCOに関連した作品に囲まれているうちに、私たちが共に通学していた頃を思い出したようだ。「ハチ公口の方へ下車していく貴兄の学生服の後ろ姿が石岡ポスターと重なるような気がします。」とも書かれていた。

 昭和40年代の半ばというと、東京五輪大会に続く高度経済成長によって渋谷の街の様相が一変した時代である。建設の槌音は絶えず、朝の駅の混雑は殺人的。その一方でPARCOに象徴されるような新しい消費文化も芽生えていたが、それとは対照的に、駅のガード下ではまだ傷痍軍人がアコーデオンを奏でていた。そんな風に時代の光も影も共に鮮やかで、独特のゴチャゴチャ感の中から絶えずエネルギーを発散し続けていたのが渋谷という街だった。私たちはそんな時代に中学・高校時代を共に過ごしたのである。
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 高校に進んだ時、A君と私は山岳部に入部した。やはり中学で同級だったT君も入部したので、山岳部の私たちの代は中学の同級3人になった。普段は学校の中でのトレーニングや装備の点検と扱い方の習熟などが部活動の中心だが、年に6回ほどあった合宿では山の中にテントを張って暮らす訳だから、山岳部とは一つの生活共同体であり、運命共同体とも同義語のようなものだった。そして、前述のように私たちの代の同期は3人だけだったから、この3人が喧嘩をしてしまっては共同体そのものが成り立たない。私たち3人の間ではそれぞれが最も力を発揮する領域を自ずと棲み分けるようになり、「三本の矢」ではないが私たちなりにバランスを保ちながら、山での運命を共にしていたのだった。今から思うと、山の中という非日常を舞台にして実に貴重な体験をさせてもらったものである。

 今回、そのA君をいたく心配させてしまったのは私が送ったメールのせいなのだが、ともかくも来日中に是非会いたいと言ってくれているのだから、これは是非T君にも声をかけよう。社会に出てからは随分と長い間、T君も私も山からは遠ざかっていたが、8年ほど前から他の同級生たちにも声をかけて度々一緒に日帰りの山に出かけるようになり、年に1回ぐらいは泊まりでも山へ行っている。その繋がりから、中学同級のOさんも紅一点でA君との会にジョインしてもらうことになった。

 9月30日(土)の夕刻。表参道から少し路地裏に入ったところにある少々隠れ家的な居酒屋に席を取り、私たち4人は三々五々集まった。

 「やあ、どうもどうも。」
 「久しぶり!元気そうで何より。」
 「変わらないねー。」
 「今回は心配かけて申し訳ない。」

 顔を合わせた時に第一声として何と発すべきなのか、事前にはそれなりに悩んでいたものの、会ってしまえば、そこからはもう成り行きに任せるより他に自分をコントロールしようがない。というより、旧知の仲間の間では儀礼など最初から無用なのだ。中学を卒業して今年でちょうど45年になるのだが、そんな時空を一瞬のうちに飛び越えて、私たちは昔の教室の中の私たちに戻った。

 Oさんも含めて私たち四人は、当然のことながら卒業後はそれぞれに異なる道に進み、異なる分野で人生を過ごして来て、還暦を過ぎた今も幸いなことにそれぞれの仕事を続けている。だからこそ、同じ話題一つをとってみても思考のアプローチはそれぞれに異なるし、そこには各自が歩んできた人生が自ずと裏打ちされている。まるで一つの山を四つの異なるルートから登っているようで、ああ、なるほど、そういう見方もあるんだということを教えられて、何とも刺激的なのだ。そして、そんな風に自由闊達に意見を交わし、異なる考え方を認め合うリベラルさが、私たちの学校の校風でもあった。「昔の教室の中の私たちに戻った」というのは、基本的にそういう意味である。
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 思い出話の中心は、何といっても高校一年の秋合宿のことだった。1972(昭和47)年の10月10日前後のことだ。私たちの高校は二期制だったので、前期と後期の間に一週間程度の秋休みがあった。例年その時期に高校山岳部は縦走合宿を組んでいたのである。その年の計画は、南アルプスの3,000m級の山を三つ越えるという野心的なものだった。

 前夜に中央本線の最終の長野行き普通列車に乗って、甲府で下車。予約していたタクシーに分乗して南アルプスの玄関口・広河原に到着。そこのコンクリート製の東屋に寝袋を敷いて短い仮眠を取り、早朝から山を目指した。二年生の部員が多かったので、引率のOBも含めて私たちは総勢14名ほどのパーティーになっていた。
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(1972年10月 高校山岳部秋合宿のルート)

 初日は極めて順調。好天の中、広河原から白根御池を経て日本第二の高峰・北岳(3193m)に登り、更に進んで北岳山荘の前で幕営(当時は「北岳稜線小屋」という名前だったはずだ)。25kgほどの大荷物を抱えながら、初日にいきなり標高差1,500mのルートを登り切ってしまった。勿論、山の上からの眺めは申し分なかった。

 第二日、この日も終日好天。二つ目の高峰・間ノ岳(あいのたけ、3189m)を越え、三峰岳を経て新たな尾根へと入る。仙丈ヶ岳(3034m)と塩見岳(3047m)を結ぶ「仙塩尾根」と呼ばれるこのルートは実に山深く、南アルプス北部では最深部といっていいだろう。素晴らしい秋の紅葉と豪華な山の眺めの中を私たちは歩き続け、北荒川岳(2698m)を越えた南側の尾根上に幕営地を選んだ。今では幕営禁止になっているはずの場所だが、少し下ると水場があったのではないかと記憶している。尾根の西側は崩壊の激しい地形だった。

 異変が起きたのは三日目の朝だった。二年生の一人が寝袋の中から起き上がらない。高熱を発して意識がなくなっていたのだ。山に入る前、冷え込んだ広河原で仮眠を取った時に風邪を引いたのを、そのまま登山を続けたために風邪をこじらせて肺炎を起こしたようだった。よりによって、ここは南北いずれも3,000m級の山が立ちはだかっており、意識のない病人を下山させる術は私たちにはない。直ぐに救援を求めねばならなかった。

 私たちは三日目に予定していた行動を中止し、救援を求めるための二人一組のパーティー三つを編成。それぞれが直ぐに出発した。第1組は塩見岳を越えて塩見小屋へ。第2組は少し戻って新蛇抜山から大井川の源流へ下り、池ノ沢小屋へ。そして第3組は前日歩いてきたルートを戻って熊ノ平小屋へと走る。総勢14名の所帯だからこそ、こうした手分けが出来たのだ。そして、極めて幸いなことに同行のOBの一人が医大生で、病人にずっと付き添い、水に溶かした解熱剤を意識のない本人の口にスプーンで入れる等の処置をして下さった。

 私は二年生のMさんと第3組として熊ノ平小屋へ急いだ。この日も終日好天で、真っ青な秋空の下、燃えるような紅葉に包まれていたはずなのだが、事情が事情だけにそれを楽しんでいる余裕はなかった。それでも、これは後から知ったことなのだが、結果的にはこの熊ノ平小屋から無線で農鳥小屋を経由してメッセージを伝えてもらったことが、下界への第一報になったようだ。

 第1組と第3組はそれぞれ山小屋への連絡を済ませて幕営地に帰還。第2組は池ノ沢小屋からそのまま沢沿いの山道を二軒小屋まで下り、静岡へ出ることになっていた。その日の午後、静岡県警のヘリが私たちの幕営地を目指して飛んで来て着陸を試みたが、無理だったようで引き返して行った。その夜は二人ずつ二時間交代で看病。医大生の先輩は殆ど眠らずにおられたのではなかっただろうか。
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(北荒川岳幕営地付近の地形図。星印が幕営地の位置)

 第四日の早朝、東の方角からヘリの爆音が聞こえて来た。皆がテントを飛び出すと、農鳥岳から南へ延びる山の尾根を越えて、一機のヘリが一直線に私たちの上空をめがけてやって来ようとしていた。ハイマツを掻き分けて高い場所に上り、皆で大きく手を振ると、ヘリは明らかに私たちを視認していた。そして、轟音を立ててテントの近くに着陸。それは陸上自衛隊のヘリだった。何と、茨城県の土浦から飛んで来てくれたという。中から乗員が現れて、燃料が限られているので素早く行動するよう求められ、私たちは寝袋に包まれたままの患者を急いでヘリの真下に運ぶ。すると、それはテキパキとした手順で収容され、ヘリは静岡市内の病院を目指してあっという間に飛び去って行った。

 物事の展開のあまりの速さに、私たちはしばらくの間茫然としていたのかもしれない。だが、少なくとも病人の救助は何とか叶った。私たちは笑顔を取り戻し、テントを撤収して行動を再開。その幕営地からよく見えていた塩見岳のピークを越えて、三伏峠の小屋の前で幕営。入山から四日目のこの日も奇跡的に好天が続いていて、やっと景色を楽しむ余裕が持てた私たちは、塩見岳からの山の眺めを胸に刻んだ。
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(塩見岳山頂から、越えて来た山々をふり返る ー カシミール3Dにて再現)

 翌日の第5日はさすがに雨。だが、この日は三伏峠からの下山だけである。山道が終わってからの8kmの林道歩きは辛かったが、ともかくも東京に帰り着くことができた。ヘリで静岡市内の病院に収容された先輩は、そこでしばらく療養されており、日曜日に皆で静岡までお見舞いに行ったことをかすかに覚えている。世の中の多くの方々のお世話になってしまったが、ともかくも全員無事のハッピーエンドを迎えられたのは何よりだった。そしてこの出来事への反省から、高校山岳部では山へ持って行く医薬品リストや応急マニュアルを整備し、部費を集めてトランシーバーを購入することになったのだった。無論、合宿場所の選定にあたっても、緊急の際のエスケープ・ルートなどが常にチェックの対象になった。

 あの時に患者への応急処置と私たちが取るべき行動について、一貫して的確な判断を下された医学生の先輩は、その後は大学病院に勤められ、日本における救急医学の第一人者になられた。そして、あの時に発病された先輩は、そのことがきっかけになったのかどうか、自らも医学部に進まれ(しかもその大学では山岳部に所属されて)、神奈川県で今も医師として活躍を続けておられる。当時高校一年生だったA君・T君・私の三人にとっても、この秋合宿での体験が色々な意味で人生の「肥し」になったことは確かである。

 思い出話は尽きないが、時間には限りがある。私たちは表参道の居酒屋での会をお開きにして、渋谷駅までゆっくりと歩いた。そして、制服姿で通学していた当時とはまるっきり変わってしまった渋谷駅のハチ公口で、再会を期してハグを交わす。生きている限り、この友情は大切にして行きたい。
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(あの幕営地からずっと見えていた塩見岳)

 翌10月1日(日)の朝8時前、京王線高尾山口の駅前で5ヶ月ぶりに山仲間のH氏と再会。昨夜のA君との会でも一緒だったO女史を含めた三人での軽い山歩きにこれから出かける。

 この春に私が膵臓がんの手術を受けることを知らせて以来、H氏には何かにつけて気遣いをしていただき、入院中も色々と励まされたものだった。退院後も7月末頃まで私は体調が安定せず、そもそも運動はまだ制限されていたのだが、8月の後半から次第に食欲と体力が回復し、ちょっとしたジョギングが出来るようにもなっていた。無論、週末の山歩きも術後は封印したままだったのだが、リハビリを兼ねてそろそろ軽いコースならどうか、ということでH氏が約3時間の高尾山往復に誘ってくれたのである。今日は朝から秋晴れのいい天気だ。

 平坦な舗装道とは異なり、形状の複雑な山道を歩くにはちょっとしたコツが要る。高尾山なんて何ほどのことはないと思いがちだが、こうして久しぶりに山に入ってみると、高尾山の稲荷山コースはこんなに木の根が張った山道なのだということを改めて認識することになった。
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 リハビリ目的だから、息が上がらないよう、とにかくゆっくりと歩く。今まではすっ飛ばすように歩いていた山道も、こうして一歩一歩踏みしめるように歩いてみると、あたりから聞こえて来る秋の虫の音や木漏れ日に輝く緑が何とも愛おしい。
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 コースタイムよりも若干ゆっくり目の計画を立ててはみたが、自然体で歩いていると、コースタイムほども時間はかからない。8時に高尾山口を出て、稲荷山で長めの休憩を取りながらも、9時40分には高尾山頂の少し先にあるモミジ台に着いてしまった。計画上、今日はここまで。私としてはまだ腹五分にも満たない感じではあるが、ゆっくりゆっくりと活動の幅を広げていくのがリハビリの極意であるようなので、初回はこの程度にしておくべきなのだろう。今日はよく晴れて、丹沢連峰の眺めが爽やかだ。標高600m近辺の低山でも、それなりの秋が始まっていた。
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 お目当ての富士山だけは何となく雲の中である。それに、まだ冠雪が始まっていないので、見えていたとしても少し迫力に欠ける。次に来る時にはその頂上付近の雪を眺められるだろうか。
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 モミジ台のベンチでフルーツを食べながら展望を楽しんだ後、どこかの動物園のような賑わいの高尾山頂を経て下山路へ。木曜日に降った雨が日陰ではまだ十分乾いておらず、下りは滑りやすいので、予定していた琵琶滝コースはやめて、舗装された薬王院の参道を下る。コンクリートを踏みながらの下山は味気ないが、それでも今の私には両側の山の緑がありがたい。手術を受ける前も、今年に入ってからは忙しくてずっと山に行けてなかったから、山歩きは実に10ヶ月ぶりのことになる。その分だけ、自分には山の緑への飢餓感があったのだろう。年間3百万人が訪れる今や一大観光地の高尾山だが、目を向けてみればまだまだ緑は豊かだ。そんな緑に久しぶりに触れた半日。今日はH氏に感謝である。
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(混雑する高尾山頂にも、それなりの秋が。)

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 膵臓がんの手術を受けてから5ヶ月と一週間。今現在は(メニューは選ばざるを得ないものの)概ね人並みの量の食事が摂れるようになり、それなりに体力も回復して、会食や国内出張、そして今日のように軽く体を動かすイベントにも参加出来るようになった。この春以来会えなかった人々、出来なかったことに対して、この秋は私にとって「再会」、そして「再開」の時である。オーバーペースにならないよう、自分の体を客観的に見つめながら、人々や物事とのご縁を大切にして行こう。

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北の守り神 [散歩]


 JR仙台駅から、車体に石ノ森章太郎の懐かしいアニメ・キャラクターが描かれた電車に揺られること30分。本塩釜駅で高架のホームに降り立つと、午後の爽やかな秋空が広がっていた。

 出張先での仕事が早めに終わり、後は東京に帰るだけ。自分一人だし、日暮れまでにはまだ少し時間があるから、折角ならばそれを利用して宮城県の地理にも親しんでみようか。そう思い立ったが吉日、私は仙石線の電車に飛び乗ってここまでやって来た。駅の直ぐ先には港も見えて、ちょっと遠くまでやってきた気分になる。
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 塩釜という地名は、製塩用の「かまど」を意味する普通名詞から来ているそうだが、それならば漢字は「釜(かま)」ではなくて「竈(かまど)」のはずだ。現に自治体の名前は塩竈市だし、私がこれから訪れる予定の神社は鹽竈神社という更に古風な表記になっている。人間が生きて行くために不可欠な塩。この地域に限らず、かつては日本の津々浦々に「塩竈」が見られたことだろう。(因みに、英語の”salary”(給与)の語源はラテン語の”salis”(塩)なのだそうだ。)

 名勝・松島の島々を抱く内海に面した塩竈はもとより平地の少ない所で、埋立地がつくられる以前は数々の丘陵が海に迫る地形だった。古代に東北地方南部(福島県・宮城県・山形県の一部)を陸奥国と呼んで支配を広げつつあった畿内の中央政権は、政治・軍事上の拠点として多賀城国府を建設(724年)。塩竈はその国府の外港(国府津(こうづ)と呼ばれた)としての役目を担い、その海に向かって西側から岬のように突き出した丘陵の上には、創建の年は不明ながら陸奥国の守護神として鹽竈神社が置かれた。(国府から見て鬼門の方角に神社が置かれているのが興味深い。)この神社(宮)と国府(城)が「宮城」の地名のもとになったと言われるぐらいだから、今回私が訪れている地は、宮城県のルーツと言ってもいいのだろう。
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 そんな経緯があるので、鹽竈神社は陸奥国一宮である。諸国一宮の中で、東北地方太平洋側ではこの神社が最北なのだ。機会があれば是非一度訪れてみたいと思っていた。
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 本塩釜駅から西方向へ400mほど歩くと、道路の北側に大きな鳥居が現れた。それが鹽竈神社の東参道の入口で、参道はそこから丘陵の尾根を緩やかに登っていく。平安時代に奥州藤原氏の三代目・秀衡が開いたとされる道で、敷石は石巻から運ばれたという。平日の午後だから、あたりは実にひっそりとしたものだ。草むらではヒガンバナの赤色が鮮やかなアクセントを見せている。
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 やがて正面に再び大鳥居が。シンプルながらも品格のある扁額を見上げて、思わず一礼。やはり陸奥国一宮は鳥居からして違うなあ。
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 その鳥居を潜って直進すると、やがて左側に手水舎(てみずや)があり、そこで手と口を清める。そして鹽竈神社へと上がる階段の手前には「皇族下乗」の立て札が。そういえば、先ほど乗って来た仙石線には、本塩釜の二つ手前に「下馬(げば)」という名前の駅があった。それは、鹽竈神社へのかつての参道を行く人は、そこで馬を降りて歩かねばならなかったことに由来するのだそうだ。それほどの参拝客を集めた陸奥国一宮は、王政復古を迎えた明治の世になっても皇族に下馬を求めたということか。
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 そこから更に鳥居を潜り、向かって右の唐門を経て鹽竈神社の境内へ。まずは正面の左右宮拝殿へと向かう。お祀りするのは左が武甕槌(タケミカヅチ)神、右が経津主(フツヌシ)神。いずれも「出雲の国譲り」で大国主命(オオクニヌシノミコト)と談判をした武勇の神様だ。後に神武東征の際にも天皇を補佐し、更には蝦夷(東北地方)平定も行ったとされる。
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(二神を祀る左右宮拝殿)

 中央政権側で武威をふるった二神それぞれに頭を下げた後、この拝殿の右側、それまでとは90度右の方向に建つ別宮拝殿へ。別宮というと、何だか本館に対する別館のような響きがあるが、実はこちらの方がメインの神様、すなわちこの神社の主祭神である鹽土老翁(シオツチオヂ)神と向き合う場所なのだ。

 この神様は高天原から降りて来た瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に自らの国を早々に差し出したとされ、他方では海幸彦から借りた釣針をなくして途方に暮れた山幸彦の前にも現れている。また、この神様が「東に良い土地がある」と述べたことが神武東征のきっかけになったとされ、武甕槌神・経津主神による蝦夷平定にあったてはその先導役を務め、その後もこの地域に残って人々に製塩業を伝えたという。
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(別宮拝殿)

 「塩」=「潮」ということからなのか、鹽土老翁は潮流を司る海路の神様ともされていて、海に囲まれたこの国の風土にいかにも適した国津神(くにつかみ)である。そして、山幸彦や神武天皇に因むエピソードから考えると、海路に限らず物事を進めるための正しい道へと導いてくれる神様であるようだ。今の日本では突如として衆議院選挙が行われるようで、与党も野党も右往左往しているが、こんな時にこそ鹽土老翁神の御導きがないものだろうか。

 塩竈神社への参拝を終えて再び「皇族下乗」の立札まで戻ると、鹽竈神社の境内に隣接してもう一つ別の神社がある。それが志波彦神社だ。ご祭神は志波彦(シワヒコ)神で、これは記紀に登場するような神様ではなく、農耕や国土開発を司る地元の神様。要するに鹽土老翁よりももっとローカル色の強い国津神なのだろう。この神もやはり武甕槌神・経津主神による蝦夷平定に協力したとされるが、実際には平定(or征服)された地域の人々を代表する「地霊」のような存在であったのかもしれない。
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(志波彦神社拝殿)

 志波彦神社は、元々は岩切という、もっと内陸部に建てられ、927年に完成した延喜式(律令の施行細則)にも名神大社として記載があるという。だが中世には廃れてしまい、火災にも遭って、江戸時代には他の神社に合祀されるほどだったという。それが明治4年に突然国弊中社に格上げされ、社殿を造営しようにもスペースがないので、明治7年に陸奥国一宮・鹽竈神社の東隣に遷祀されるという、何とも破格の処遇を受けることになった。そして、終戦後に社格制度がなくなるまで、「志波彦神社・鹽竈神社」を一体のものとして国弊中社というステータスが与えられていたのである。

 以前にもこのブログに書いたことがあるが、この志波彦神社が鹽竈神社の隣に遷祀された翌々年の明治9年に、明治天皇による東北・函館巡幸が行われている。明治初年の戊辰戦争に加え、版籍奉還や廃藩置県、地租改正などの大改革が続いたこの時期に、明治天皇自らが民の前に姿を現し、働く人々を慰撫して回ることは、生まれたばかりの近代国家に安定をもたらす上で極めて重要なイベントであったのだろうと、私は想像している。だとすれば、地元を代表する志波彦神を祀りながらも他の神社に「居候」せざるを得ないほど廃れていた志波彦神社に社格を与え、陸奥国一宮と同格に扱うという施策が明治天皇の巡幸前に行われたことにも、そうした政治的な配慮があったのではないだろうか。

 鹽竈神社では、かつて東北を平定したとされる武甕槌神・経津主神の二神が概ね鬼門の方角を背にしており、主祭神の鹽土老翁神は東側の海を背にしている。国の中央から見た場合に、それがまさに陸奥国の守護神たる構造なのだろう。そして明治7年に造営された志波彦神社では、ご祭神が北北西を背にしている。中央の神様と地域の神様が横に並んで共に北を守るという構造。このあたりにも、戊辰戦争を経た後の明治新政府の思いが表れていると言ったら考え過ぎだろうか。
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 私たちが神社を訪れて拝殿に向かった時には、10円玉を賽銭箱に投げ入れ、鈴を鳴らし、二礼二拍手の後にありったけのお願い事をするのが普通のパターンだ。しかしながら、参拝というのはお願い事をするものではなく、本来は神様に対して誓いを立てることなのだそうである。確かに、日本の神様は何かお願いごとを叶えてくれるのではなく、神前で誓いを立て、自らを律しながら生きていく私たちを、姿は見えないけれどいつも近くで静かに見守って下さる存在なのだろう。
 
 私はこの春に病変が見つかり、生涯で初めての大きな手術を受けた。現在もまだ治療中であるし、この先の余命がどうなるかも、今はまだ何とも言えない。そして家族や友人、会社の同僚をはじめ、多くの人々に心配をかけ、多くの人々のお世話になってしまった。そうであれば、今日こうして二つの神社を訪れた私がご祭神に対して行うべきことは、自分の延命や病気快癒のお願いではない。自分に残された命が続く限り、お天道様に恥ずかしくないよう真っ当に生き、人々との繋がりを大切にし、何よりも家族をしっかりと守って行くという誓いを立てることだろう。そして、その通りに出来るかどうかを神様に見ていただくしかないのである。そんな神々が神社だけではなく、森の中の大きな木立にも、清らかな沢の流れの中にも、更には家々の竈の火の中にもおわす私たちの国は、何と恵まれていることだろう。

 志波彦神社の境内を後にすると、遠くに松島方面の海の眺めが広がる一角があった。1689(元禄2)年の春、門人・河合曾良を伴って「奥の細道」の旅に出た松尾芭蕉は、5月8日(現在の暦では6月24日)にこの鹽竈神社を訪れている。その当時、志波彦神社はまだここにはなかったはずだが、松島の方向には今と同じ眺めがあったのだろうか。丘の上だけあって、よく晴れた今日も風が涼しい。
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 さて、志波彦神社から鹽竈神社の南側に回ると、急な坂を202段の石段で降りて行く道がある。これは下界から見ると、丘の斜面を直登して鹽竈神社の境内へ最短距離で上がるルートで、表参道と呼ばれている。その急登ぶりは何やら東京・芝の愛宕神社にある「出世の石段」のような趣で、今では鹽竈神社で一番の「パワースポット」などと呼ばれているようだ。しかし、手水舎も通らず境内に直接上がってしまうルートを表参道と呼ぶのはいかがなものだろうか。
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(表参道の急な石段)

 そのパワースポットの石段を一気に降りて道路に出る。後は本塩釜の駅へ戻るべく、のんびりと歩いて行けばいい。途中、味噌・醤油の醸造元の店先に小さな石碑があり、6年前の東日本大震災の時に津波がここまで押し寄せたことを示している。多島海の構造を持つ松島湾があるために、塩釜は津波の勢いがだいぶ緩和された地域ではなかったかと想像するのだが、それでもこんな所まで津波が達したとは。
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 駅に戻る前に、大通りを少し外れて塩釜の街中を歩いていた時に、興味深いものに一つ出会った。

 陸奥国一宮として人々の信仰を集めて来た鹽竈神社。その麓には神社の別当寺として室町時代に法蓮寺という寺が創建され、江戸時代には大いに栄えていた。先ほどの東参道入口の鳥居を潜ったすぐ先に位置していたようで、芭蕉や曾良もそこに宿泊している。ところが、明治の初年に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた際に、この法蓮寺は廃され、幾多の破壊を受けて仏像や仏具類も散逸してしまった。当然にして諸堂も打ち壊されたのだが、その内の本堂の向拝(本堂の正面階段上に屋根がせり出した部分)を多賀城にある寺が譲り受け、本堂の玄関として長年使用して来たところ、2006年になってその本堂も建て替えの対象となり、向拝も一緒に解体・廃棄の運命にあった。それに対して、塩釜の市民グループなどによって向拝の保存運動が起こり、2008年に塩釜の酒造会社の新社屋の玄関として使用されることになったというのである。
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(見事に保存された法蓮寺の向拝)

 因みにその酒造会社とは、江戸時代中期から御神酒(おみき)酒屋として鹽竈神社との関係が深かった、あの浦霞を造る佐浦酒造である。新社屋の隣にはレトロな姿をした浦霞の販売店もあった。折角だから中を覗いて行きたいところだが、私は病気治療中のため、もうしばらくはアルコールを控えねばならない。店に入るとロクなことにならないから、今回はその外観だけを楽しませてもらうことにした。
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 本当にその日に思い立って、仙台から電車で30分だけ足を延ばしてみた塩釜の街歩き。小さな街にもなかなか深い歴史があることを、改めて思った。

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2勝1敗 [スポーツ]


 9月16日(土)、14時に始まった所沢のメットライフドームでの試合。公式戦130試合目となるこのゲームで埼玉西武ライオンズを7対3で下し、福岡ソフトバンクホークスが2年ぶりにプロ野球パ・リーグのレギュラー・シーズン優勝を飾った。ホークスと同様、前日までにリーグ優勝のマジックナンバーを1としていたセ・リーグの広島東洋カープにも同日優勝の可能性があり、皆既日食にでも出会うようなその希少な機会を私は楽しみにしていたのだが、残念ながらカープは終盤に逆転を喰らって試合を落とし、59年ぶりのセ・パ同日優勝は叶わなかった。それはまた、来年以降の楽しみにしておこう。

 現在のレギュラー・シーズン143試合制の場合、優勝ラインは通常だと80勝台になる。今シーズンのホークスは、16日の試合で優勝を決めた時点で89勝41敗、貯金は実に48。二位ライオンズとは14.5ゲーム差のブッちぎりだったのに、それでも89勝が必要だったのは、ライオンズが73勝54敗3分で貯金19、三位イーグルスが68勝54敗2分で貯金14と、上位三チームがいずれも大きく勝ち越していたからだ。それでいて9月16日の優勝はパ・リーグの最速記録を1日更新しているのだから、ホークスがいかに順調に勝ち星を重ねて来たかということである。

 ホークスの胴上げがかかった土曜日の大一番。私は外出先から帰って来て、6イニング目の攻防からテレビ観戦をしたのだが、その時点でホークスは主砲柳田悠岐の30号2ランなどで既に6対1と試合を有利に進めており、選手たちものびのびとプレーをしていた。先発の東浜巨が6回を2安打1失点9奪三振の好投でゲームを作り、7回表には指名打者アルフレド・デスパイネの一発が飛び出して7対1に。そして終盤は7回裏を左腕のリバン・モイネロ、8回裏を岩嵜翔が、それぞれ中継ぎ投手としてゼロに封じ、ライオンズの追撃を許さない。

 試合はいよいよ9回裏を迎え、この点差ではセーブ・ポイントがつかない局面ながら、「守護神」デニス・サファテが登板。セーブの日本新記録を更新中(現時点でS51)で全幅の信頼を集めるこのサファテが、私の見る限りこの日に登板した投手の中では一番緊張していたように思う。その結果としての被安打3と2失点はご愛嬌というものだろう。最後の打者を三塁ゴロに討ち取り、遂にゲームセット。そして次の瞬間に内野の真ん中で躍動しながら膨れ上がる歓喜の輪。文字通りの胴上げ投手になったサファテは、間違いなくシーズンMVPに選ばれることだろう。
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 お立ち台に上がった工藤公康監督は、「リーグ優勝を昨年は出来ず、クライマックス・シリーズで負けてから1年弱、この事だけを思って・・・。」と語ったところで感極まって、珍しく涙を見せた。最大11.5ゲーム差をつけながら北海道日本ハムファイターズの逆転優勝を許してしまった昨年のことが、よほど悔しかったのだろう。その悔しさから再出発した2017年のホークス。工藤監督は常々「3連戦を勝ち越すことで、貯金を一つずつ積み上げていく」、「3連戦の頭を取ることが重要」と述べていたが、その結果はどうだったのか。

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 ここまでのホークスの130試合中、パ・リーグの中でのリーグ戦112試合は77勝35敗で勝率.694だから2勝1敗のペースを7勝上回っている。そしてセ・リーグ6球団との交流戦は12勝6敗だから、まさに2勝1敗ペースそのものだ。3月31日の開幕後、4月末までの1ヶ月間はモタついていて貯金を殆ど積み上げられなかったが(上記グラフの①の部分)、5月以降は勝ち負けに大きな山谷がなく、非常に安定的かつ着実に貯金を増やしていった。

 そして、ここまで37回あった3連戦の内27回で初戦を取り、合計では78勝33敗、勝率は実に.703であった。「3連戦の頭を取る」ことが、やはりその後の試合を有利に進めることに繋がったといえるだろう。
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 それに対して、二位ライオンズは7月のオールスター戦が終わるまで投打が噛み合わず、貯金は一桁台に過ぎなかった。それがオールスター戦開けの7月21日から突如として13連勝を遂げ、8月20日までの一ヶ月間に21勝6敗という驚異の追い上げを見せた。貯金も20台に乗せたのだが(上記グラフの②の部分)、8月下旬からはその勢いも陰り、貯金は一進一退を繰り返すことになった。

 そして第三位のイーグルスは、開幕当初から打線が好調で見事なダッシュに成功し(上記グラフの①の部分)、ずっと首位を走り続けていた。オールスター戦の前後からはホークスとデッドヒートを繰り返し、必死に首位を守り続けて来たのだが、7月末から急速にペースダウン。8月15日からは6連敗、一日おいて8月23日から更に10連敗を喫してしまい、9月に入ってもその基調を食い止めることは出来なかった。貯金がmaxに達した7月28日以降、ホークスが優勝を決めた9月16日までの戦績は実に13勝29敗1分、勝率.310という体たらく。7月26日以前の貯金がなかったら、とてもAクラスには残れなかっただろう。

 上位3チームの打撃・投手・守備の主要な指標について、今シーズンの9月16日までの実績と過去3年(2014~2016年)の実績値の平均を比較してみると、以下の通りとなる。
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(上位3チームの戦績 左:2014~2016年の平均値、右:9月16日現在の今シーズン)

 ホークスは前述のデスパイネの加入によって本塁打数が格段に増え(9月16日現在、彼一人で33本を打っている)、懸案であった主砲が固まった。チーム打率は寧ろ過去3年平均よりも少し低いぐらいで、盗塁も実力に比して抑え気味だが、OPS(出塁率+長打率)は向上し、過去平均並みの一試合当たり得点数を維持している。走らせなくてもランナーを返せる打線になったというべきか。

 寧ろ注目すべきは投手力だろう。9月16日時点でのチーム防御率3.06は12球団ダントツで、セーブとホールドの各ポイントも、ここまでの数字を誇るチームは他にない。優勝を決めた試合も含めて、6回終了時にリードしていた試合は74勝1敗という驚異的な勝率だったのも、先発・中継ぎ・クローザーの「方程式」がガッチリと確立していたからだ。対戦チームは何れも、試合の中盤までにリードを許してしまうとその後はもう歯が立たない、という実感を持ったことだろう。

 更には、地味ながらも注目したいのが守備力である。もともと高かった守備率が今年は.993にまで向上し、失策も昨年のほぼ半数に減っている。何れの指標も12球団のトップだ。資金力のあるチームだけに「大型補強」ばかりが毎年注目されがちだが、こうした指標を見てみると、ホークスは大砲を並べたチームではなく、寧ろ好投・堅守のチームなのである。

 それに対して、ライオンズは明らかに打のチームだ。今シーズンの得点数やOPSではホークスを上回っている。「辻野球」のモットーなのか、今シーズンは盗塁にも積極的だ。他方、投手陣は総じて今シーズンは頑張ったと言えるのだろうが、セーブの少なさに象徴されるように、試合を決める「投の方程式」が未確立という課題が未だ解決していない。加えて守備力は大きく見劣りしている。簡単に言ってしまえば、打力はあるのに、投手力や守備力の面でそのリードを守れず、特に接戦になった時にどうも勝ち切れない、という印象だった。

 そして第3位のイーグルスは、大方の予想とは裏腹に、今年のオールスター戦までは大健闘だった。カルロス・ペゲーロジャフェット・アマダーの両外国人の加入によって打力が大きく向上したことに加え、先発投手・岸孝之の獲得、セットアッパー・福山博之の大活躍などにより投手力も充実。首位を突っ走る前半戦の快進撃は本当に驚異的だった。ところが、ゼラス・ウィーラーを含めた三人の外国人野手が揃って調子を落としてしまい、投手陣にも疲れが出始めた7月下旬以降、勢いを失ったチームは坂道を転げ落ちるように連敗を重ね、3位にまで後退。梨田昌孝監督は「全く別のチームになってしまったようだ」と嘆いたが、要は一年を通して戦い続ける体制が十分に出来ていなかったということなのだろう。

 先ほどのグラフだけだと、ホークスは年間を通じて大きな問題が何も起こらなかったように見えてしまうが、実は主力選手が怪我・故障で離脱という危機に何度も見舞われていた。

 そもそも開幕前から、中継ぎで昨年度に抜群の成績を挙げたロベルト・スアレスがベネズエラ代表としてWBCに出場中に故障。そして先発陣の中から和田毅武田翔太もそれぞれ故障で開幕早々に離脱した。WBC日本代表として世界にその名を知らしめた千賀滉大も、背中の張りを訴えて夏前に一時離脱。更には、キャプテンにして四番打者の内川聖一が骨折などで一軍登録を二度抹消されている。

 そんな危機を乗り越えられたのは、いつでも一軍で活躍出来る若手選手たちの育成・指導システムと、その中から起用に応えた若手たちの台頭であり、野手で複数のポジションをこなせる何人ものユーティリティー・プレイヤーたちの存在であり、そして「好調な選手から使う」という、選手間の競争を促しながら個々の選手のコンディションを綿密に把握して起用する首脳陣のマネジメントであったのだろう。投手:千賀滉大・石川柊太捕手:甲斐拓也という共に育成出身のバッテリーで計21勝を挙げたのは、それらの努力の象徴といえる。
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 そこで思い出すのは、1999年に福岡ダイエーホークスがリーグ初優勝と日本シリーズ優勝を遂げた後しばらくしてからの、王貞治氏の言葉である。眼光鋭くグラウンドに立ついつもの「王監督」とは異なり、行きつけの店・博多の「テムジン」で餃子とビールを楽しみながらの、王さんの素顔が良く出ていた民放のインタビュー番組だった。

 終始にこやかに応じていた王さんが、「今シーズンは、監督が結果的に起用した選手が結果をよく出しましたね。」というインタビュアーの問いかけに、その時だけ表情を変えてきっぱりと、「その『結果的に』という言われ方は、俺には納得いかねえなあ。」と答えたのだ。

「『結果を出した』というのはね、それだけ日頃からやって来た選手たちが活躍の場を与えられてね、その時に自分が今まで溜めこんで来た力を出したんだよ。そういう風に言ってやんなきゃ、選手がかわいそうじゃないか。試合に出られない人は歯を食いしばって、試合に出たらやってやるぞって気持ちでやって来たんだからね。」

「だって、ポジションっていうのは一つしかないんだから、出られないのは選手はわかっているからね。だけど、『だからお前はいらないんだよ。』じゃ選手は絶対働かないし、意欲も持たない。だから(出場の機会が)来た時のためにね、『お前には期待してるんだ。』ということを常に問いかけておかないと。」

「むしろ、試合に出てる奴は放っときゃいいんだよ。試合に出てない選手のそばにいて見て、『あ、今のいいな』とか『悪いな』とか、『もっとこうした方がいいよ』とかいうことを言っていないと。きっかけを掴めば行けるんだけど、そのきっかけをなかなか与えられない。でも、その来た時のためにみんな準備してたんだ。そして、ああやって結果が出たんだから、もう『まぐれ』じゃないんだよ。」

 今更言うまでもない超一流のプレイヤーだった「世界の王」が、レギュラー・クラスでない選手たちとこんな風に熱く接して機会を与えていたのだ。それを「たまたま使ってみたら上手くいった。」などと単純化されてしまうのは聞き捨てならなかったのだろう。そんな王さんが会長を務める今のホークスにも、こうした王イズムはきっと受け継がれているに違いない。
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 選手たちを競わせながら、こうしてモチベーションを持たせ続ける手腕というものは、私たちの普段のビジネスにおいても参考にすべきことだろう。私の会社などはこのように競わせるほど「選手層」は厚くないが、だからこそ全員が活躍できるようになってもらう必要がある。そのためには、今はサブの仕事をしてもらっている人たちにも活躍の機会を与え、起用したからには信頼し、コミュニケーションをよく取りながら実戦を通じて育てていくことが必要なのだが、頭の中にはあってもなかなか実行出来ないことだ。

 それはともかく、このようにして選手たちはレギュラー・シーズンを文字通り戦って来たのであれば、日本シリーズはやはりリーグ優勝チーム同士の対戦とすべきだろう。蛇足感しかないクライマックス・シリーズなどはもう止めて、今年の場合であればカープとホークスとの頂上対決をシンプルに、なおかつ両チームへのリスペクトを持ちながら、じっくりと楽しみたいものである。

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川を眺めた日 [散歩]


 このところ、週末の散歩は何だか引き寄せられるように隅田川の周辺を歩いている。

 9月最初の週末は、それまで降り続いていた雨が土曜日の昼前には上がり、日曜日は終日好天で暑さもほどほどだという。それならばと、日曜日の昼前から家内と散歩に出ることにしたのだが、二人で選んだ場所が、隅田川の河口に近い佃島周辺だった。

 今から20年以上前、我家の子供たちがまだ小さかった頃、隅田川を上り下りする遊覧船は既にあったのだが、乗ってみると両岸の眺めは堤防と倉庫ばかりで何とも殺風景だった覚えがある。その時代に比べると、今は「隅田川テラス」と呼ばれる遊歩道が両岸に整備され、街路樹も植えられて、その景観には昔とは見違えるほど豊かになった。特に隅田川の河口が二股に分かれる佃島のあたりは、船から眺める遊歩道や公園の緑がきれいで、聖路加病院やリバーシティ21などの高層ビルや中央大橋の幾何学的なデザインとの組み合わせがなかなかいい。今日は永代橋の西詰を起点に、その佃島周辺の遊歩道を散策し、月島・築地を経て銀座まで歩いてみよう。
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 東京メトロを乗り継いで茅場町で外に出て、広い永代通りを東に600mほども歩くと、重厚なアーチが印象的な永代橋が見えて来る。江戸時代までは隅田川に架かる最南端の橋だった。これを渡ってもう少し行けば富岡八幡宮の門前町として栄えた門前仲町だが、今日はその方面へは行かない。
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 永代橋の西詰から右に曲がって川岸の「隅田川テラス」に出ようとした時、マンションの植え込みの中にちょっとした石碑があった。「船員教育発祥の地」と書いてあり、その碑文によれば、明治8年11月、内務卿・大久保利通の命により、岩崎弥太郎がこの地に「三菱商船学校」を設立した由。江戸時代を通じて大型船の建造が禁じられていた日本は、明治になって西洋船による海運が始まった時に船乗りが足りず、この地でその養成を始めたという訳だ。言うまでもなくこの学校が、隅田川の対岸を1kmほど下った越中島の東京高等商船学校(現・東京海洋大学)の前身である。
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(中央区観光協会HPより拝借)

 隅田川テラスに降りると、行く手に佃島のタワーマンション群が天を突いている。斜張橋と呼ばれるタイプの中央大橋との組み合わせが、ちょっとした未来都市のようだ。
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 「佃島のタワーマンション群」と書いたが、今目の前に見えているのは、実は佃島ではなくて石川島である。元々は石川島と佃島の二つが隅田川の中にポツッとあって、江戸時代の内にこの二つが繋がったのだそうだ。石川島の方は17世紀前半の江戸開幕府早々の頃に、石川八左衛門重次という旗本が徳川家からこの島を拝領し、屋敷を構えたことからその名が付いたという。

 一方の佃島は、徳川家康との繋がりが更に深いことで知られる。1582(天正10)年6月2日に本能寺の変が起きた日、家康は堺の街を見物中だった。その家康が明智光秀の軍勢をかわして命からがら岡崎へと逃げ帰る、いわゆる「伊賀越え」の際に、多数の舟を出して淀川を密かに遡上するのを助けたのが摂津国佃村の漁民たちだった。これに恩義を感じた家康は、後に江戸を支配した際に、折からの人口増による江戸の食糧難への対策も兼ねて、佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せ、この島の砂州を埋め立てて住まわせると共に、特別の漁業権を与えたという。それが、彼らの故郷の名を冠した「佃島」の始まりなのだそうだ。

 幕末の嘉永年間に作られた江戸の古地図を見ると、石川島と佃島が繋がっただけのこじんまりとした様子がわかる。まだ月島以南の埋め立て地が何もなかった頃のことだ。
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 1830(天保元)年頃に作製された葛飾北斎の「富嶽三十六景」の中に、「武陽佃島」という作品がある。画面中央に富士の遠景が描かれているから、この絵は隅田川の上流側から河口側を眺めている訳で、だとすれば中景左の緑に覆われた島が石川島、集落のある右側の島が佃島なのだろう。現在の地名では佃一丁目の、堀で囲まれた一角が当時の佃島にあたる。
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 因みに、この佃島だった場所の北端には住吉神社が置かれている。主祭神の住吉三神は航海安全の神様とされ、全国の住吉神社の総本社が摂津一宮の住吉大社だ。佃村の漁民たちの江戸移転に際してこの「すみよっさん」を一緒に連れてくるあたり、いかにも大阪の風と言えようか。
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(左)佃島の住吉神社 (右)歌川広重 「江戸名所百景」より「佃しま住吉の祭」

 さて、中央大橋を渡ってかつての石川島へ。川沿いは遊歩道と石川島公園が整備され、永代橋や東京スカイツリーを眺めながら一休みするにはいい場所だ。ここで隅田川が二股に分かれているので、目の前の景色は右も左も隅田川の河口である。この石川島には幕末期に水戸藩が石川島造船所を設置。後にこれが民間に払い下げられ、石川島播磨重工業の前身となった。私たちの背後に林立するタワーマンション群を眺めていると、その石播の工場が1979(昭和54)年までこの場所で稼働していたことなど、今ではとても想像できない。
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 それまでは適度に高曇りだったのが、ここで一休みしている間に晴れ間が大きく広がり、日差しがいささか暑くなった。そんな時に川沿いは風が涼しくて心地よい。家内と私はタワーマンション群を抜けて東京メトロの月島駅方面へと向かう。歩いて行く道がちょうど佃島と新佃島の境目あたりで、後者は佃島の南隣に明治になってから埋め立てられた土地である。ここまで歩く間に見て来た近未来的な景観とは対照的に、新佃島は路地も路地裏も実に昔懐かしい庶民的な姿で、私などはついホッとしてしまう。
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 少々余談になるのだが、今は埋め立て地が格段に広がった東京湾も、幕末に黒船がやって来た時には隅田川の河口に石川島と佃島があるだけだった。浜離宮から西では現在の東海道本線の線路ぎわが海岸線で、埋め立て地は何もなかったのだ。これではいかにも無防備だからと、品川の沖合に7つの砲台を設置したのが、いわゆるお台場だ。その内の3号と6号の砲台が今も東京レインボーブリッジの南側に残されている。
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 さて、明治・大正時代には佃島・新佃島の更に西側が埋め立てられた。それが現在の地名で言うと月島と勝どきだ。東京メトロ有楽町線の月島駅がある広い通りが、佃島・新佃島と月島の境界になっていて、月島側へ歩いて行くと名物の「もんじゃ焼き」の店が軒を連ねている。干拓によって町が形成されていった頃、この地域で小麦粉を出汁で解いたものを熱した鉄板の上に垂らして焼きながら文字を覚えさせたのが、「文字焼き」→「もんじゃ焼き」の起源なのだそうである。

 茅場町を起点にここまで歩いてきて、さすがに喉も乾いてきた。盛夏をとっくに過ぎたとはいえ、それなりの日差しが照りつける中、今まで通りならもんじゃ焼きをツマミにビールを一杯!と行きたいところだが、今の私は年末に抗がん剤の服用が終わるまでの間、アルコールはご法度である。今日のところは我慢ガマン。それもまた人生だ。
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 明治時代の終わり頃には既にその骨格が出来上がっていた人工島の月島。昭和になると干拓による土地造成はその南の晴海へ、そして戦後はその更に沖合の豊洲、そして有明へと進んで行った。今日はそれを全部歩く時間はないが、もう少し気候が良くなったら散歩コースにも入れてみよう。

 月島の商店街から北西に向かうと、程なく隅田川の堤防に出る。少し上流方向に戻って佃大橋を渡ろう。1964(昭和39)年8月27日というから、東京オリンピック開会日の一ヶ月半前にこの橋が竣工するまで、佃島と対岸の明石町の間には無料の渡し船が運行されていたのだが、今の景観にはその面影はない。
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 その佃大橋を渡っていると、ちょうどTokyo Cruseが運行する松本零士氏デザインの観光船・ホタルナが聖路加病院をバックに隅田川を遡って来た。
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 そして対岸の「隅田川テラス」に出ると、聖路加病院に近いこの一帯は花壇がよく整備されている。それらを愛でながらゆっくりとジョギングを楽しむ外国人たち。都心にもお金をかけずに良い気分転換を図れる場所が結構あるものだ。
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 そして、植え込みの中にはもうヒガンバナの姿が。そういえば秋のお彼岸まで、あとちょうど20日だ。
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 前方に見えていた勝鬨橋の姿が大きくなると、今日の隅田川沿いの散策コースも終わりに近い。1940(昭和15)年竣工のこの橋は中央に可動橋部分を持つために、その重厚さは他の橋とは全く別格だ。ずっと眺めていたくなる橋である。
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 行く夏と始まり出した秋とが交互に顔を見せ合ったような半日。川沿いの心地よい風を楽しんだ家内と私は、それから築地と銀座を横切って数寄屋橋まで歩いた。距離にして約5.7キロ。ショッピングとは無縁ながら、こういう都心の散歩も悪くないものだ。

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「飛び道具」の時代に [映画]


 1972年5月26日、リチャード・ニクソンとレオニード・ブレジネフという米ソの巨頭がモスクワで握手を交わした。冷戦の中で増え続けた核兵器の数を相互に制限するために1969年から米ソ二大国が話し合いを重ねて来た、いわゆる第一次戦略核兵器制限交渉(Strategic Arms Limitation Talks 1 “SALT 1”)が一定の妥結に至り、モスクワで調印式が行われたのである。

 これによりICBM(大陸間弾道弾)やSLBM(潜水艦発射弾道弾)といったミサイルについて現状の数量を追認した上で、「もうこれ以上は増やさない」という約束をともかくも両国が交わすことになった。他にも制限すべき事項が多々残されてはいたが、ひとまず核軍縮の第一歩になったことは確かだ。それは、米ソ両国が核戦争寸前の事態に直面した1962年のキューバ危機から10年の時を経ていた。
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 このSALT 1の調印式の2ヶ月ほど前になる同年3月20日、ちょっと風変わりなソ連映画が世界で公開された。ポーランドの著名なSF作家、スタニスラフ・レムの小説を原作とした『惑星ソラリス』(СОΛЯРИС)。この年のカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞し、監督アンドレイ・タルコフスキーの名を世界に知らしめた作品である。

 この映画はほぼ同時期に作製されたSF映画としてスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』と比較されることが多く、当時のソ連映画界の技術や財政面での制約もあって、『惑星ソラリス』はSF的な見どころの少ない地味な映画、という印象を持った人が多かったのではないだろうか。

 加えて、日本で公開されたのは5年後の1977年で、それも岩波ホールでの上映だった。その年にはジョージ・ルーカスの『スターウォーズ』の初作が大々的に公開され、翌年にはスティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』が空前のヒット。宇宙物の映画は完全に新しい時代に入っていた。『惑星ソラリス』は日本に入って来た時から、SF映画としては既に一時代前の、地味でマイナーな物として扱われたのではないだろうか。1カットが実に長く、滴る水やざわめく緑などの描写を得意とし、流れるような映像と高い芸術性に特徴を持つタルコフスキー映画の熱烈なファンは別として。(以下、大いにネタバレあり。)
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 バッハのコラール前奏曲BWV639「我汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ」の重厚な響きと共に始まるシンプルなタイトル・ロール。それに続くのはタルコフスキーお得意の水と緑が豊かな田舎の情景だ。それは主人公の心理学者、クリス・ケルヴィンの故郷である。久しく帰郷していなかったのだろう。感慨深げなクリスが池のほとりを歩いて実家の庭先に出ると、父が招いた客人が到着したところだった。

 クリスは翌朝、宇宙に向けて飛び立つことになっていた。長年にわたり人類が探査を続けていた惑星ソラリス。その星を覆う「ソラリスの海」の上空に静止する宇宙船プロメテウスで起きていることを把握し、ソラリス探査プロジェクト存続の是非を判断するのが彼に与えられたミッションだった。

 これまでの探査によって、「ソラリスの海」はプラズマの海であり、それ全体が一つの生命体であるかのように知性や意思を持つことが解っている。しかし、プロメテウスからどのような手段で交信を試みても、それに対するソラリスからの返答はない。逆に、プロメテウスに滞在する科学者たちが幻覚のようなものに悩まされることが続き、それが何なのかを一向に解明できずに混乱するばかり。ソラリス探査プロジェクトは何年も停滞したままで、その存在意義が問われていた。
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 父が招いた客人、元宇宙飛行士のバートンも、かつてソラリスで奇妙な体験をした一人だった。同僚の一人がソラリス探査中に行方不明となり、救助に向かったバートンは、沸き上がるソラリスの海からあり得ない物が現れるのを目撃。地上に戻った彼はその一部始終を会議で発表するのだが、撮影したはずの動画には何も映っておらず、「身長が4メートルもある赤ん坊の姿を見た」という彼の話を誰も信じようとしない。

 宇宙滞在歴11回というバートンの名誉がズタズタに引き裂かれてしまったその会議の様子を収録したビデオ。それは、プロメテウスへ飛び立つ前にクリスに見せようとバートンが持参したものだった。その映像の中で、自分が目撃したことを必死に説明する若き日のバートンと、今はすっかり頭も禿げ上がり、杖を頼りに歩く現実のバートン。その落差がソラリス探査プロジェクトの停滞の長さを物語る。プロジェクト存続の是非を巡る議論は、その当時から少しも前進していなかったのだ。
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 プロメテウスに到着したクリスは、荒廃という言葉で表すしかない船内の様子に愕然とする。通路に物が散乱し、複数の人間が協働している気配がない。85人を収容出来るこの宇宙船に残っていたのは、僅か3人の科学者だけだった。

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 電子工学者のスナウトと、天体生物学者のサルトリウス。クリスへの歓迎の言葉すら発しない二人の様子は尋常ではなく、何れも自室に他人が入ることを強く拒んでいる。しかも彼らの室内には、この船内に存在するはずのない人物(のようなもの)が隠されている疑いがあった。

 そして、もう一人の物理学者ギバリャンがクリスの到着前に謎の自殺を遂げたことを二人から聞かされる。しかも、冷凍したギバリャンの遺体を安置した部屋にも誰かが出入りしている気配があった。更には、かつてクリスの同僚だったギバリャンが、その自殺の前に収録していた遺言とも言うべきビデオ・メッセージ。そこに映し出された彼は明らかに何事かに怯えていた。

 着任早々に直面した異常な事態の数々に頭が混乱するクリス。自室でいつしか眠りに落ち、そして目覚めた時に、そこにいるはずのない人物の姿を見て驚愕する。それは10年前に自殺した妻・ハリーだった。プロメテウスに滞在していた多くの科学者たちが悩まされた「幻覚」とは、このような現象のことだったのか。

 今目の前にいる「女性」の見かけはハリーそのものだが、本物がここに現れるはずがない。頭ではそう解っているのだが、妻にそうしていた時と同じようにクリスは「彼女」を抱擁してしまう。だが、「彼女」は本物ではないからハリーとしての過去の記憶は一切持たず、クリスが荷物に入れて来たハリーの写真を見て、これは誰かと問いかける。
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 あり得ない事態に直面したクリスは、ハリーを小型ロケットに乗せて宇宙の彼方に「追放」することを思い立つ。しかし、ロケットが飛び去った後に自室に戻ってみると、そこには再びハリーの姿が。ようやく話が少しずつ見えて来るのだが、それ自体が一つの生命体として知性や意思を持つ「ソラリスの海」は、どうやらそこに近づく科学者たち一人ひとりの深層心理に入り込み、その中にある物の姿を具象化して彼らの目の前に見せる能力があるようだ。スナウトの説明によれば、「ソラリスの海」との交信手段として強いX線を海面に照射した直後から、ニュートリノで出来たこのような「客人」が船内に現れるようになったという。

 クリスの心の奥底にあった、今は亡き妻ハリー。そして、その後のシーンを通じて映画が暗示するのは、ハリーは嫁に来たもののクリスの母との折り合いが悪く、クリスがそこから守ってやれなかったことであるようだ。つまり、クリスが心の中に抱え続けて来た一番の痛み、他人には最も触れて欲しくない部分、キリスト教で言うところの「原罪」とはちょっと違うのだろうけれど、彼が生きている限りずっと背負い続けて行かねばならない固有の物を、ソラリスは目に見える形にして彼の前に送り届けたのだ。ならば、スナウトやサルトリウスが自室の中に隠している「誰か」も、彼らがそれぞれに背負って来た過去の痛みを具象化したものなのだろう。
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 「ソラリスの海」から送り込まれた「ハリー」。それは人間ではなく、ましてや甦った死者でもないのだが、科学者である筈のクリスは、やがて本物の妻に対するのと同じ愛情を持つようになる。一方の「ハリー」も次第に人間と同じような感情を持つことを学び始めた。そして、本物のハリーではないことに「彼女」自身も苦しみ、自殺を試みたりもするのだが、人間ではないから直ぐに蘇生してしまう。

 「彼女」が本物のハリーではなく、クリスの心の奥底に封印されて来た重い過去を具象化したニュートリノの集合体に過ぎないことは、今後も変わりようがない。そうだとわかっていても堰き止めることの出来ない相手への愛。それをどう考えたらよいのか。決して払拭することの出来ない自分の過去と、我々はどう折り合って生きればいいのか。更に視野を広げれば、ソラリスという地球外生命に対して人類はどのように接するべきなのか。画面の中に色々な暗示を散りばめながら、タルコフスキー監督は私たちに様々な「問い」を投げかけ、登場人物を苦悩させ続けるのだが、それらに対する答は一切ないといっていいだろう。実に何とも「救われない」映画なのである。

 考えてみれば、共産主義を奉じるソ連という国で作られた映画だ。登場人物が愛に苦しみ、救いを求めても、そこで神を語る訳にはいかないのだろう。それに、クリスの目の前に送り込まれた「ハリー」をどう定義するかにもよるが、それを限りなく人間に近いものと考えるならば、神でもないソラリスが「造物主」になってしまうのに、そのことに対しても映画では特に触れることがない。そんな風に神がいないから、登場人物は苦悩を続けるしかないのだ。これでは「救われない」のも、むべなるかな。そう思うと、この映画で使用されている唯一の音楽がバッハの教会音楽「我汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ」であるのも、実によく出来た逆説と言うべきなのかもしれない。
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 タルコフスキー監督は、科学者のクリスにこんなセリフを吐かせた上で、映画をラストシーンへと誘導していくのだが、このあたりの構成は見事である。

 「君はそろそろ地球に帰った方がいい。」というスナウトのセリフに続いて映し出される緑の水草。クリスが再び踏んだ故郷の土。変わらぬ実家の姿。父との再会。そして、なぜか許しを乞うように父の足元に跪くクリス。だが、カメラがその様子を俯瞰しつつ上空へと舞い上がるにつれて私たちが知ることになる衝撃の事実・・・。本当に最後の最後まで謎に満ちた映画である。(それにしても、バッハのBWV639は何度聴いても素晴らしい!)


 この映画が世の中に送り出された1972年。それが、冒頭に記したSALT 1のように米ソ間でのデタント(緊張緩和)が始まった時期であることを深読みしているとキリがないのだが、少なくとも今よりは明確なイデオロギー対立の時代であったことは言うまでもない。そんな時代に、
 ● 地球外生命へのコンタクト方法に道徳は必要か否か、
 ● 本物の人間ではない「ハリー」への愛は成り立つのか、
 ● 個々人が抱く愛はなぜ人類愛や地球愛へと演繹して行かぬのか、
などを格調高く問いかける映画が作られていたことは、注目に値するのではないか。鉄のカーテンの向こう側であるにせよ、地球外生命であるにせよ、自分たちとは異なる相手とどうやって共存して行けばいいのか、そのことについての真摯な模索があったと考えることは出来ないだろうか。

 米ソ間の戦略核兵器制限交渉は、核兵器の運搬手段や複数弾頭化も制限の対象に加えた1979年のSALT 2の調印へと発展するのだが、同年に起きたソ連によるアフガニスタン侵攻に反発した米国議会がそれを批准しないまま、1985年に失効。そして1991年にはソ連そのものが消滅してしまったが、その後もイデオロギー対立とは異なる図式の中で、核兵器は今なお主要国にとって安全保障の最後の切り札である。

 他方、米ソ間のデタントと並行して核拡散防止条約(Treaty on the None-Proliferation of Nuclear Weapons “NPT”)が1970年に発効したものの、核兵器保有国のインド・パキスタンは加盟せず、イスラエルは核の保有を肯定も否定もしていない。そして北朝鮮は1993年に同条約から脱退し、国際社会を敵に回して核武装への道を進んでいる。加えて、主に経済のグローバル化への反発から偏狭なナショナリズム・排外主義が世界各地で跋扈し、地球外生命どころか異民族や異教徒を敵視してテロが横行する世の中になってしまった。そうなると、核兵器の密輸が大いに懸念されるところである。

 そう考えると、果たして『惑星ソラリス』を「一昔前の地味なSF映画」と言う資格が私たちにはあるのだろうか?「飛び道具」で花火遊びに興じる某国の様子を見るにつけ、またそれに対して一枚岩での対応が出来ない関係各国の醜い思惑の数々を見るにつけ、今の私たちがよほど品下がる時代の中にいることに「救いのない」思いを抱いてしまうのは、私だけではあるまい。

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89歳の雄姿 [鉄道]


 8月27日(日)午前9時26分、東武鉄道の特急「りょうもう3号」は、定刻通り新桐生駅に到着した。この駅で下車したのは私を含めて十数名ほど。その一団がホーム中ほどの階段を下りて線路を潜り、反対側のホームに上がって改札口を出てしまうと、二面二線のホームは特急停車駅とも思えない静けさに包まれた。
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 8月最後の日曜日。昨日まで数日間の暑さをもたらした太平洋高気圧が少し南に後退し、今朝の関東地方は涼しい風を送ってくれる中緯度帯の移動性高気圧に北から覆われている。今朝早く東京を出て来た時のどんよりとした空に比べると、群馬県桐生市の空はいわゆる高曇りで、一部には青空ものぞいている。そして東京よりも晩夏の緑が鮮やかな一方で、りょうもう号の車中から眺めた田んぼには僅かながら黄味が掛かっていた。目の前のことに一喜一憂してばかりの私たちの暮らしとはちがって、ゆっくりと、しかし着実に、季節はその歯車を進めているようである。

 今年の4月下旬に膵臓の約半分を切除する手術を私が受けてから、一昨日でちょうど4ヶ月が経過した。先月一杯までは何しろ「術後の養生」を最優先にせざるを得ず、体調の管理に随分と苦心することが続いていたのだが、8月のお盆に入る少し前頃からは、まるで小川を一つポンと飛び越えたように、それが明らかに楽になった。食欲もかなり回復し、体を動かすことも億劫でなくなって来たのである。自分の体にとっては、病院から処方されている錠剤だけではなく、やはり「時の経過」そのものも薬なのだろう。

 先週の経過観察でも、主治医から「暑さを上手く避け、水分をしっかり補給しながら運動を心掛けてください。」と言われていた。そうであれば今日の日曜日は少し遠出をして歩き、久しぶりに「乗り鉄」&「撮り鉄」に興じてみよう。幸いにして今日は暑さが一服し、適度な曇で日差しが柔らかいのが何よりだ。

 降り立った東武桐生線の新桐生駅は、実は桐生市の中心部からはだいぶ離れている。群馬県の太田駅と赤城駅を結ぶこの路線は、1911(明治44)年に開業した藪塚石材軌道という、石材を運ぶための人車軌道としてスタートしたのだった。要するに芥川龍之介の短編小説『トロッコ』に出て来るような、人夫が車両を押して動かす軌間610mmの細々としたものだったのである。それが同年に太田軽便鉄道へと名前を変え、2年後には東武鉄道が買収。既に開業していた東武伊勢崎線と同じ軌間1067mmへと改軌されて東武桐生線になった。

 桐生という街は絹織物の名産地として古来その名が全国に通っていたが、石材軌道という生い立ちからすれば、この鉄道が桐生の中心地を敢えて通る必要もなかった訳だ。従って、今日の私は桐生の街中にある最初の目的地まで、この駅から3キロの道のりを歩かねばならない。
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 新桐生駅前から緩やかに下る一本道を歩いて行くと、1キロ弱で渡良瀬川の橋を渡る。広々とした河原を眺めつつ、川の上流方向に目をやると、本来ならばそこに見えている筈の赤城山は残念ながら雲の中だ。それでも、街の周囲を取り巻くポコポコとした山々や河原の緑を眺めていると、遠くへやって来た気分になる。
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 橋を渡り終えてからもせっせと歩き続ける。目的地まであと2キロ。そこに10:20頃迄には着いておきたいから、それなりの速度で歩く必要がある。やがてJR両毛線の高架をくぐり、最初の交差点を左折して300mほど進むと、左手にJR桐生駅の駅前広場。その交差点を今度は右折して更に200mを歩くと、ようやくお目当てのレトロな建物が現れた。上毛電鉄西桐生駅である。
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 1928(昭和3)年11月の開業以来の姿をそのまま残すこの駅舎。マンサード屋根と呼ばれる形状の屋根を持つ洋風建築で、今や国の登録有形文化財なのだ。一度訪れてみたいと、ずっと思っていた。

「西桐生驛」という文字が今どき右から左へと書かれ、しかも「駅」の旧字が使われている。壁に貼られた一枚の紙は今日の臨時列車のダイヤをマジックで手書きにしたもので、そのシンプルさがいい。
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 そして駅舎の中に入ってみると、そこには子供の頃に見た田舎の駅のような佇まいがそのままに。自動券売機はもちろんあるが、改札口ではもしかしたら今でも硬券の切符を売っているのではないかと思うほどだ。(因みに上毛電鉄はSUICAやPASMOには対応していない。)
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 改札口の横からホームを覗くと、昭和の匂いを濃厚に残す小さなホームでは、かつて京王井の頭線で使われていた電車が客扱いの開始を待っていた。
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 おっと、こうしてはいられない。先ほどの貼り紙にもあった当駅10:27着の列車がもうすぐやって来る。私は駅裏の道を100mほど進み、遮断機のない小さな踏切の前でカメラを構えることにした。

 待つこと数分、次の踏切の警報器が鳴り始め、列車の走る音が線路から伝わって来る。そして、緩い左カーブを切り終えて姿を現したのは、上毛電鉄の名物・デハ101である。
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 これも西桐生駅の駅舎と同様、昭和3年の開業以来の「永年勤続者」。実に89歳なのだ!定期運行こそ10年前から外れてはいるが、普段からきちんと動態保存されていて、こうして年1回のイベントの日にはその雄姿を見せてくれる。今日の私のお目当てはこれだったのである。

 写真を撮り終えて駅に戻ってみると、そのデハ101に乗って来た子供連れや「鉄五郎」たちで駅舎の中は一転して賑やかになっていた。中央前橋方面からやって来た彼らの多くは、この駅で折り返しになるデハ101にもう一度乗車するのだろう。どうせそれは大混雑になるだろうから、私は一本早い電車に乗ることにして、彼らよりも先にホームに入る。その時にデハ101の窓から車内の様子をちょっとだけ撮影してみたのだが、昭和3年製造当時の様子が実にきちんと保存されていることに驚いた。
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 そういえば、私が子供の頃に東京近郊の青梅線や南武線、鶴見線などでまだ頑張っていた「旧型国電」も、基本的にはこういうスタイルだったな。天井にエアコンがない時代のレトロな照明がとても懐かしい。

 10:46発の電車にて西桐生を出発。かつて井の頭線を走っていた京王3000系の電車は、1962(昭和37)年から1991(平成3)年まで製造された車両だから、私などには子供の頃から馴染みのあるものだ。井の頭線からの引退後は地方私鉄に多数譲渡されていて、松本電鉄(現・アルピコ交通)上高地線を走る電車もこれである。ここ上毛電鉄では車内のデコレーションも手作り感に溢れていて、私が乗った車両は夏の縁日のような飾りつけが楽しかった。
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 西桐生を出て三つの駅に止まった後、上毛電鉄の電車がわたらせ渓谷鉄道(旧・国鉄足尾線)をオーバーパスすると、左から東武桐生線の線路が近づいて来る。そして間もなく到着する桐生球場前駅から赤城駅までの約2キロは、上毛電鉄と東武桐生線という二つの私鉄の単線鉄道がまるで複線のように並走するという、全国でも極めて珍しい姿を見ることが出来る。(どっちも列車ダイヤが少ないから、実際に両社の電車が並走するようなことは滅多にないのだろうが。)

 赤城駅を過ぎると車窓の眺めはローカル色を強め、のどかな風景が続く。そして、11時21分に大胡(おおご)という駅に到着。この沿線では枢要な駅で、ホームの西側(中央前橋方)は引込線によって車両工場と繋がっている。その木造の車両倉庫と大胡駅の駅舎は、これまた国の登録有形文化財なのだが、デハ101の臨時運転が行われる今日は、この車両工場も一般向けに開放されているのだ。これを見に行かない手はない。
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 駅舎を出て徒歩一分のところになる車両工場。中は既に多くの子供連れと私のような中高年の鉄五郎たちで賑わっていた。このようなイベントにはこれまでにも幾つか参加しているが、やはり地面の高さからローアングルで目の前の鉄道車両を見上げると、私などは妙に心を揺さぶられてしまう。幼い頃、夏の間に母の実家に長く逗留していた時、祖父母に連れられ東海道本線の線路端から目の高さで列車の通過を飽きることなく眺めていた、そんな遠い記憶が甦るからだろうか。
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 何にせよ、間近に鉄道に触れられるというのは楽しいものだ。予定している電車が来るまでの一時間ほど、私は車両工場滞在を満喫させていただいた。そしてここでも、臨時運行のデハ101に再び出会った。
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 桐生に初めて鉄道が通ったのは1888(明治21)年11月のこと。私鉄の両毛鉄道が小山・佐野・足利・桐生を結んだのだ。それが翌年には前橋まで伸びた。その両毛鉄道は1897(明治30)年に私鉄の雄・日本鉄道に譲渡され、更に1906(明治39)年には鉄道国有化の対象となる。言うまでもなく、これが現在のJR両毛線である。古くから生糸や絹織物の産地であった北関東では、東京・横浜に物資を運ぶための交通インフラ建設のニーズが明治の早い段階からあったということなのだろう。

 然しながら、小山から桐生まで来た両毛線は、その桐生と並んで古くからの絹の産地であった伊勢崎を経由して前橋へ向かうために、桐生から西は大きく南へ迂回するルートになり、赤城山麓の住民にとってはメリットがなかった。そこで、桐生と前橋を真っすぐに繋ぐ鉄道路線の建設が地域の有志らによって構想され、1928(昭和3)年の開業に漕ぎつけたそうである。
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 当初のプランでは、現在の西桐生・中央前橋間だけではなく、車両工場のある大胡から南へ、伊勢崎を経て埼玉県の本庄で高崎線に接続する路線も建設することにしていたそうだが、そこは環境が許さず、工事の着工もなかった。大正時代に作られた意欲的な鉄道建設のプランが昭和の初めの金融恐慌のために潰えたというのは、日本各地でよくあった話なのだ。

 大胡から再び乗車した上毛電鉄の電車は、赤城山麓の広々とした景色の中を走り、20分足らずで終点の中央前橋駅に到着。ここは89年前の姿そのままの西桐生駅とは異なり、開業当時の駅舎は米軍による空襲で焼失。その後、昭和40年代に建てられた駅ビルも老朽化のために取り壊され、平成12年に現在のガラス張りの駅舎になった。
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 だが、上毛電鉄の中央前橋駅からJRの前橋駅までは南へ1キロほど歩かねばならない。「中央前橋」と言うからには、歴史的には先に開業したJR前橋駅(=両毛鉄道の前橋駅)よりも前橋の中心街に近い立地であったのか(今の中央前橋駅周辺の様子からは、とてもそうとは思えないのだが)? そして一方のJR前橋駅周辺も、県庁所在地のJRの駅とは思えないほど閑散としており、1キロの道のりを歩く間にも閉店したままの店が多いことに驚いてしまった。
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 確かに、JR両毛線も上毛電鉄も共に単線鉄道で30分に1本程度の列車ダイヤだから、県庁所在地を走る鉄道としては些か寂しいものがある。それでなくても自動車メーカーの工場が数多く立地し、全国でも有数のクルマ社会と言われる群馬県。新幹線のある高崎との距離は10キロほどのものなのだが、前橋の苦戦は続きそうである。

 その前橋駅の高架のホームから高崎行の両毛線の電車に乗ると、地上を走っていた上毛電鉄とは違って窓の外の眺めが良い。電車が利根川を渡る頃、それまでは中腹から上を雲の中に隠していた赤城山の輪郭が見えるようになり、そのまま目を西側に転じていくと、子持山や榛名山の山並みが続いている。いつかまた上毛電鉄を訪れる時には、今度は冬晴れの日を選んでみようか。「赤城下ろし」は寒そうだが、そんな季節だからこそ出会うことが出来る凛とした山々の姿を眺めてみたいものだ。

 13:20に高崎駅に到着。家族へのお土産に「鶏めし弁当」を買い求め、上野東京ラインに乗車。電車を乗り換える赤羽までの1時間半の間、グリーン車の二階席で昼寝を決め込むことにしよう。術後4ヶ月にして初めての遠出。良く歩き回ったが特に疲れも感じず、幸い胃腸にも全く問題は起きなかった。そしてそのおかげで、初めて訪れた上毛電鉄沿線のあれこれを私なりに楽しむことが出来たのは何よりだった。

 やはり、乗り鉄はしてみるものである。

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「私」の解消 [読書]


 8月16日(水)、6連休になった会社のお盆休みも最終日を迎えた。だが、東京は終日雨が降り続き、街は人通りも少ない。8月のど真ん中だというのに気温も低めで、盛夏らしからぬ冴えない一日だった。

 毎年この日は、お盆で里帰りしていた祖先の霊を送り出す「送り火」、いわゆる大文字焼きが各地で催される。こういう時代になって、火をLEDに切り替えた地域もあったそうだが、いずれにしても大文字焼きのニュースに接すると、夏も残り少なくなったなあという淡い寂寞感に囚われてしまう。それは還暦を過ぎた今でも、私の中では子供の頃とあまり変っていないようだ。
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 もっとも、さすがにこの歳になって、全く無邪気に夏休みを過ごしていた子供の頃との違いがあるとすれば、お盆のせいかこの時期には自分がどこか仏教臭くなることだろうか。会社の夏休み最後の日、雨の中をわざわざ出かけるほどの用事もない私は、数日前に買った南直哉(みなみ じきさい)氏の新書本を読んでいた。著者は大学を卒業後、数年の会社員生活を経て仏門に入り、福井の永平寺で20年も修行を続け、今は恐山にあるお寺の院代を務めるお坊さんである。(以下、青字部分は本書からの引用。)
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 幼少の頃から病弱で、激しい発作による呼吸困難に苦しみ続け、間もなく迎えるかもしれない「死」とは何か、それとは逆に「生」と何かを子供なりに考え続けたという著者。やがてそれは「自分の存在の根拠とは何か」という問いに発展し、高校時代には哲学書・思想書の類を読み漁ってみるのだが、肝心なところがわからない。とりわけ、自分が存在することの根拠を“唯一絶対”の創造神の存在に投げてしまうキリスト教の考え方には、ついて行けなかった。

 そんな著者は、やがて日本曹洞宗の開祖・道元禅師の『正法眼蔵』にある有名な一節に出会う。
 「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己を忘るるなり。」

 そもそも「この『私』はそれ自体で本当に存在するのか。その一貫性を根拠づける何かがあるのか。」 「昨日の『私』と今日の『私』が同じ『私』であることの証明は、昨日の『私』はすでにいない以上、無理」であるならば、「今までも、今も、今後も存在する『私』を当たり前のように前提にすること」もまた無理なのではないか。まして「『私』の存在は『自己決定』によって始まったわけではない」のであれば、「『自己』自体が幻想に過ぎない」 つまり、「一貫して変わらない(と思い込んでいる)“私”の存在が、老・病・死の苦しみの大前提」なのだ・・・。

 「(中略)仏教は根拠を求めて苦しむ人間に根拠を与えて救うのではなく、そのような人間の在り方そのものを解体することによって、『苦しみを消去してしまえばよい』と考えるのです。
 これは、どう考えても尋常な話ではありません。どう転んでも仏教が「ヒューマニズム」になることは金輪際ありません。『ありのままの自分』を大切にするような考え方と真逆にあるのが、仏教なのです。
 これほど極端な考え方に、シンパシーを感じる人が昔から今までかなりの数存在し続けてきた、考えると不思議なことです。」

 ブッダや道元の言葉を通じて、「自己」の実在を否定する仏教の考え方に巡り合った著者は、「これは、“絶対に正しい何か”の話とは別物だ。何の確信もない。でも仏教を選択するのだ」という“賭け”に出て仏門に入り、結果的に今に至っているという。

 そんな経緯があるためか、本書における自分の仏教についての考え方は基本的に偏っており、一般的な仏教を知りたい人には向かないと著者は謙遜している。だが、本書の後段で著者も述べているように、「絶対の真理」や「絶対者」の存在を前提にしていて「答え」がひとつでなければならない宗教とは異なり、仏教が投げかけるのはあくまでも「問い」であって、それに対する答えの出し方は様々なのだから、著者なりの仏教論があっていいのではないか。読者の一人として、少なくとも私はそれを楽しませていただいた。

 「苦」、「無常」、「無我」、「縁起」、「因果」、「業(ごう)」、「空」・・・。仏教書を読めば必ず出て来るキーワードに関する著者なりの説明も、なかなか興味深い。普段から明快な文章を得意とする著者の手にかかっても、様々な比喩を用いながら理解のヒントを提供するという手法を用いざるを得ず、言わんとしていることを読者はそこから懸命につかみ取ろうとするしかないのだが、そもそも仏教とはそういうものなのだろう。「不立文字」にして「教外別伝」なのだから。
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 本書のクライマックスは、「『悟り』―それは『開けない』」と題された章である。

 まず、「煩悩」とは何か。それを「本能的な直接性を失って、それが『意識』と『言葉』を持つ人間における欲望として発現する」ものと説く。本能としての「空腹を満たすこと」と煩悩としての「美味しい」とは別物で、前者は物理的に満腹になればそれで終わりだが、後者には際限がない。同じ理由で、「所有」に対する欲求も「煩悩」の最たるものだろう。

 そこで、「煩悩にとらわれた凡夫がブッダの教えに従って修行して、悟った結果、煩悩をコントロールするか、煩悩を滅して解脱し、最後は涅槃に至る」という仏教のプロセスが始まるのだが、多くの場合、修行と苦行を混同し、或いは修行それ自体が自己目的化し、目指すところの「悟り」とは何かを取り違えているという。

 「人間の『煩悩』や『欲望』が意識や言語に深く浸透されている」のであれば、煩悩による苦しみは「『私』という在り方(=『私』という言葉を使う実存)でいる以上は決して解決し」ない。ならば「問題の解決は『欲望』の消去ではなく、欲望する『私』の解消、或いは改造」、言い換えれば「『無常』であるにもかかわらず、それ自体で存在していると思い込むような『私』の錯覚を解消すること」になり、そのために座禅や瞑想などの修行方法が伝えられて来た。

 しかしながら、「そのような修行が結果的にもたらす心身状況を特別視して『真理』と考え、結果的に『実体』化すること」は避けねばならないという。修行によって得られる一種の恍惚感を以て「悟った」などとしてはいけないということだ。これは「決して完結しない修行」であって、道元が言うところの「悟った上にも悟る(悟上得悟)」という姿勢が肝要だというのである。

 そして、その修行としての「座禅」。道元の「只管打坐」という言葉がつとに有名だが、著者によればこれは「ただ坐る」という意味で、「『悟り』のための座禅を否定する言葉」だという(!)。座禅を重ねて行くと次第に感覚が開放され、身体の内外を区別する感覚が曖昧になって、やがては「非思量」という、自意識が融解してしまう状態になるそうなのだが、それでも「ただ、そうなる――というだけのこと」で、それがブッダ本人の到達した境地と同じかどうかを決める根拠は一切ない、と突き放している。本書の表題である「『悟り』は開けない」とは、そういう意味なのだろう。
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 然らば、歴史的事実としてはゴータマ・ブッダの死を意味する「涅槃(ニルヴァーナ)」とは何か? 「悟りの境地」とは、要するに「死」と同じことなのか?

 例えば“唯一絶対”の神によって「自己」の存在が与えられ、その「自己」を実体のあるものと考えるならば、「『自己』のうちに『自己』であることを根拠づける不変の何ものか」、つまり「『霊魂』のようなもの」の存在を想定することになる。ならば死とは生きている世界から(霊魂が)移動するだけで、それが最終的に天国へ行くのか地獄へ行くのかはともかく、「自己」の存在は永遠に変わらない。それが「古今東西、最も一般的な死の考え方」だと著者は言う。

 それに対して仏教では、自分の死を自分で語ることは誰にも出来ないのだから、死が何であるかは絶対的にわからないものだとしたうえで、生と死は対立概念ではなく、「『生きている』とは『死んでいくこと』」であり、「死に侵された生こそ『自己』が実存することの『無常』」と考える。とすれば、「『自己』が生きる意味(=『自己』の存在根拠)を欲望し続けることを止めてしまえば、死も無意味になる」わけで、「無意味でわからない死を、無意味でわからないまま受容すること」「その無意味を怖れることも、その無意味に憧れることも、無視することも欲望することもなく、ただ受容する態度が、『死』を『ニルヴァーナ』に転換する」のだという。さすがにここまで来ると、凡夫の私にはまだ十分に呑み込めていない、というのが正直なところではある。
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 では、座禅という修行を重ね、「自己」の実存への欲望を滅することが出来たとして、その先はどうするのか。実践することが最も重要とされる仏道は、畢竟何のためにあるのか。そのことへのキーワードとして、筆者は「他者の受容」を挙げている。

 既に述べたように、死が何であるかは絶対的にわからない。それと同じく、我々には絶対にわからないのが「他者」である。絶対的にわからない死を「わからないもの」として受け入れることは、やはり絶対的にわからない「他者」を「わからないもの」として受容することと根底で繋がっているのだと、著者は説明する。

「まず座禅という方法によって『自己』の無根拠さを自覚する。この自覚において、『自己』がそれ自体で存在するのではなく、『他者から課された自己』という構造で存在していることを認識する。このいわば『自己』の初期化から、再度『他者』といかなる関係をつくり出し、それによってどのように『自己』をプログラムし直して起動させるかを問う――。」

 このことを著者は「『自己』を『他者』に向かって切り開く」とも表現している。他者との対話を成り立たせ、「他者との間に利害損得とは別の関係をつくり出」し、「自他に共通の問題を発見して、一緒に取り組む」こと。そして、「仮にその行動から利害が生じるなら、そのときは一方的に自分が他者に利を譲る覚悟をする」こと。それが仏道だというのである。

 考えてみれば、「我思う、故に我あり」という西洋の啓蒙主義を土台にして近代資本主義が勃興し、その資本主義の枠組みの中で経済効率の更なる向上を日夜追い求めることが世界のスタンダードになってから、もう既に久しい。けれども、とりわけ1990年代以降の米国で金融とITが興隆して以降、世界は大きな金融危機を度々経験する一方で所得格差は拡大の一途を辿り、行き過ぎた資本主義経済がもたらす弊害はもう誰の目にも明らかである。資本主義の原動力は「我思う・・・」どころか、今や「我所有する、故に我あり」だ。こうして資本主義経済と市民社会、議会制民主主義との間のバランスが崩れてしまったことが、移民・異教徒・富裕層などへの激しい憎悪を呼び、世界各国はテロの横行に揺れている。

 そのような風潮の中で、著者が説明するような仏道の実践は極めてハードルが高いと言わざるを得ないし、まずは修行を続けて「自己」を求める欲望の解消を図るというのは、いかにも遠回りなアプローチであるようにも見える。それこそ、ブッダの言うように「犀の角のように独り歩む」覚悟が要ることだろう。しかしながら、中庸と寛容の精神を持って他者を受容するこうした仏道の実践でも行われない限り、このまま行けばこの世は利害が衝突するばかりの本当にとんでもない世界になってしまうのではないかと、本書を読み終えてからその思いを新たにした。
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 同じ日の夜、日経新聞の夕刊に目を通していると、シンクタンク出身で現・法大教授の渡部亮氏がコラムにこんなことを書いていた。米国では、日本では考えられないような超高所得の資産家や企業家が誕生し、その政治献金によって連邦議会議員に圧力をかけ、自らの利権擁護を図っていることについての評論である。具体的には、高所得者からの圧力を受けて、社会福祉関連支出を削減し、その分を高所得者の減税に充てようと、トランプ政権が医療保険制度改革法(いわゆるオバマケア)の廃止を議会に上程。しかしながら、低所得者の医療費負担増が自らの票田に影響する民主党と共和党穏健派がこれに反対、その他の税制改革法案も滞っていることを指している。

 「表面上これは政治問題だが、その背景には経済の論理が民主主義の論理を圧倒してしまったという事情がある。経済成長や利益追求を優先した結果、繁栄の基盤であった議会制民主主義や健全な市民社会が危機に瀕している。低所得者向け減税や社会福祉支出などの所得再分配政策を行わないと、米国の社会的混乱は激化するであろう。
 資本主義は所得格差や金融危機といった弊害を生みやすい。民間の利益追求の行き過ぎを政府が制御する必要があるが、経済的利権がらみのイデオロギー対立によって制御不可能になっている。」
(2017年8月16日付 日本経済新聞夕刊 『十字路』より抜粋)

 私たちは、この日本をそんな国にしてしまってはいけないのである。

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