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空虚な祝日 [季節]


 1969(昭和44)年7月20日というと、私が中学1年の夏の或る一日だった。私が通った中学の伝統行事であった「夏の海浜生活」、要するに臨海学校があり、私はこの日を挟む一週間を内房の富浦町で過ごしていた。この年は7月14日に関東甲信越地方が梅雨明けを迎えており、とにかく毎日が真夏のカンカン照りだった、というのが私の記憶に残る冨浦での一週間である。

 この臨海学校には本当に長い伝統があって、私たちを指導してくれた先輩方(水泳部のOBが中心)はみんな褌(ふんどし)姿だった。海上に櫓(やぐら)を立てて飛び込みを教わり、日本の古式泳法を教わり、そして最後には生徒全員で4kmの遠泳。梅雨明け後の夏空の下でこんな毎日を過ごしたことは、もう半世紀近くも前のことなのに、今もどこかわくわくする思い出になっている。
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 さて、この年の7月20日は日曜日だった。臨海学校の真っ最中だったから当時の私たちに曜日の感覚はなかったが、実はこの日は、これから空の彼方で始まろうとしていることに世界中の人々が固唾を飲んでいた日曜日だった。サターンⅤ型ロケットで打ち上げられた米国の宇宙船コロンビア号が有人の月探査船イーグル号を切り離し、人類が史上初めて月面に降り立つという、いわゆる「アポロ11号計画」がそのクライマックスを迎えようとしていたのである。
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 イーグル号の月面着陸時刻は協定世界時の7月20日20時17分40秒。日本時間では翌21日の午前5時17分40秒である。当時としては当たり前のことながら臨海学校はテレビのない生活だったから、私たちはリアルタイムではこのニュースに接していない。しかしそれは引率の先生方から口頭で伝わり、当然私たち生徒の間でも話題になった。

 櫓の上から海に飛び込んで、しばし海の深さを全身に感じた後、再び海面に浮かび上がって息を大きく吸い込むと同時に視界に飛び込んで来る真っ青な夏空と白い雲。私たちがそんな日々を過ごしていた時に、その夏空の彼方では人類の新たな歴史が始まっていた訳だが、ともかくも7月20日といえば「夏の海」というのが、この時以来私にとって一種の刷り込みのようになった。そしてこの日は、関東甲信越地方における梅雨明けの平年値でもある。

 それから四半世紀が過ぎて、1995(平成7)年の法改正で7月20日は国民の祝日になった。言うまでもなく「海の日」である。「国民の祝日に関する法律」によれば、海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことが祝日制定の趣旨なのだそうだ。然らば、それが何故7月20日なのか。それは、この日が戦前から「海の記念日」に定められていたことに基づくものだ。

 今ではあまり語られることもないが、明治5年から18年にかけて計6回にわたり、明治天皇による地方巡幸が行われた。その内訳は以下の通りである。
  第1回: 大阪・中国・西国巡幸(明治5年5月23日~7月12日)
  第2回: 奥羽・函館巡幸(明治9年6月2日~7月21日)   
  第3回: 北陸・東海道巡幸(明治11年8月30日~11月9日)
  第4回: 山梨・三重・京都巡幸(明治13年6月16日~7月23日)
  第5回: 山形・秋田・北海道巡幸(明治14年7月30日~10月11日)
  第6回: 山口・広島・岡山巡幸(明治18年7月26日~8月12日)

 この内、明治9年に行われた第2回の奥羽・函館巡幸は、とりわけ大きな意味を持っていたのではないだろうか。何しろ、東北各地と道南が戦場になった戊辰戦争の終結からまだ7年、廃藩置県の断行からは5年しか経っていなかったのだ。

 西南雄藩の出身者ばかりが光を浴びる新国家の中で、ひとえに損な役割を負わされることになった東北地方。とりわけ旧会津藩の人々は、移住の地としてあてがわれた陸奥・下北の地で大変な苦労を背負って来た。他方、新国家といってもまだ憲法もない頃だから、この段階の日本は「立憲君主制」とも言えず、ひとまず「王政復古」をしただけの状態だ。まずは明治天皇自らが東北各地を訪れ、その存在を民に知らしめること、そして戊辰の戦役以来の怨念が残る地において民を慰撫するというプロセスが、どうしても必要であったのだろう。この巡幸が東北地方と函館をセットにしていることが、何よりも戊辰戦争をと強く意識したものであったことを示している。
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(福島県下桑野村の開墾地に到着した明治天皇)

 巡幸に先立って、まずは先発隊が行先の調査を入念に行っており、この奥羽・函館巡幸では参議・大久保利通が自らこの先発隊の指揮を執った。大久保はその調査結果を本隊並びに留守を預かる三条実美に報告し、巡幸の本隊は皇族をはじめ、岩倉具視・木戸孝允・大隈重信といった面々によって構成されたという。明治9年といえば西南日本で不平士族が不穏な動きを見せていた頃で、実際に10月には神風連の乱・秋月の乱・萩の乱などが起きている。そんな情勢の中、天皇巡幸のお供とはいえ新政府の高官たちが二ヶ月近くの間、よく政府を留守に出来たものだと思ってしまう。

 東北地方にはまだ鉄道がなかった時代。巡幸は基本的には馬車による移動だった。明治天皇御一行は現在の福島県・宮城県・岩手県・青森県の各地を巡った後、用意されたお召し船で函館へ渡り、帰路は三陸経由で横浜へ。この函館からの航海は三日連続の荒天だったそうだが、明治帝は最後まで泰然としていたとされる。

 この時のお召し船は明治丸と名付けられた鉄製汽船だった。明治の初年に各地に建設された洋式灯台のメンテナンスのため、灯台巡視船として新政府が英国に発注した船で、この巡幸の前年に日本に到着したばかり。要するに当時の日本にあった汽船としては最新鋭のものだった訳で、明治天皇を乗せたこの船が横浜港に無事到着したのが、明治9年の7月20日だった。これを踏まえ、昭和16年になって当時の逓信大臣・村田省蔵の提唱によって7月20日が「海の記念日」に制定されたのである。(と言っても祝日ではなく、国民を挙げてお祝いするような日ではなかったようだ。)
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(東京海洋大学に保存されている明治丸)

 「明治天皇が船で横浜に着いた、それだけのことでなぜ記念日に?」と言うなかれ。そこは私たちなりに当時の日本の姿を想像してみるべきだろう。

 武家諸法度によって大型船の建造が禁じられてから200有余年。明治の日本は必要な汽船をともかくも外国に発注せざるを得なかった。優先順位としては軍艦、次いで物資を運ぶための輸送船だった筈だ。明治天皇が明治丸に乗船した明治9年というと、洋式の汽船で人を運ぶというのはまだ極めて珍しかった頃で、事実明治丸は客船ではなく、前述のように灯台巡視船だった。そして、明治天皇が軍艦以外に乗船した初めての船だったのである。しかも、函館からの帰路は三日続きの荒天だった。「よくぞご無事にご帰還あそばされた」というのが、新政府の高官たちの心境ではなかっただろうか。

 そして、明治天皇が明治丸に乗船したそもそもの理由であるところの奥羽・函館巡幸。そのことの重さを、私たちは理解する必要があるだろう。

 伝統的に天皇は京都御所の外には滅多に出ず、御所の中でも御簾の向こうで姿の見えない存在だった。明治帝の先代・孝明天皇まではそうだったのだ。それが明治維新で日本が王政復古を迎えたために、天皇は俄かに近代国家の君主として洋装になり、必要な場合には民の前に姿を現すことが求められるようになった。しかも、今回の訪問地は戊辰の戦の怨念が残る奥羽・函館である。途中から軍艦ではない船に乗り、帰路は三陸沖の荒波を越えていく三日間の旅だ。この巡幸の実施に踏み切ることは、明治天皇にとっても大きな決断だったのではないか。その大きな使命を無事に終えて、明治天皇は7月20日に横浜港に降り立ち、帝都に戻ることが出来たのである。

 「市民革命」の本家本元のフランスでは、フランス革命とナポレオン戦争で5百万人近くの死者を出したと言われ、その後も王政と共和制とを行き来したために争乱が相次いだ。それに対して、日本の戊辰戦争による死者は約1万5千人だったそうである。そして、日本が1871(明治4)年に廃藩置県という「ただ一つの勅諭を発しただけで、二百七十余藩の実権を収めて国家を統一」し、駐日英国公使ハリー・パークスをして「ヨーロッパでこんな大変革をしようとすれば、数年間は戦争をしなければなるまい。」と驚嘆せしめた、その同じ年にフランスではパリ・コミューンの蜂起があり、一週間で2万人以上の犠牲者を出している。明治維新の少し前、米国では議会制民主主義の下で南北戦争(1861~64)が起こり、4年間で60万人超の死者を出した。更に同時期の中国は何をかいわんやで、太平天国の乱(1851~64)の死者数は2千万人を超えたとされている。

 明治天皇は奥羽・函館巡幸の道中において、沿道各県の県庁・裁判所・学校・工業関係施設・神社・墳墓など予め手配されていた箇所の視察に留まらず、農民の田植えの様子見るために馬車を止め、田畑の開墾に関する農民の苦労話に耳を傾け、といったことにも意を用いたそうだ(無論、この機を捉えた天皇への直訴は固く禁じられていたが)。「中央集権国家」とか「近代天皇制」といったことをそもそも快く思わない人々には違う意見があるかもしれないが、生まれたばかりの明治国家が、ともかくもこうしたプロセスを経ることで地域間の確執を乗り越え、世界レベルで見れば極めて穏和に初期の地固めを進めて行ったことを、私たちは改めて認識すべきではないだろうか。(天変地異が起きた場合も含めて)動乱期にあっても総じて日本の社会が安定していることは、今でも諸外国からの評価が極めて高いポイントの一つなのである。
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(田植えの様子を視察する明治天皇)

 この「海の記念日」がベースになった「海の日」は1996(平成8)年に施行された。(私自身はその年から海外赴任となったので、7月20日が休みになったという実感はなかった。)ところが、2003年に日本に帰任してみると、「ハッピーマンデー制度」とやらの法改正で、「海の日」は7月の第3月曜日になっていた。「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」という極めて漠然としたお題目だけが残ったまま、7月20日の「海の記念日」とは切り離されてしまったのである。

 「海の日」に関連し、海洋基本法には「国及び地方公共団体は、(中略)海の日において、国民の間に広く海洋についての理解と関心を深めるような行事が実施されるよう努めなければならない」という条文があるのだが、私たちが普通に暮らしていて、国や自治体がそういうことをしているという実感を持つことはまずないだろう(地域によっては「海の日」に関連したイベントがあるのかもしれないが)。明治天皇の奥羽・函館巡幸という歴史との繋がりが断ち切られてしまい、国民にとってはただ漫然と7月の第3月曜日が祝日になっただけ。要するにこれは単なる愚民化政策ではないのか。

 明治天皇のエピソードに因んだものであること、昭和16年という戦時体制下で制定された記念日がベースになっていることを忌み嫌う人々の言論を意識して、「海の記念日」との関係を敢えて希薄化させているのかもしれないが、それは本末転倒というものだろう。紀元節を「建国記念の日」、新嘗祭を「勤労感謝の日」などと言い換えているのと同根で、「国民の祝日」なのに国の歴史や伝統文化との繋がりをわざわざ見せないようにしている馬鹿げたやり方だ。これでは日本を知らない日本人を増やすだけである。

 さて、2017年の関東甲信越地方は、「海の記念日」を待たず7月18日に梅雨が明けた。以後は連日の猛暑である。還暦を過ぎた私は、夏の海に行かなくなってもう久しいが、半世紀近く前に「海の記念日」を過ごした内房・冨浦の海は、今はどんな様子だろうか。

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女帝の暑い夏 [歴史]


 7月10日(月)、カラ梅雨気味の首都圏は猛烈な暑さに見舞われた。太平洋高気圧が一時的に勢力を増し、あの九州北部豪雨をもたらした前線は、今は朝鮮半島の中部まで押し上げられている。首都圏は朝から真夏の干天で、最高気温のランキングには館林37.1℃、熊谷35.4℃、甲府34.4℃、東京・練馬33.8℃と、お決まりの地名が並んでいる。
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 私が子供の頃、昭和30年代の終わりから40年代の前半にかけては、いくら真夏といっても東京で気温が30℃を優に超える日が何日も続くなどということは、あまりなかったように思うのだが、古代の日本では、今頃はどれぐらい暑かったのだろうか。

 今から1372年前、すなわち645(皇極天皇4)年の7月10日というと、旧暦では6月12日にあたる。現在の奈良県高市郡明日香村では朝から大雨だったそうだ。

 この日は、新羅・百済・高句麗の三国から貢物を持参した使者を迎える「三国の調」の儀式が飛鳥板葺宮の太極殿で予定され、皇極天皇に従って大臣・蘇我入鹿も入朝することになっていた。この機を捉え、かねてより専横を極める蘇我氏の打倒を画策していた中大兄皇子・中臣鎌足らがクーデターを挙行し、宮中で入鹿を殺害。その翌日には入鹿の父・蘇我蝦夷を屋敷の中での自決に追い込み、蘇我本宗家は滅亡した。言うまでもなく、これが後に「大化の改新」と呼ばれる一連の改革の口火を切ることになった「乙巳(いっし)の変」である。入鹿を討つために太極殿の柱に隠れていた中大兄皇子も、蒸し暑さに汗びっしょりではなかっただろうか。因みに、斬り殺された入鹿の死体は外に放り出されて雨に打たれたという。

 この時の天皇は前述の通り皇極天皇(594~661年)だ。皇室史上では推古天皇に続く二人目の女帝であり、しかもこの乙巳の変で一旦皇位を退いてから10年後に斉明天皇として再び即位、即ち重祚(ちょうそ)となった初めての天皇である。更に言えば、皇統系譜の中ではそれほど血筋が良いとも言えないのに皇位に就くことになった、ちょっと不思議な天皇なのだ。
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 第29代の欽明天皇以降、6世紀~7世紀前半に登場した歴代天皇の系図を眺めてみると、欽明天皇から敏達天皇へと世代交代が行われた後は、敏達 → 用明 → 崇峻 → 推古という兄弟間での皇位継承が続いた。(それ以前の応神王朝や継体王朝においても、兄弟間で皇位が継承された前例はある。)だが628年に推古天皇が崩御すると、敏達天皇の直系の孫にあたる舒明天皇が即位。皇位が一世代飛ぶのは異例なことだ。更に言えば、舒明の后となり、後に皇位に就く皇極の出自は歴代天皇とはいささか異なっている。

 皇極の父は、敏達の皇子(の一人)である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)と、どの天皇の子孫なのかよくわからない漢王の妹・大俣王との間に生まれた茅淳王(ちぬのおおきみ)だ。そして母親は、欽明天皇の皇子(の一人)である櫻井皇子と名前も出自も未詳の女性との間に生まれた吉備姫女である。だから、皇極自身は皇統の系図の中では極めて傍流と言うべきものだ。それが、夫・舒明の崩御を受けて皇位を継承し、女帝となったのである。

 一般に家系図というものは世代間の関係を見るためには適しているが、時間軸がないので誰がいつからいつまで生きたのか、誰と誰が同時代の人間なのかといったことを読み取ることが難しい。そこで、前述の期間について歴代天皇の生存期間と在位期間を年表の中に図示し、そこに家系図的な処理を加えてみると以下のようになる。
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 敏達・用明・崇峻・推古という兄弟の中では、推古女帝の寿命の長さが突出している。何しろこの時代に74歳まで生き、在位は35年にも及んだのだ。その間に、生きていれば有力な皇位継承者だったはずの厩戸皇子(用明天皇の皇子、いわゆる「聖徳太子」)は既に病没していた。(蘇我氏も馬子から蝦夷を経て入鹿へと世代交代している。)推古の次が敏達の孫の世代に飛んだのは、そうした推古時代の長さが大きな原因であったのだろう。

 そして、敏達の孫の舒明が在位12年の後に48歳で崩御。その時点での後継者候補は、舒明と蘇我法堤郎女(ほほてのいつらめ)との間に生まれた古人大兄皇子、厩戸皇子の息子・山背大兄王(共に生年不詳)、そして舒明と皇極の間に生まれた中大兄皇子(当時15歳)だった。そうした有力候補がいる中で、皇位はなぜか后の皇極へと継承された。

 その皇極は3年半ほど皇位にあったが、645年、自分の目の前で蘇我入鹿斬殺のクーデターが起きると、たちまち降板して同母弟の軽皇子に譲位。これが第36代の孝徳天皇となる。それまでの皇位継承は前天皇の崩御を受けて行われていたから、皇極 → 孝徳は日本で初めての譲位となった。それにしても、傍流の皇極のそのまた弟が、よくぞ天皇になれたものである。

 クーデターから一週間後の7月17日(新暦)、日本史上で初めて年号が立てられ、この年が大化元年となった。孝徳は新たに造営した難波長柄豊崎宮を都とし、「大化の改新」としての諸々の制度改革が行われる。だが、それらを実質的に仕切ったのは皇太子の中大兄皇子だったのだろう。その皇太子は653年に都を飛鳥に戻すことを孝徳に建議。だが、それを退けた孝徳は一人難波宮に取り残されてしまい、失意の内に翌年病没したという。既に述べたように、その後は皇極が61歳で重祚して斉明女帝となった。
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(今は耕作地に囲まれた飛鳥の宮殿跡)

 推古天皇の在位期間である6世紀末から7世紀の初めというと、隋・唐という統一王朝が中国に現れ、その覇権が周辺地域に及んでいくという、東アジアにとっては激動の時代の始まりであった。それでも、中国から海を隔てた日本としては遣隋使を、次いで遣唐使を送り、というように「まずは中国に学ぶ」というスタンスでよかったのだろう。ところが皇極天皇以降の時代になると、唐帝国の覇権によって朝鮮半島が動乱の時代を迎える。「三韓」の中で最も劣勢に立たされていた新羅が生き残りを賭けて親唐路線に転換し、唐が進める「遠交近攻」戦略に敢えて乗っかることで、高句麗や百済への対抗を始めたのだ。

 そして、斉明天皇としての即位から5年。660年に唐と新羅が連携して百済に侵攻。百済国王が捕虜になってしまった。蘇我氏の時代から日本とは親交のあった百済は日本に救援を要請。放っておけば唐の覇権が日本に直接迫りかねない事態となった。

 これに対し、斉明女帝は直ちに百済の要請を受け入れ、中大兄皇子、大海人皇子(後の天武天皇)らを引き連れて難波から瀬戸内海を西走。伊予の熟田津(にきたつ)や博多を経由して筑紫国朝倉の朝倉橘広庭宮へと進む。661(斉明天皇7)年5月9日(新暦の6月11日)のことだった。しかし、その朝倉では宮の建築のために付近の神社の木を無断で伐採したことから、神様の怒りに触れて宮殿が倒壊。鬼火が出没し、病が流行したという。そして、既に68歳の高齢に達していた斉明は、この年の7月24日(新暦の8月24日)に朝倉宮で崩御した。それは、きっと暑い夏の日であったのだろう。唐・新羅連合軍に対して日本軍が惨敗した白村江の戦(663年)の2年前のことである。

 この朝倉橘広庭宮は、今月の九州北部豪雨で大分県日田市と共に甚大な被害を受けた福岡県朝倉市に位置している。(正確な場所はまだ比定されていないようだが。)朝倉は日田方面から西方へ流れる筑後川が形成した平野の北端にあり、標高300m前後の丘陵の南斜面を後背地とする、いかにも有史以前から人々が住みついていたであろう地形の中にある。斉明天皇も宮殿からこの肥沃な平野を眺めおろしていたことだろう。
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 その朝倉が、今年7月5日(水)に前例のないほどの豪雨に見舞われた。北上して来た梅雨前線に南からの湿った空気が吹き込み、この日一日だけで516ミリという、7月一か月の平均雨量の1.5倍近くの雨が降ったのである。(朝倉と並んで大きな被害を受けた大分県日田市ではこの日一日で336ミリ、ちょうど7月一か月の平均雨量に匹敵する量だった。)
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(2017年 九州北部豪雨 朝倉と日田の雨量)

 こうなると、北側の丘陵から筑後川の支流が幾つも流れ出るのどかな地形がかえって災いし、市内の各地で土砂崩れや河川の氾濫が相次いだ。道路の冠水で一時的に孤立した地区が幾つもあったのは、報道されている通りである。
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 今年の首都圏はカラ梅雨だが、本来ならば7月は大雨の季節。乙巳の変や斉明天皇の筑紫遷幸の経緯を紐解きながら、私たちの遥かな祖先も、この国のこうした気候の下で歴史を刻んで来たことを改めて思う。

East of River [散歩]


 今年4月の下旬に膵臓の半分を切除する手術を受けてから、ちょうど2ヶ月と1週間が経過した。直近3回の日曜日は何かと体調が悪くて何れも棒に振ってしまったのだが、7月最初の日曜日の今日は特に問題がなく、少しは外で体を動かせそうだ。梅雨の合間に日差しが戻り、日中は30度超えになるようだが、元気を出して散歩に出かけよう。

 我家の最寄駅から地下鉄とJRを乗り継ぐこと約20分、隅田川を渡った両国駅で電車を降りる。普段は東京の山の手側で暮らしている私にとって、週末にちょっと気分を換えたい時には隅田川を超えてみることが時々ある。

 両国という地名は、言うまでもなく隅田川がかつて武蔵国と下総国との境であったことに由来している。それが、寛永年間(1622~43年)とも、もう少し後とも言われるが、いずれにしても17世紀の内に隅田川の東側も武蔵国に編入されたようだ。そしてそれは江戸の市街地拡大の歴史と軌を一にしている。

 大坂夏の陣の終結によって実現した元和偃武(1615年)から20年後の1635(寛永12)年、徳川家光によって諸大名の参勤交代が制度化されると、各藩の江戸屋敷が次々に設けられ、江戸詰めの家臣達も居住を開始。江戸の人口は急増し、市街地が拡大していく。その延長線上で起きた大惨事が1657(明暦3)年の明暦の大火、いわゆる「振袖火事」だった。旧市街地の大半が焼失し、大名屋敷はおろか江戸城の天守閣までもが焼け落ちてしまったこの大火による死者は、3万人とも10万人とも言われる。

 この大火の二年後の1659(万治2)年、隅田川に両国橋が架けられた。そして、この橋から東側の地区への居住が幕府によって奨励される。橋よりも北側が本所、南側が深川だ。上述したようにこの地域が下総国から武蔵国へと編入されたのも、こうした防火・防災上の政策の一環なのだろう。

 時代は明治に飛んで、1904(明治37)年4月5日というから、日露開戦からまだ間もない頃だ。私鉄・総武鉄道の線路が市川方面から伸びて来て、この両国に終着駅が出来た。当時の駅名は「両国橋」だったそうだ。その終着駅時代の面影を残す駅舎が(関東大震災で焼失したため、昭和4年に再建された駅舎がベースではあるが)今も残されている。
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 現在は1・2番線ホームをJR総武線の電車が行き交っているが、その北側の一段低い場所にもう一本のホームがあり、3番線の線路が西側(浅草橋駅寄り)で行き止まりになっている。

 道路の両国橋に並行するように総武線の鉄橋が隅田川に架けられたのは、1932(昭和7)年。関東大震災後の帝都復興事業の一環で、これによって総武線の電車は今のような運行形態になった。それでも、東京と内房・外房地区を結ぶ中・長距離列車の東京側の終点は長らく両国駅のままで、私が小学生の頃、夏の臨海学校の帰りに内房の岩井駅から蒸気機関車が牽く客車列車に揺られ、最後はこの両国駅に降り立ったことを今でも覚えている。そう、あの時も確かにこの行き止まりの線路があった。
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 そんな風に、どこか昔懐かしい両国駅から外に出て南に向かい、京葉道路を渡ると、正面に回向院の緑が目にとまる。諸宗山無縁寺回向院。幕府の命により、振袖火事の死者を弔った万人塚を起源とする寺である。以後も大きな災害による横死者の無縁仏を供養する場所として機能し続けて来た。
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 境内の奥には沢山の供養塔や慰霊碑が建てられていて、そこに刻まれた文字を読み解くと興味深いものがある。写真の左側は「大正十二年九月一日 大震災横死者之墓」、言うまでもなく関東大震災の死者に対するものである。その右側は「天明三年癸卯七月七日八日 信州上州地変横死之諸霊魂等」とあるから、「天明の大飢饉」の原因となった1783(天明3)年7月の浅間山大噴火による横死者への慰霊碑なのだろう。(因みに、この年の4月には東北の岩木山でも噴火があった。)
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 さて、回向院の南側にある路地を東側に数ブロック歩いていくと、「本所松坂町公園」の表示がある。公園といっても小さな土地で、遊具などは何もない。しかも白塗りの塀に囲まれているので、ここが公園だと思う人はいないだろう。それが吉良邸跡、要するにあの忠臣蔵の「悪役」・吉良義央の屋敷跡(の一角)である。1702(元禄15)年12月14日(今の暦では1703年1月30日)、四十七士による吉良邸討ち入りの舞台はこの場所だったのだ。
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 浅野内匠頭が江戸城松之大廊下で刃傷沙汰を起こし、即日切腹となったのが前年の3月14日。赤穂城の明け渡しが同4月19日。一方の吉良義央はその年の8月19日に呉服橋門内から本所のこの場所へと屋敷替えになっている。もちろん自主的に引っ越したのではなく、幕府により呉服橋の邸宅が召し上げられ、代替地があてがわれたという訳だ。

 大名屋敷が連なり、北町奉行からも目と鼻の先にある呉服橋から、それよりも遥かに人通りの少ない本所への転居命令。私たちが北斎や広重の錦絵を通じてイメージしている江戸・両国橋近辺の賑わいはあくまでも19世紀前半のものであって、両国橋の竣工からまだ40余年しか経っていない赤穂事件の時代は、両国橋の向こう(東側)はまだ市街化の歴史がずっと浅い頃だ。それに、元禄時代といえば文化の中心はまだ上方にあった頃である。そんな時代の本所に屋敷を移せと幕府が吉良に命じたことについて、敢えて討ち入りがしやすい場所を与えたのではないかという想像が働くのも無理からぬところだろう。
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(歌川国芳「忠臣蔵十一段目夜討之図」 19世紀に描かれた想像画ではあるが・・・)

 さて、吉良邸跡から両国駅に戻り、今度は隅田川に沿いに浅草まで歩いてみることにしよう。
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 両国国技館を右手に見ながら土手沿いに歩いて行くと、水上バスの両国発着場があり、階段を降りると隅田川の岸辺に出る。どうせ歩くなら土手沿いの道よりも岸辺の遊歩道の方が楽しい。振り返ると、総武線の電車が隅田川橋梁を渡っていく様子が彼方に見える。
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 そのまま暫く歩いて行くと、蔵前橋が目の前に近づいて来る。時刻は午後2時半を回った頃で、隅田川の左岸(東側)は対岸から太陽に照りつけられて暑い。岸辺から一旦上がって蔵前橋を渡り、右岸に出れば少しは日陰があるかな。そう思って蔵前橋から対岸に出てみた。1927(昭和2)年の竣工というこの橋。その直下から眺めると、鋼鉄製の重厚なアーチ部分がなかなか立派である。
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 両国に移転する前のかつての国技館は、この橋の東詰にあった。私が子供の頃に父に連れられて大相撲を見に行ったのは、その蔵前国技館の時代である。その跡地は東京都下水道局の蔵前ポンプ所になっていて、台東区周辺の家庭や工場からの下水を三河島水再生センターに送ったり、降った雨水を集めて隅田川に流したりする役目を負っている。
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(昭和40年当時の地図にある蔵前国技館。当時は主要な道路にまだ都電が走っていた。)

 期待したほどの日陰は右岸にはなく、汗を拭き拭き歩き続けると、次にやって来るのは春日通りがその上を走る厩橋。三つ並んだアーチが印象的な橋だ。厩(うまや)の名前は、江戸時代に蔵前の米蔵に出入りした荷駄馬用の厩が橋の西側にあったことに因むという。現在の橋は1929(昭和4)年の竣工になるもので、このあたりから対岸の眺めは次第に東京スカイツリーが主役になっていく。
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 ここまで来れば、浅草までは残り1kmもない。左手の土手の上を見上げると、川沿いに居並ぶビルの所々に、フレンチ・レストランや和風の居酒屋が隅田川の対岸に向いた場所にテラス席を設けている。スカイツリーの夜景を眺めながら一杯という趣向、なかなか良さそうだ。そして駒形橋を過ぎると、正面には鮮やかな赤色に塗られた吾妻橋が見えて来る。そこから左手の土手を上がれば東京メトロの浅草駅だ。
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 両国から浅草まで、川岸と土手の昇り降りを除けば 川沿いの至って平坦な散歩コースだが、梅雨明け後の盛夏を先取りしたような陽気になった今日は、両国駅前で買った水のペットボトルが浅草ではもう空になっていた。

 人気番組「ブラタモリ」のような深掘りは出来ないが、自分なりに江戸と東京とを行き来しながらの日曜日の散歩も、たまにはいいものだと思った。

4ヶ月のブランク (2) [自分史]


(前回分は以下の通り。)
http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2017-07-01

5月14日(日)
 久しぶりに都内の実家へ顔を出し、独り暮らしをしている母の様子を見る。今回の私の入院・手術の件は、実は母には話していない。心配させるだけで、母はどうすることも出来ないのだから。5月の連休の間は地方にある工場へ出張予定だと伝えていた(事実、入院をしなければその予定だった)ので、今回もその素振りを貫くことにした。幸い、母には気づかれずに済んだようだ。

5月15日(月)~26日(金)
 この週から会社勤務を再開。但し、当分の間は朝の混雑を避けて10時出社とさせてもらうことにした。手術からまだ1ヶ月も経っていないから、立ったり座ったりという動作もまだ恐々やっている感じがあるし、急ぎ足で歩くことはまだ出来ない。何よりも、机の上でのPC作業を久しぶりにやってみると、首や肩が直ぐに痛くなってしまう。そんな訳で、会社では我ながら生産性の低い二週間となってしまったが、それでも5月19日(金)に開催された会社の株主総会に何とか出席出来たのは幸いだった。

 食事はというと、まだ平常時の半分も食べられない。この手の手術を受けた場合には致し方ないのだが、膵臓の残り部分からの消化液の分泌が大きく減っているため、一回に沢山は食べられず、消化力が弱いから下痢を起こしやすい。消化に悪い食べ物も禁物だ。家内に小さな弁当を作ってもらい、それでも食べ切れずに残してしまう日々が続く。

5月29日(月)
 朝からA病院へ。実は前日から体調が悪くなっていた。

 前日の日曜日は朝10時から自宅マンションの管理組合の定期総会が開催され、私は副理事長の立場で2件の議案を説明。2期4年務めた理事の仕事も、この総会を以てやっと御役御免になる。だから気分さっぱりと過ごしたかったのだが、朝起きた時からずっと頭が重く、この定期総会の最中に発熱が始まっていた。総会が終わって昼過ぎに自宅に戻ると、熱は38.6℃に達していた。

 5月10日の退院時に、「38℃以上の発熱があった場合には直ぐ病院へ連絡してください。」と言われていたので、A病院へ電話。状況を話すと、明朝来院されたしとのこと。家内と二人、朝の超混雑した通勤電車で通院し、血液検査とCT検査を受ける。その結果、前回手術で膵臓を切除した部分に化膿が起きている由。術後1ヶ月と4日が過ぎているが、こういうタイミングで化膿が起きるのは珍しいことではないそうだ。これに対応するには化膿を止める抗生剤を点滴で投与する必要があるとのことで、即日入院を言い渡された。う~ん、また入院か。ちょっと辛いな。

5月30日(火)~6月8日(木)
 今回の入院は改めて手術を受けるようなことはなく、ひたすら点滴を受けるだけ。途中の血液検査では数値の明確な改善が見られ、抗生剤の効果が認められる由。それはいいのだが、抗生剤の副作用の一つとして、私の場合は下痢がひどくなり、追加の下痢止めを処方してもらう必要があった。

 病室にはLTE経由でネット接続が出来る個人のPCを持ち込んだので、メールの送受信を通じて会社の仕事も出来る。日によっては真夜中までPCを叩くことがあり、看護士さんに不思議がられてしまった。

 やがて、点滴による抗生剤の投与は経口薬に切り替わり、それで問題がなければ退院が見えてくる。6月8日(木)早朝の血液検査の結果に問題がなかったので、この日を以て退院に。再び外の世界に戻ってみると、知らない間に街中はアジサイの季節を迎えていた。
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6月9日(金)~25日(日)
 会社に復帰。だが、正直言ってこの期間は自分にとっては非常に辛かった。

 退院時に処方された抗生剤の経口薬は、6月18日(日)まで1日1回服用を続けることになっていたのだが、その副作用が強く出てしまい、食欲が著しく減退する一方で下痢がなかなか治らない状態が続くことになったのである。目の前に食べ物があるだけで気分が悪くなり、殆ど何も食べられない。他方、下痢が続くので水分が失われ、辛うじて何か口に入れた物からも栄養が吸収出来ないことになる。栄養失調に脱水状態が重なるようなことになり、6月16日(金)には殆どフラフラの状態になってしまった。

 A病院に連絡して、ともかくも抗生剤の服用を止めることにし、私の家からも近い旧友S君のクリニックで水分や栄養剤の点滴を受けて、脱水症状を解消。そして、新たに消化剤を処方してもらい、下痢の改善を進めることになった。また、抗生剤の副作用が出ていた間は胃酸過多になっていたので、それも錠剤の服用で緩和させることになり、その効果が現れるまでには日数を要した。

 そんな訳で、6月8日(木)の退院以降、3回あった6月の日曜日はいずれも体調不良で寝込んでしまい、私にとっては何とも不本意な過ごし方となった。そして、この間に体重は更に5kg近く減ってしまった。

 今まで大きな病気をしたことがなかった私は、入院、手術、術後の養生といったことに全く慣れておらず、抗生剤のような強い薬を服用した時の副作用の怖さや、その症状が現れた時にどう対処すべきなのかということについて肌感覚を何も持っていなかった。そのために今回は非常に辛い思いをしたのだが、こうした体験は将来いつかまた役に立つことがあるのだろうか。

6月26日(月)~30日(金)
 この週からようやく体調が安定し、食べることに少し意欲が出て来ると共に、会社の帰りに電車一駅分余計に歩いてみようという、体を動かすことにも意欲が出始めた。4ヶ月のブランクが続いたブログを再開してみようと思い立ったのも、こうした体調の好転があってのことだろう。

 とはいうものの、焦りは禁物。出来ることならばこうした状態をこのまま続け、体力の回復を図りたいものである。

4ヶ月のブランク (1) [自分史]


 2017年3月から6月までの4ヶ月間、このブログを更新することが出来なかった。

 大きな理由は、4月の末に膵臓の一部を切除する開腹手術を受けたことだった。それは以前から解っていたことではなく、4月に入ってから病変が発覚したのもので、以降は検査・入院・手術の日程が大急ぎで決まって行った。その展開の速さは今から振り返っても殆ど信じ難いほどのことだが、ともかくも5時間近くを要する手術を受けて延べ1ヶ月弱も入院をしたというのは、私の生涯で初めてのことである。

 この病気をしたことで、私のこれまでの人生と今後の人生とが滑らかに繋がって行くのか、そして後者がいつまで続くことになるのかは、今の時点ではまだわからない。いや、寧ろ最悪の事態をも想定しておく必要があるのかもしれないのだが、向こう半年ぐらいの経過を見なければまだ何とも言えず、今ジタバタしたところで何の意味もない。

 ともかく、まがりなりにも自分のブログと向き合う気力を取り戻した今、この4ヶ月間の空白を何らかの形で埋めなければならない。この間に思い浮かんだことを書き連ねればキリがないが、個人の感情に走ることはなるべく避けて、事実のみを極力淡々と記録しておくことにしたい。

2017年3月
 会社の仕事は例年になく忙しさを増していた。それは、「分刻みのスケジュールをこなす」という類の忙しさではなく、会社経営全般の今後の方向性を深掘りし、方針を打ち出していくためにあれこれと考え、アウトプットを産み出して社内コンセンサスを形成して行かねばならない、そういう意味での忙しさだった。

 東北の震災が起きた2011年以降、私の会社にとっては製品市場の縮小・低迷が続き、逆風の時期を過ごして来たのだが、昨年(2016年)の夏頃から潮目が俄かに一変し、今度は逆に従来の生産能力では顧客からの注文に応じきれないほどのタイトな状況が続くようになった。苦しい時期に歯を食いしばって開発し投入した高品質・高機能の製品が漸く市場に認められたこともあるのだが、やはり中国をはじめとする新興国経済の質的な向上によって、日本の限られたプレーヤーにしか作れない高品質・高機能の素材が今まで以上に求められるようになったことが底流にあるようだ。更には、いわゆるIoT(物のインターネット)の時代がこれからいよいよ幕を開けると、我々が日々生産している素材の用途が今後飛躍的に拡大していく可能性がある。

 そんな訳で、週末には会社の幹部を集め、我社が近未来を見据えて取り組むべきことについて幅広い議論を行い、社長と共に海外も回って将来の生産設備増強のフィージビリティを考えた。忙しかったが、これほどのポジティブな環境変化は長い社会人生活の中でもそう体験出来ることではない。それに没頭している間、自分の私生活におけるブログの更新などは、当然のことながら私の頭の中にはなかった。
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 加えて、これは会社生活とは全く異なる次元の話ではあるのだが、この4年間務めて来た自宅マンションの管理組合の副理事長の仕事も、この3月に佳境を迎えていた。

 世の中ではどこも同じなのだろうが、マンション管理組合の理事の仕事は基本的に区分所有者の間での輪番である。各人の経験や能力とは無関係に順番が回ってくるお役目だから、最低限のことをして、まずは無難に任期が務まればいいということになりやすい。だから、各年度の理事会の運営に大きな変化は起きにくいものだ。

 マンションも新しいうちはそれでもいいのかもしれないが、築何十年も経って建物・設備の老朽化が進んだマンションとなると、そうもいかない。建物の外観だけでなく、内部の各種配管にも劣化が現れ、水漏れ事故などを起こしがちだ。それは、人間が歳をとって循環器系の病気になりやすいのと同じようなものである。4年前、私に理事の役目が回って来たのは、まさにそうした状況の中で、次回のマンション大規模改修の時期と内容を待ったなしで検討せざるを得ないタイミングであった。

 理事を引き受けた時、自分も無難に2年の任期を過ごせばいいやという思いがない訳ではなかった。だが、実際に理事会に出てみると、意見は色々出るけれど、それをまとめ、問題点を整理し、具体的なアクションプランへと組み立てられる人は非常に限られていた。そもそも、或る事案について、皆の理解を共通のものにするためのアウトプットを作れる人がいないのである。メンバーの大半は私よりもずっと年上の、既に仕事をリタイアした人たちだから仕方がないのだが、事態を静観するだけでは何も進まない。結局それらを私が一手に引き受けることになり、副理事長に祀り上げられて2期4年を務めてしまった。そして、その集大成のような仕事がこの3月に山場を迎え、平日の夜や土日に多くの時間を費やすことになった。

 本業の仕事とマンション管理組合の仕事という、まさに二足の草鞋。しかも、自分が動かなければ何も進まない。この何年か、そのことに我ながらストレスを溜め続けていたことは確かだった。
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2017年4月5日(水)
 以前から予約を入れていたのだが、高校時代の同級生S君が院長を務めている消化器内科クリニックで、朝から胃の内視鏡検査を受けた。S君には以前から何度もお世話になっていたのだが、今回は本当に久しぶりで、前回から3年弱が経過していた。検査を受けるのがついつい面倒だった、という言い訳しかないのだが。

 胃の検査そのものは特に問題もなかったのだが、その直前に受けた超音波検査の結果、膵臓の真ん中あたりに一点黒い影があるという。念のためということでS君がCT検査を手配してくれたので、その日の午後に別の場所で同検査を受けることになった。

4月7日(金)
 昼休みにS君から携帯電話に連絡があった。「前々日のCT検査の結果、膵臓の「黒い影」は良くないので早急に入院して手術を受ける必要あり。」とのこと。ついては翌8日(土)の夕方にMRI検査を受け、翌週の12日(水)にS君のクリニックで大腸の内視鏡検査を受けた上で所見の説明を受けることになった。

 彼からそういう内容の連絡を受けたこの日は、夕方から会社のキャンティーンで新人歓迎会を兼ねた花見の宴が催され、立場上、私は夜遅くにお開きになるまでその場にいたのだが、いつになく酔いがひどかった覚えがある。

4月12日(水)
 休暇を取り、S君のクリニックで朝から大腸検査。夕方近くになってS君から所見の説明が始まる。その時刻までに家内も来てくれて、二人で説明を聞いた。

 問題の膵臓の直径2cm前後の「黒い影」は腫瘍の疑いありとのこと。一般に膵臓癌は発見が遅く、手遅れで手術も出来ないケースが多いのだが、私の場合はそれがもっと早い段階のものと見られるとのこと。このままあと3ヶ月も放置すれば手遅れになるので、早急に手術を受ける必要があるそうで、何とS君は東京の湾岸地域にある専門病院(「A病院」としておこう)にも既に連絡を回してくれて、13日(木)の午後に部長先生の診察の時間を既に予約してくれていたのだった。家内と私はS君の厚意に深く感謝しつつ、ともかくもここから先のことは医師の指示に従い、治療を最優先にして行こうという思いを互いに確認し合うことになった。

4月13日(木)
 午後、初めてA病院へ行き、部長先生の診察を受ける。CTやMRIの画像を交えての説明はS君が話してくれた内容と一致しており、膵臓癌としてはまだ比較的早い段階なので、開腹手術により膵臓の約半分(尾部)を切除し、併せて転移の可能性のある周辺のリンパ節や胆嚢・脾臓・片方の副腎も切除。約3週間の入院が必要で、術後2ヶ月程度経ってから抗がん剤の服用を始めるとのことだった。その後、18日(火)に再びA病院で入院に関するガイダンスがあり、23日(日)の入院、25日(火)の手術という日程が決められた。(知人の話では、こんなスピード感をもってA病院で手術を受けられるなどということは、普通だったらまずあり得ないとのこと。素早く手配を進めてくれた旧友S君に改めて感謝である。)
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4月23日(日)
 昼前にA病院に入院。10階、4人部屋の窓側のベッドで、東京湾の眺めが素晴らしい。すぐ近くの高架を新交通システム「ゆりかもめ」が走り、彼方では羽田を次々と離発着する航空機の様子を眺めることが出来る。午後には山仲間のH氏が早速お見舞いに来てくれて、沢山の文庫本を置いて行ってくれた。

4月25日(火)
 家族三人は朝6時に家を出て病院に来てくれた。私は早朝から手術の準備があり、7時50分に手術室へ向かう。家族の見送りを受けて8時には手術台に乗っていた。それから暫くは全身麻酔の準備があったのだが、そこから先のことは一切の記憶がない。手術が予定通り5時間ほどで終わったということは後から知らされたことで、何時だか解らないが医師に揺り起こされた時には、開腹手術を受けた部分の鋭い痛みがあった。
その日は酸素マスク等を付けたままICU(集中治療室)で一晩を過ごす。暫くの間は家族の面会が許され、痛みに歯を食いしばる私の左手を家内と娘が握ってくれたことを覚えている。

4月26日(水)
 点滴による麻酔を続けつつも、まだ鋭い痛みは続いているのだが、この日の昼前にはICUから元の病室に戻された。寝てばかりでは良くないので、看護士に付き添われ、点滴の台を杖代わりにして病棟内の廊下を少しずつ歩く訓練が始まる。といっても、まだおっかなびっくりで僅かな距離しか歩けないのだが。

4月29日(土)
 A病院の病室で私は61回目の誕生日を迎えた。術後の回復が比較的順調とのことで、この日の朝、腹部に差し込まれていたドレン管が医師によって外された。点滴はまだ続いているが、ドレン管がなくなっただけでも廊下を歩くのはだいぶ楽になる。午後には家族三人が集まってくれて、病室でささやかな誕生日祝いの一時を過ごした。この頃から点滴に代えて病院食が段階的に始まったのだが、正直言って味が全く口に合わず、出された物が殆ど喉を通らないのには閉口した。栄養士さんもだいぶ細かく相談に乗ってくれたのではあるが・・・。

5月5日(金)
 昼間に2時間程度点滴を外して外出してもよいことになり、入院後初めて外の空気を吸ってみることにした。病院の北隣には芝生がよく整備された広い公園があり、バーベキューの施設などもあって、この連休中はなかなかの賑わいである。家内と娘と三人でその公園をゆっくり歩き、緑の木陰に座ってのんびりとした時間を過ごした。昔からアウトドアが好きだった私にとって、今は仕方がないこととはいえ、日がな病院の中で過ごす他はないというのは、やはり一つのストレスだ。早く自由に外を歩ける身になりたいものである。以後は毎日、13~15時ぐらいの時間帯は外出許可を取って、家内と二人で外を歩くことにした。
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5月10日(水)
 術後の経過が順調であったことから、この日をもって退院となることが前日に決まった。入院日から数えると17泊、手術日から数えると15泊。それでも、この手の手術を受けた者としては入院期間が短い方だそうである。もちろん、開腹をした部分にはまだ微妙な痛みがあり、術後3ヶ月ぐらいは重い荷物を持ったり走ったりすることは控えなければならない。また、手術の際に実は小腸も少しいじっているので、尾籠な話ながら下痢が当分は続く。そして、内臓を切除する際に色々な血管や神経を切っているため、味覚や食欲がおかしくなっている。時の経過と共にいずれ元に戻るのだそうだが、現時点では喉を通る(=食べたいと思う)食物が限られ、一回に食べられる分量も平常時の半分程度だ。そのため、手術前に比べて体重が10kgほど減った。何よりも筋肉が落ちてしまったことを実感する。

 ともかくも二週間強にわたってお世話になった病院を出て、昼前に自宅へ。会社には来週から出勤させてもらうことにして、今は色々なことのリハビリに努めることにしよう。

 その翌日、近くの植物園をゆっくりと歩きながら眺めた新緑が、何とも目に眩しかった。
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(To be continued)


冬は北へ (4) 不老不死温泉 [自分史]


 朝7時に目が覚めた。

 旅に出ているにしては朝寝坊をした。木造の古い建物で夜間は客室内もぐっと気温が下がる八甲田の酸ヶ湯温泉とは違い、ここ黄金崎不老不死温泉は室内のエアコンが快適に効いている。それもあって私はぐっすり眠りこんでしまったようだ。家内の姿がないが、温泉に来た時はいつものことで、朝食前の湯に浸かりに行ったのだろう。

 窓のカーテンを開けると、視野いっぱいに冬の日本海が広がる。今朝は風もあまりなく、この時期としては穏やかな眺めである。
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 今朝のスケジュールはゆっくりしている。JR五能線の秋田行「リゾートしらかみ2号」がウェスパ椿山駅を出るのが11:15で、それに合わせて(といってもだいぶ早めだが)この温泉からの送迎バスが10:00に出る。要するに旅館の中で10時前までゆっくり出来る訳だ。品数のとても豊富な朝食をゆっくりいただいた家内と私は、名物の露天風呂へ行ってみることにした。

 本館の下から岩浜に降りる通路があって、それを辿ると日本海の波打ち際の直ぐ近くに露天風呂が用意されている。女性用は目隠し的に壁が高くなっているのだが、男性用はそれがないから、湯に浸かると日本海の波濤が本当に目の前だ。
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 ここへのカメラの持ち込みは禁止なので、そのダイナミックな眺めを画像に残すことは出来ないが、なるほど、これは絶景である。こういう楽しみがあるのだから、やっぱり日本はいいなあ。
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(空から見た黄金崎不老不死温泉と露天風呂)

 館内の大浴場も海に面した露天風呂もそれぞれに満喫した私たちは、予定通りの送迎バスに乗る。雪深い八甲田の酸ヶ湯と、冬の日本海を目の前にした不老不死温泉。いずれも思い出深い滞在となった。
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 ウェスパ椿山の駅前で1時間近くの列車待ち。周辺には観光施設も幾つかあるのだが、私たちは眺めるだけで、とりたてて買う物もない。そうこうしている内に、外では雪がちらつき始めた。

 本来は11:15発のリゾートしらかみ2号が5分ほど遅れてやって来た。ハイブリッド車両だった昨日の「橅(ぶな)編成」とは異なり、純粋に気動車の「くまげら編成」と呼ばれる車両だ。これから秋田まで2時間12分の列車旅である。
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 ウェスパ椿山を出てしばらくすると、昨日同様、列車は日本海の海岸線を忠実に南下していく。忠実というより、白神山地の山並みが海の直ぐ近くまで迫っているため、列車は海岸線を辿らざるを得ないのだ。

 程なく列車は県境を越えて秋田県内に入り、ウェスパ椿山から30分ほどで岩館駅に到着。このあたりからは海沿いに奇岩の並ぶ風景が続き、一部の箇所では乗客のために列車が敢えて速度を落として運転している。
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 五能線の車窓いっぱいに広がる日本海の眺めを昨日から堪能してきたが、列車が東八森駅を通過した頃から次第に海岸線を離れ、能代平野の雪景色の中を南下していく。そして、米代川を鉄橋で渡ると能代、更に6分ほど走ると東能代に到着。五能線と奥羽本線の接続駅で、列車はここでスイッチバックして秋田へと向かうことになる。
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(東能代駅ホームの秋田方)

 かつては尾去沢や阿仁などの鉱山から採掘される鉱石を運ぶため、米代川を上下する水運業が盛んだった能代。東北地方日本海側の幹線鉄道・奥羽本線が、なぜその能代を通らずに建設されたのか。それは、「能代に鉄道が来ると水運と港が廃れる」という、明治の比較的早い時期には日本各地でよくあった地元の反対運動によるものだったという。従って、能代の中心街からかなり離れた現在の東能代駅を通る形で1901(明治34)~1905(同38)年にこの区間の奥羽本線が開業。すると1908(同41)年に東能代・能代間に支線が建設されて貨物の取り扱いを開始。そして程なく旅客の扱いも始まった。それだったら最初から反対などしなければ、という気もするが、いずれにしてもこの支線が後の五能線で最も早く開業した区間となった。
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 進行方向が今までとは反対になったリゾートしらかみ2号は、定刻の12:29に東能代を発車。ウェスパ椿山で乗った時の5分程度の遅れをこの時点で取り戻していた。ここまで来ると秋田も近いように思ってしまうが、実際にはこの快速列車でもまだ1時間かかる。車窓からは山も海も遠ざかり、一面の雪に覆われた水田地帯をひたすら南下。立体的な風景といえば、進行右手の彼方に見える男鹿半島の背骨の山々ぐらいだろうか。
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 13:27 小雪の舞う秋田駅に到着。乗り継ぎの東京行き秋田新幹線まで46分の時間があるので、駅ビルで食べ物を買うことにしよう。それにしても、今回の旅で五能線全線を踏破出来たことは本当に嬉しい。将来いつか越後線の新潟・柏崎間に乗ることが出来れば、私の列車旅の軌跡は北陸本線の敦賀以北の日本海沿岸路線が全て繋がることになる。
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(秋田駅ホームの東京方)

 14:13秋田発、こまち24号に乗車。家内と二人、青森から二泊三日で北東北を右回りに巡って来た冬の旅は、早いものでもう帰京の行程に入った。大曲で進行方向が変わって田沢湖線に入ると、車窓には少しずつ山々が迫り始める。14:57 ひっそりと雪に埋もれた角館駅に停車。一昨年の秋、やはり家内と二人でこの街を訪れた時は紅葉が真っ盛りだった。それは春の桜の時期と並ぶ角館観光のハイ・シーズンなのだが、見覚えのあるこの街の冬景色も、これはこれで何とも味がある。一面の雪原の中に細々と続く秋田内陸縦貫鉄道の単線レールが、胸に沁みた。

 冬は北へ行こう。そう思い立って、敢えて大寒の時期に北東北への旅に出た私たち。その旅先で出会ったのは、真冬の季節だからこそ接することの出来る北東北の自然の寡黙な美しさであった。普段から素朴な味わいを持つ東北地方の、これこそが真骨頂と言えばいいだろうか。私は北国がますます好きになってしまった。そして、いつもは寒がりの家内がそんな私に付いてきて北東北の冬景色を一緒に楽しんでくれたことが、今は何よりも嬉しい。

 左の車窓には、この季節にしては珍しく、秋田駒ヶ岳が堂々としたその全容を見せている。今回の旅についてのブログ記事の初回は雪の岩手山の画像から始めたので、フィナーレにはこの秋田駒の画像を使うことにしよう。こんな眺めに誘われるようにして、私たちはこれからもまた、東北へ旅に出るのかもしれない。

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冬は北へ (3) 五能線 [自分史]


 JR弘前駅3番ホームに、先ほどまで側線に停まっていた四輌編成の列車が、青森方からゆっくりと入線して来た。爽やかな緑色に包まれたそれは、昨年(2016年)7月にデビューしたばかりの新型車輌、HB-E300系だ。電気でモーターを動かして走るのだが、電源はディーゼルエンジンで回す発電機とリチウムイオン蓄電池で、発車時・加速時・減速時にその二つを使い分けるハイブリッド車輌なのである。これが全席指定の快速「リゾートしらかみ4号」として、これから五能線を経由して秋田までの区間を走るのだ。
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 車内に入ると、前後の座席の間隔がとても広いのでゆったりとしている。何よりも窓が上下に大きいので視界が広い。そして私たちが指定席を取った3号車は後ろ半分が洒落たカウンターになっている。
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 列車は定刻から数分遅れで出発。奥羽本線の川部まで二駅戻り、そこから進行方向を変えて五能線へと入る。本来の始発駅である青森から乗る予定だった人々のために、おそらくはJRが急遽バスでも仕立てたのだろう。川部駅での5分間の停車時間の間に乗客が次々に乗り込み、座席はほぼ埋まった。

 五能線の東側は1918(大正7)年に川部・五所川原間を開業させた私鉄の陸奥鉄道がその前身にあたる。奥羽本線は青森から弘前を経由して秋田までの間が既に明治時代に官営鉄道として開業しており、陸奥鉄道はその官設鉄道と五所川原を結ぶ役割を担っていた。1925(大正14)年には日本海側の鯵ヶ沢まで延伸開業していたが、金融恐慌が起きた1927(昭和2)年に陸奥鉄道は国有化されて「五所川原線」になり、1934(昭和9)年に鉄路を深浦まで伸ばしていた。今日の私たちは深浦の3つ先のウェスパ椿山まで行く予定なので、戦前の五所川原線の部分を全て走ることになる。
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 4号車が先頭になって、「リゾートしらかみ4号」は平野の中を軽快に北上。頭を雲の中に隠した岩木山は、今度は左の車窓に見えている。寒冷前線の通過で強風が吹き荒れた昨日はこの列車が全面運休になったのだが、幸いにして今日は、(おそらく下り列車の遅延が原因で青森・弘前間が運休になったものの)弘前から先の上り方面は平常通り運行されている。

 後になって気象庁のHPからデータを拾ってみてわかったのだが、昨日(1月27日)は日本海に面した深浦で朝の8時頃から瞬間風速が20m/秒を超え、強風のピークとなった午前11時代にはそれが25m/秒を超えていたのだ。五能線は瞬間最大風速が20m/秒を超えると減速、25m/秒を超えたら運休になるそうなので、昨日はまさにそれに当てはまる日だったことになる。そして、日付が替わってからはそれが20m/秒を超えることはなくなり、次第に弱まっていったので、全面運休になることは免れた訳だ。本当に一日違い。我ながら「持ってた」のかもしれない。
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(10分毎の瞬間最大風速の推移)

 15時08分、五所川原に到着。そして列車が再び動き出した時に右の窓の外に注目していると、津軽鉄道のホームと停車中の現役気動車、そして廃車後も留置線に置かれたままの古い気動車の姿が見えた。
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 旅客を扱うものとしては今や日本最北の私鉄となる津軽鉄道。これは前述した陸奥鉄道が昭和2年に国有化された時、出資金が倍になって戻って来た旧陸奥鉄道の株主たちが、もう一つ鉄道を作ろうということで新たに会社を設立し、昭和5年に五所川原の北方、金木までの区間を開業させたのだそうで、歴史が繋がっていてなかなか興味深い。

 その五所川原を出ると、五能線は大きく左へカーブし、岩木山の北麓を西に向かって走る。そして五所川原から僅か20分ほどで、右の車窓には日本海が一気に広がった。途端に車内では歓声が上がる。皆、この眺めを待っていたのだ。
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 15時33分、鯵ヶ沢駅に到着。かつては廻船の寄航地として栄えた港町だ。その名前からしていかにも海の幸が美味しそうで、名物はヒラメやヤリイカなのだとか。ここで下車せずに列車に乗り続けるのは何だか惜しい気もしてくる。

 海の眺めが始まり出した五能線。全長147kmの内86kmの区間で海が見えるこの路線は、いよいよこれからがハイライト部分だ。何と言ってもその86kmの内の殆どの区間は本当に海岸線のすぐ近くを走り、風の強い日は線路が波を被るのではないかと思うような箇所の連続なのである。

 窓一杯に広がる冬の日本海。それを眺めたのは何年ぶりのことだろう。その荒涼とした眺めが旅情を誘う。

 鯵ヶ沢から海岸線をたどること20分。陸が北に向かって海に突き出した所で、駅舎もなくホームが一本だけの「千畳敷」という無人駅に着く。快速「リゾートしらかみ4号」はここで15分停車。その間に乗客は駅前の道路を渡って海岸まで降りることが出ることができるのだ。その昔、殿様がこの千畳敷で大宴会を開いたという、あたり一面の岩床。それが1792(寛政4)年に起きた地震による隆起で出来上がった地形だというから驚いてしまう。
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(空から見た千畳敷海岸)

 防寒着に身を固め、家内と二人して千畳敷の岩床に立つ。「寄せては返す」という悠長な響きとは異なり、もっと猛々しい日本海の波。時刻は16時を回ったところだ。思えば今朝は八甲田山麓の雪深い酸ヶ湯温泉にいたのに、7時間後の今は冬の海を目の前にしている。遠くへやって来たものだと、改めて思う。
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 発車3分前になると列車は汽笛を鳴らせてくれて、それを合図に乗客は列車に戻る。先ほど海に出る時には気づかなかったのだが、線路の陸側には岸壁が迫り、そこからの湧水が凍結した姿が続いている。「氷のカーテン」と呼ばれる、これまた冬の五能線の名物なのである。
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 千畳敷を過ぎると、海岸線は南西へと向きを変える。つまり、右側の車窓に広がる海は概ね日没の方角になる訳で、ここから深浦駅の少し先までの区間は海と夕焼けを眺めることの出来る区間なのである。

 もっとも、「リゾートしらかみ4号」の場合は千畳敷発が16時13分、深浦着が16時37分、そして私たちが降りるウェスパ椿山着が16時53分だから、この時間帯の間に日没になる季節でないと、海に没する太陽は見られない。今日、1月28日の青森市の日の入りは16時49分、方角は246.5度(つまり西南西より21.5度だけ北)だから、ウェスパ椿山に着く直前にその光景に出会う可能性がゼロではないのだ。

 列車はほぼ定刻の運行で、深浦駅で上りの「リゾートしらかみ5号」と待ち合わせ。雲の垂れ込めた冬空が、灰色なりに日没が近い色調になってきた。弘前から続いた私たちの列車の旅も、残りはあと17分。列車はなおも変化に富んだ海岸線を几帳面に辿っていく。そして、何ということだろう。その頃から日没の方向で海の彼方の雲が切れて夕日が差しはじめたのだ。

 列車の大きな窓ガラスに釘付けになる家内と私。そして、おそらくは横磯という無人駅を通過した頃だったのだろう、海を赤く染めながら日本海に沈む直前の太陽の姿が私たちの目の前に広がった!
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 何という幸運。家内も私も、言葉が見つからない。旅先でこんな風景に出会えたことに、何と言って感謝を捧げればいいのだろう。

 その余韻に浸るのも束の間、ウェスパ椿山到着が近いことを告げる車内放送。荷物を持ってホームに出ると、ここも駅舎のない無人駅だが、目の前の広場に送迎バスが待っている。結構な人数がそれに乗り込み、海を見下ろす道を10分ほど走って、今日の目的地黄金崎不老不死温泉に到着した。

 全室がオーシャン・ビューのこの温泉旅館。部屋に通されると、既に陽が沈んだ海と空が今日最後の輝きを失いつつあった。
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 やはり、旅に出てよかった。
(To be continued)


冬は北へ (2) 弘前城 [自分史]


 明け方に目が覚めた。部屋の中で寝ているのに鼻の頭が冷たい。布団の中は暖かいが、室内はかなり寒くなっていた。

 東京のマンションで生活していると、一晩中暖房(エアコン)をつけ続けることはまずないし、ましてや目の前でガスが燃焼しているストーブをつけたまま寝てしまうのは何だか無用心だ。そんな訳で家内と私はガス・ストーブを切って寝たのだが、青森県・八甲田山の山麓、標高900mの酸ヶ湯(すかゆ)温泉旅館では、真冬ともなると木造の建物は夜の間にかなり熱を奪われてしまうようだ。逆に、そういう体験が私たちにとっては新鮮である。

 ストーブを点火してから暫くまどろみ、部屋の中が相応に暖かくなったのは午前6時に近い頃だっただろうか。おそらくは旅館で働く人々が既に朝の仕事を始めているのだろう。そんな足音が廊下から聞こえて来る。私たちも起き出して、朝食前にこの旅館の「ヒバ千人風呂」に浸かりに行くことにした。東京でもようやく窓の外が明るくなり始める時刻。千人風呂の大きな浴室でも、濃い湯煙の中でぼんやりとした窓の光が並んでいた。

 旅館の朝は早い。朝食は6時45分からなのだが、その時刻に食堂へ行ってみると、バイキングの前に結構長い列が出来ていた。用意されていた料理の数はとても多く、自分の皿の上はあっという間に一杯になってしまう。中でも、「キノコの南蛮漬」という青唐辛子がピリッと効いた青森名物の漬物が美味しかった。

 東京に住む私たちが、いつかまたこの酸ヶ湯温泉を訪れる機会はあるだろうか。そう思うと、私たちは食後ももう一度湯に浸かりに行ってしまう。再び千人風呂の硫化水素の匂いと白い湯煙に包まれながら、この温泉との別れを惜しんだ。去り難い気持ちはあるが、身支度を整え、これから8時50分発のバスで青森駅に戻らねばならない。
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 雪の国道を下り、ちょうど1時間ほどで青森駅前に着くと、あたりには冷たい風が強く吹きつけていた。駅ビルに入り、まずはJRの窓口で列車の運行状況を確認する。五能線を走る快速「リゾートしらかみ」が予定通り運行されるかどうかが気になっていた。まだ1月というのに「春一番」の気圧配置になった昨日は、強風のために「リゾートしらかみ」は全面運休だったのである。

 「今日は今のところ、運休にはなっていません。風が強いと速度を落とすので、遅れが出るかもしれませんが。」

 よかった。後はこれからの天気次第だ。気を取り直した私は駅ビルの中で家内と熱いコーヒーをすすり、奥羽本線のホームへと向かう。これから秋田行きの普通列車に乗り、弘前まで45分ほどの旅だ。
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(左は津軽線の気動車。右が奥羽本線の交流電車)

 新青森の次の津軽新城という駅を過ぎると、奥羽本線は谷の中に入り込み、雪が深く人家も少ない中を走る。そして、トンネルを抜けて大釈迦という駅で貨物列車との待ち合わせを済ませると、再び平野に出て、右の窓に岩木山(1625m)の広い裾野が現れた。津軽富士の別名を持つこの名峰。全容を是非眺めてみたいものだが、今日は半分から上が雲に覆われている。

 一面の雪に覆われた平野の景色の中を走り続け、11時25分に予定通り弘前駅に到着。大荷物をコインロッカーに預け、私たちはタクシーで弘前公園に向かった。何はともあれ、弘前城を見てみよう。

 追手門の前でタクシーを降りると、弘前城の外堀が凍結しているのに、まず驚いた。
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 なるほど、この季節になると、東北地方ではお堀もこんな風に凍ってしまうんだ。本当に戦になったらお堀としては機能しないのではないか? そんなことを考えながら追手門をくぐると、桜の木が並ぶ城内は更に深い雪の中だ。内堀の前では木の枝が凍りついている。1月28日の今日は七十二候の「水沢腹堅(さわみずこおりつめる)」の最中だが、あたりはまさに雪と氷の世界である。
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 足元に気をつけながら城内を進む。こんな時期だから本丸も閑散としたものだ。桜の時期ならば大変な混雑であろう天守の前も、訪れているのは私たちを含めて10人足らずである。
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 弘前城の築城が始まったのは、家康の将軍宣下が行われた1603(慶長8)年だそうだが、1627(寛永4)年に落雷を原因とする火災と爆発で天守が焼失したため、この城には以後200年近く天守がなかったという。その再建が認められたのは幕末も近い1810(文化7)年。しかも、戊辰の戦では弘前藩が途中で奥羽越列藩同盟を脱退して官軍側についたために、弘前は戦場にならなかった。要するに弘前城は戦を経験することなく使命を終えた訳なのだが、再建しても結果的には無用に終わった天守が、今は国の重要文化財になっているのだから、歴史とは不思議なものである。

 天守の立つ場所からは、後方に岩木山方面の展望がある。この時間になっても岩木山の上半分は雲の中で、三つのピークを持つ津軽富士の全容を眺めることは、残念ながら今回は無理そうだ。
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 今朝、青森駅前は風が強くて寒かったのに、ここ弘前は風も穏やかで、一部に青空ものぞいている。気分がいいので、散歩がてらに私たちは結局弘前駅前まで歩いて戻ることになった。お昼時を過ぎてはいるが、どこかで店に入って食事をするほど空腹でもない。その代わり、駅の近くで「虹のマート」というローカル色の濃厚な市場を見つけたので、この後に乗る列車の中でのおつまみ物を買い求めることにした。弘前名物のイカメンチ(メンチカツのイカ版)。これはビールのつまみに最高である。
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 弘前駅に戻ると、五能線を走る14時30分発の秋田行き快速「リゾートしらかみ4号」の表示が出ていた。昨日は強風で運休になっていたので、今日は運行されるかどうか気を揉んでいたのだが、どうやらそれは取り越し苦労で済んだようだ。
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 とはいうものの、一つ奇妙なことに気がついた。リゾートしらかみ4号は青森発13時51分の列車で、弘前着が14時26分だから、本来はまだこの駅には着いていないはずである。それなのに、弘前駅には「橅(ぶな)編成」と呼ばれる爽やかな緑色のその姿が既にあり、しかもまだ客扱いをせずに側線に停まっているのだ。
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 それは何故か。しばらく考えているうちに見当がついた。今日のリゾートしらかみ4号の車両は、HB-E300系という新型のハイブリッド車で、下りの「リゾートしらかみ1号」として08時20分に秋田を発ち13時30分に青森に着く列車の折り返しである。もしかすると、今日も五能線の沿線のどこかで強風が吹き、減速や徐行によって遅れが出たために弘前・青森間の運行を1号・4号共に取り止め、改めて弘前発の列車として上りの4号を運行することになったのではないか。

 そういう経緯があったにせよ、ともかくも弘前からは予定通りの運行となったのはありがたい。初めて乗ることになる五能線。さて、どんな旅が待っているのだろうか。
(To be continued)

冬は北へ (1) 酸ヶ湯 [自分史]


 朝の「はやぶさ」で東京駅を出てから、およそ二時間。窓の外を北上川沿いの冬景色が流れていく。野山も田畑も雪に覆われた白一色の世界。色彩のアクセントになるのは、白いキャンヴァスに細筆で描いたような木々の幹だけである。

 昨夜遅くまで旅仕度をしていた家内は、窓側の席でいつの間にか眠り込んでいる。一方の私はといえば、列車で旅に出る時の常として、窓の外を眺め続けてきた。今日の午後には本州を寒冷前線が通過し、北日本は大荒れの天気になるとの予報だったが、それにしては、東京を出た時から窓の外には彼方の山々がよく見えていた。つい先ほども、左右の尾根の広がりが実に穏やかな栗駒山の雪景色を楽しんでいたところだ。

 11時48分、はやぶさ11号は定刻に盛岡を発車。その直後から、左の窓には岩手山の雄大な姿が迫る。この山の姿形の良さは東北でも随一なのだが、眺めるのなら、やはり積雪期がいい。2038mという標高以上のものを感じさせる、北国の山ならではの味わいがそこにある。
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 冬は北へ行こう。家内と2泊3日の旅に出ることを思い立った時から、そう決めていた。

 北国の冬は厳しいけれど、そんな冬だからこそ輝く何かがある。それは、もう30年以上も前のことながら、私が社会人として最初の3年を過ごした北陸の富山で体験したことだった。自然の豊かな富山はどんな季節も素晴らしかったけれど、やはり雪が降り積もる頃に「富山らしさ」を最も強く感じたものだった。

 盛岡を過ぎると、東北新幹線は長大トンネルが多くなり、外の様子はわかりにくい。ようやく闇を抜けて八戸駅を通過する時には部分的に青空が見えていたが、青森県に入ってから垣間見えたのは全くの灰色の空。そして12時35分に新青森駅に到着し、在来線(奥羽本線)のホームに降りると、外は雨だった。これが2月4日の立春を過ぎていたら「春一番」と呼ばれたに違いない気圧配置のために強い南風が吹いて、この青森でも気温が上がったためだ。

 約20分の接続で二両連結の在来線・青森行き電車がやって来た。最後部の窓から外を眺めると、高架の新青森駅がゆっくりと遠ざかるのと入れ替わりに、右手から津軽線の線路が近づく。雪の中に細々と続くレール。北国へやって来たという実感が湧いてくる。
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 13時ちょうどに青森駅に到着。かつては数多くの寝台列車が出入りした北の終着駅。私たちが乗ってきた二両連結の電車はその長大ホームを完全に持て余している。

 「そういえば、この駅に降りてから青函連絡船まで階段や通路を走ったのよね。」

 学生時代に友達と北海道へ貧乏旅行をしたという家内。彼女がその時に走った階段や連絡通路はこのホームのずっと先(海寄り)の方だが、今では人が通ることもあまりないのではないだろうか。

 跨線橋に上がると、東北本線の在来線だった「青い森鉄道」の車両が停車している。そのホームの彼方はもう海だ。
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 海の方をよく見ると、今はそれ自体が博物館になった青函連絡船・八甲田丸の姿がある。その船体に塗装された”JNR”(国鉄)の赤いマークが妙に懐かしい。
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 青森へやって来た私たちの今日の目的地は、八甲田山の麓、標高900mの地にある酸ヶ湯(すかゆ)温泉である。江戸時代初期の1684年に猟師によって発見されたというから、今年で333年の歴史を持つことになる。手負いの鹿がこの温泉で傷を癒し、三日後には元気に岩場を駆け上がったという言い伝えから、「鹿の湯」が「酸ヶ湯」になったというのは、東北訛りならではのご由緒と言うべきか。
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 その江戸時代から酸ヶ湯には多くの湯治客が訪れ、小さな温泉小屋が幾つも建てられていたという。今では青森産の総ヒバ造りの「ヒバ千人風呂」と呼ばれる大きな浴室がここの名物だが、それはいつ頃に建てられたものなのだろうか。近年では2013年の3月に566センチの積雪を記録したこともある、この北国の山奥の酸ヶ湯温泉が、戦後の昭和29年に全国の温泉のモデルケースとして「国民保養温泉第1号」に認定されたというのは、多くの人々の愛着によって支えられて来た長い歴史の賜物なのだろう。

 だから、そんな酸ヶ湯温泉を是非とも真冬に訪れてみたかったのである。真冬も真冬。一昨日の1月25日からの5日間は二十四節気の「大寒」の次候「水沢腹堅(さわみずこおりつめる)」だから、私たちの旅はちょうど一年中で最も寒い時期にあたるのだ。

 宿泊客は、事前に予約しておけば14時に青森駅前を出る無料の送迎バスに乗れる。駅前周辺で海産物などの店を見物していた私たちがその15分前に所定の場所に行ってみると、温泉旅館のバスが停まっていて宿泊客たちが乗り込み始めるところだった。名簿で乗客の名前を確認し、車内が満席になると、特段の説明もなくバスは発車。南下して市内を抜け、国道103号(八甲田ゴールドライン)の坂道を早くも登り始めた。

 市街地で降っていた雨は、山に入り込んでいくとさすがに雪に変わる。路面はやがて雪に覆われ、道路の両側には大人の背丈ほどの雪の壁が続くようになった。冬の間は夜間通行止となるこの道路。毎日除雪を続けるのは大変なことだろう。
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 やがて八甲田ロープウェイの乗り場へと向かう道を左に分け、バスはなおも山の中へ。私は一時間半ほどかかるのかと思っていたが、結局一時間足らずで酸ヶ湯温泉旅館前に到着。本来なら広い駐車場になっている場所も、今は大部分が雪に埋まっている。
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 好天の日ならば旅館の建物の後方に八甲田大岳(1585m)が見えるはずなのだが、今日は一面のガスの中だ。15時というと、予想天気図上ではちょうど東北地方の背骨を寒冷前線が通過する頃だ。山の稜線上では吹雪なのだろうが、温泉旅館の前はいたって風も弱く、「北日本は暴風雪に注意!」と言われて来たのに何だか拍子抜けしてしまう。
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 チェックインを終えて部屋へと誘導される。木造の古い建物で、廊下を歩くと床が鳴る。その感じがどこか懐かしい。窓の外は深い雪。なかなか絵になる風景だ。
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 廊下の数箇所に石油ストーブが置かれ、部屋の中はガス・ストーブだ。窓は二重ガラスになっているものの、木造家屋には外から冷気が伝わって来るようで、ストーブをつけていないと直ぐに室温が下がってしまう。しかし、そんな昔風のところがいい。寒い所へ来ているんだから、寒さは当たり前なのだ。

 食堂での夕食は18時半の回を予約して、まずは一風呂浴びて来よう。名物のヒバ千人風呂(混浴)には洗い場がなく湯に浸かるだけなので、最初はそれとは別の「玉の湯」(男女別)で体を洗うことになる。「混浴」に逡巡していた家内はまずは玉の湯だけにして、20時~21時に設定されている「女性専用タイム」に千人風呂へ行ってみるという。

 玉の湯もそれはそれで立派な温泉なのだが、折角だから、私は玉の湯から上がった後に続けて千人風呂の様子も見て来ることにした。
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(温泉のHPより拝借)

 それは、ちょっとした体育館とも言えるほどの広さの、中に柱のない大きな浴室だった。冬だから湯煙がもうもうと上がっていて、3メートル先はもうホワイト・アウトしている。おまけに外は雪が降る中の黄昏時だから、窓からの光も殆どなく、昼光色の電灯がポツリポツリと何箇所かで極めてぼんやりとしているだけだ。湯も濃い白濁色で、これなら混浴を気にする必要もまずないだろう。

 部屋に戻ると、玉の湯でゆっくりしていた家内もほぼ同時に戻って来た。そして千人風呂の様子を私が説明すると、家内も段々とその気になって来る。

 「それなら勇気を出して、私たちの食事が終わった直ぐ後に、空いてたら行ってみようかな。」

 「ホントにちょっと離れただけで、人がいるかいないかもわからないよ。折角来たんだから、好きな時に好きなだけ入ってみたら?」

 そんな話をしながらテレビのニュースを見ているうちに、早くも夕食の時刻になった。外はもうすっかり暮れて、雪国の夜景が始まっている。
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 食堂ではたくさんの品数の料理が供され、三種類の地酒の飲み比べセットなどもあって、私たちは酸ヶ湯の夜をゆっくりと楽しませていただいた。(地酒の中では弘前の『豊盃』が実に素晴らしい!)八甲田ゴールドラインが冬も通じているとはいえ、雪深い山奥でこんなに豊かな食事を楽しめるのだから、今の私たちは大変な贅沢をさせていただいている。333年前に手負いの鹿を追っているうちにこの温泉を見つけたという猟師は、後にこんな時代がやって来ることなど想像もつかなかったことだろう。
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 夕食の後、私は家内の「混浴デビュー」に付き合うことにして再び千人風呂へ。(付き合うといっても、湯槽は中央で男女のエリアが二つに分けられているので、お互いに何も見えないのだが。)それですっかり味をしめたのか、家内は寝る前にもう一度、ニコニコ顔で千人風呂に浸かりに行っていた。

 雪深い八甲田火山群の麓から熱い湯が豊かに湧き出す酸ヶ湯温泉。「地の恵み」という言葉がこれほどぴたりと当てはまる場所も少ないのではなかろうか。ゆっくりと湯に浸かりつつ、改めてこの国の神々に感謝を捧げたい。
(To be continued)

行間を埋める作業 (2) [読書]


 1926(大正15)年1月19日というと、この文章を書いている時点からちょうど91年前になる。その年の暦では大寒の二日前にあたるこの日、東京・小石川に本社・工場を構える大手出版会社の労働組合がストライキを決議し、大規模な労働争議が始まった。

 大正元年に結成された友愛会を始祖とする日本の労働組合の全国組織は、次第に社会主義の色彩を帯びて大正12年には日本労働総同盟に改称。その後は更に社会主義者と共産主義者の対立が激化し、同14年には二つに分裂した。その内、共産党系の一派は日本労働組合評議会(略して「評議会」と呼ばれた)を名乗り、数多くの労働争議を指導。前述の出版会社の労組はこの評議会加入労組であり、それとの鮮明な対決姿勢をとった会社側は、操業の短縮と短縮分の賃金カットを発表。これに反発した労組側がストを決議して、総勢2,300人がストに入った。世に云う共同印刷労働争議である。

 会社側は警察を利用して検挙者を出させ、暴力団に組合を襲撃させ、そしてスト破りまで雇ったのに対して、評議会を通じて全国から支援を受けた労組も必死に抵抗。しかし、3月18日までの丸二ヶ月に及んだこの争議は、労働者の大半が解雇され、会社側に有利な形で終結するという、労組の完敗に終わった。後にこの労働争議を題材にしたプロレタリア小説『太陽のない街』を世に出した徳永直は、この時に解雇された労働者の一人だった。

 この共同印刷労働争議が始まった9日後に、憲政会単独内閣を率いていた加藤高明が現役の首相のまま病没。内務大臣・若槻禮次郎が後を継ぐ。第一次大戦の終結後、日本経済が反動不況に苦しんでいたところに関東大震災が追い討ちをかけてから、まだ満3年も経っていない。この時期の日本で労働争議が頻発し、各種の社会運動が勃興したのは、ロシア革命の影響を受けた共産主義思想の高まりが背景にあったのは事実だが、基本的には不況が続いていたからなのだろう。
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 その年の暮の大正天皇崩御によって元号が改まり、明けて1927(昭和2)年3月14日。つまり共同印刷労働争議が労組側の全面敗北で終結する4日前に、衆議院予算委員会における蔵相の失言から銀行の取り付け騒ぎが始まり、いわゆる昭和金融恐慌の契機となった。そして、台湾銀行救済のための緊急勅令案が枢密院で否決されて、第一次若槻内閣は4月20日に総辞職。代わって政友会総裁の田中義一に組閣の大命が下る。

 そう、この時代は経済の面では不況が続いていたのに、政治の面では憲政会(後に民政党)と政友会が交互に政権を担う時代が1932(昭和7)年まで続いたのだ。施行から間もなく70周年を迎える戦後の新憲法下ですら、殆ど実現したことがない二大政党時代。それが不況と恐慌の時代になぜ可能であったのだろう。そして、昭和7年に五・一五事件で現役の首相・犬養毅が殺害され、斉藤実の「挙国一致内閣」が登場して以降は、なぜ二大政党時代が復活することはなかったのだろう。

 歴史教科書の記述の行間を埋める好著『教養としての「昭和史」集中講義』(井上寿一 著、SB新書)を読んで、特に私が思ったのは、私たちは1925(大正14)年の普通選挙法成立という事柄を知識として持ってはいても、それに基づいて実施された旧憲法下での計7回の男子普通選挙によってそれぞれどのような民意が示されたのか、それを必ずしも理解していないということだ。
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 もちろん、旧憲法下では首相・大臣の任免権は天皇にあり、新憲法下のような国会での首班指名はなかったから、衆議院議員の総選挙があったからといって、その結果が直ちに新内閣の組成に結びついた訳ではないが、それでも男子普通選挙によってどんな民意が示されたのかは、(それを「キングメーカー」西園寺公望がどう受け止めたのかも含めて)その時代を理解するための手掛かりになる筈である。

 昭和2年の春に起きた前述の金融恐慌は、成立したばかりの田中義一内閣の蔵相・高橋是清による三週間のモラトリアム(支払猶予令)の実施や、片面だけの印刷ながら紙幣が銀行の店頭に高く積まれたことにより、5月には沈静化。他方、中国大陸では蒋介石の北伐が始まり、居留民保護のための第一次山東出兵がこの内閣で行われている。

 明けて1928(昭和3)年2月20日、第一回の普通選挙がいよいよ実施される。その結果は、総議席数466の内、政友会218、民政党216、その他32(内、無産政党8)というものであった。

「(中略)たしかに社会主義運動の弾圧はあったものの、(中略)第1回普通選挙の結果、無産政党の獲得議席はほんの数%しかなく、新たな有権者の大半は当時の二大政党であった政友会か民政党のいずれかに入れているのです。」

「無産政党に対する弾圧の結果、投票すべき政党を失った無産者たちが仕方なく政友会か民政党に票を投じたのではありません。新たな有権者の人たちにとっても、いわば泡沫政党の無産政党よりも、より政権に近い既存の二大政党のほうが自分たちの望む政策を実現してくれそうだと考えたからこそ、政友会か民政党のいずれかに投票したのです。」

「(中略)要するに、無産者も含めて、当時の国民の大半は政友会と民政党による政権交代可能な二大政党制が望ましく、それによって日本の政治は良くなると考えていたのです。」
(以上、引用前掲書)

 こうして議会で政友会・民政党がほぼ同数となった田中義一内閣。だが、満州の権益を守るために日本が支援していた満州軍閥・張作霖が蒋介石の北伐軍に敗れると、関東軍がその張作霖を爆殺する事件が発生。その真相究明と処分をウヤムヤにした田中が昭和天皇から強い叱責を受けて辞任すると、「憲政の常道」として、今度は民政党の濱口雄幸に組閣の大命が下る。1929(昭和4)年の夏のことである。
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 その濱口内閣が不況克服のために敢えて金解禁と緊縮財政を掲げ、軍事費も聖域扱いせずにロンドン海軍軍縮条約に調印したことは良く知られている通りだ。しかも、政権発足から半年も経たない内にニューヨークを震源地とする世界大恐慌が発生。景気が一段と悪化していく中で、翌1930(昭和5)年2月に第2回の衆議院普通選挙が行われる。それはまさに濱口と民政党の経済政策の信を問う選挙となった。

「(中略)たいていの政治家は票集めのために甘言を弄するのが常です。ところが濱口の民政党はそれと正反対のことをしています。つまり、有権者に対して『当面、景気はもっと悪くなる』と宣言しているのです。」
(引用前掲書)

 さて、その選挙の結果はどうだったのか。学校の教科書にはその記述はないが、実は戦前の昭和史を学ぶ上でここがまさにポイントの一つなのではないか。

「(中略)驚くべきことに、この1930(昭和5)年2月20日の衆議院選挙で、濱口の民政党は圧勝するのです。具体的には、民政党は衆議院の466議席中、過半数を大きく上回る273議席を獲得します。対する政友会は改選前から99議席減らして174議席です。
 この結果は、財界人や富裕層が民政党に投票したから、という理由では説明がつきません。まさに娘を売る決断を迫られたり、労働争議や小作争議に参加したりしかねないような人たちが民政党に投票しなければ、ここまで大勝できるはずはありません。」
(同上)

 現代の私たちは、その濱口と民政党の経済政策が結果的に大失敗であったことを知っている。世界大恐慌の発生以降各国が通貨安を競い合っているような時に金解禁を断行し、不況の中で財政緊縮政策を進めたことは明らかに逆効果だった。けれども、この時の総選挙において有権者は濱口の政策を支持し、敢えて苦い薬を飲むことを選んだのである。
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「この選挙結果は、当時はもちろん、現在の政党政治を考えるうえでも非常に重要です。要は、有権者が常に景気対策を望んでいることは確かですが、だからといって有権者もそう単純ではないのです。」
(同上)

 ところが、私の高校時代の日本史の教科書では、この時期に関する記述は以下のようなものだ。

「軍部・右翼および浜口内閣の協調外交に不満の諸勢力は、この条約(=ロンドン海軍軍縮条約)が統帥権干犯であるとして、はげしく政府を攻撃した。そして経済政策の失敗とともに、この内閣にたいする不信は政党政治にたいする不信となり、急進的右翼の台頭のきっかけとなった。そして同年暮、濱口首相は右翼の一青年に狙撃されて重傷を負い、翌年死亡した。」
(『詳説日本史(新版)』 昭和49年3月5日発行、山川出版社)

 昭和5年の普通選挙で有権者が苦い薬を飲む意思を示したことが全く割愛され、民政党の政策の失敗が(軍縮条約に調印したことも含めて)政党政治への不信に繋がったという風に読めるのだが、これはいかがなものだろうか。
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(狙撃された濱口首相)

 今の世界を見渡してみれば、世界中どこを見ても経済政策は「緩和頼み」だ。痛みを伴う改革が受け入れられることは滅多にあるものではない。それだけに、普通選挙法が制定されて2回目の総選挙となった昭和5年の衆院選において、我が国の有権者が打ち続く不況の中で敢えて苦い薬に一票を投じた姿に、私などはどこか瑞々しさを感じてしまう。更には、「政党政治への不信」を言うのなら、自分が与党の時代にはパリ不戦条約(昭和3年)に調印していた政友会が、野党になるとロンドン海軍軍縮条約の調印に反対したという事実、それも反対の理由として「統帥権干犯」という理屈を政党の側から持ち出したという事実、すなわち政友会側により大きな問題があったのではないか。

「有権者は本来、“政治の生産者”として民主主義を担う主権者であるはずです。受身の姿勢で自分たちに都合のよい政策を選り好みするのではなく、自ら政治に関わり、その投票行動に応分の責任や負担が生じることを自覚しなければなりません。
 同様に政治家も、ただ有権者の要求を聞き入れる、あるいは甘口の政策を弄するのではなく、日本社会の持続的な発展を見据えた上で、ときには痛みを伴う政策の有効性を訴える必要があるのではないかと思います。
 そういう意味では、濱口雄幸は、昭和恐慌の只中で『いまは耐えてください』ときちんといえる政治家であり、国民に対して誠実だったといえます。
 そのような濱口に共鳴し、彼の民政党に273議席を与えた当時の国民もまた立派でした。1930(昭和5)年の総選挙は、首相と国民が一体感を持って経済危機を乗り越えようとした事例として思い出されるべきです。」
(『教養としての「昭和史」集中講義』)

 教科書にあったように、濱口首相は昭和5年の暮に東京駅ホームで凶弾に倒れ、翌年(昭和6年)4月から若槻禮次郎が二度目の政権を担うのだが、その年の9月に満州事変が勃発。それへの対応方針を巡って閣内不一致が起きたために同内閣は同年12月に総辞職し、犬養毅の政友会に政権が戻った。民政党とは正反対に政友会は積極財政政策を掲げ、翌年(昭和7年)2月の総選挙で圧勝。だがそれも束の間、同年5月15日にその犬養は海軍青年将校の一団によって射殺されてしまう。
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 以後、戦前の昭和史において二大政党政治が復活することはなかったのだが、それはなぜなのか。多くの人々にとって、学生時代の授業では、特にここから先の昭和史は時間切れで全く教わらないか、或いは超駆け足になるか、その何れかではなかったか。だが、『教養としての「昭和史」集中講義』を読むと、ここからが本当の肝なのだと思う。
(To be continued)

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