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花看半開 [季節]


 人間とは、幾つになっても肚が坐らないものだと、つくづく思うことがある。

 「花をみたとき、にっこりと笑う心。花の美しさに自然に微笑む心、この心こそ人間誰もが持っている仏心です。 (中略)
 花をみて笑える心は、食欲、色欲、財欲、名誉欲、睡眠欲などの強烈な人間五欲のほかの心です。その、ほかの心が花をみてにっこりと笑わせる。人間にとって一番純粋な心、清らかに澄んだ心が笑わせる。
 なんぼ花をみても銭もうけにはならん。デートの代わりにもならん、腹もふくれん。が、それでも花をみて笑える。どんな貧乏のどん底におっても花をみて笑える。こういうすばらしい心が人間には在るのです。それが人間の本心だと分かることが仏教じゃ。」
(『仏音』、高瀬 広居 著、朝日新聞社 より 臨済僧 山田無文の言葉)

 今から8年前、つまり2010年のちょうど今頃、桜の開花の時期に、かつて読んだことのある本のこんな一節を、このブログに引用したことがある。その引用部分は、仏教の入門書には必ず出て来る拈華微笑(ねんげみしょう)というエピソードについての一つの解釈の仕方なのだと個人的には理解しているのだが、そこで臨済僧が語っていることは決して難解なことではないと、その時の私は、少なくとも頭の中ではそう思っていた。五欲から解き放たれれば、人間はどんな時でも花をみて笑える。それはきっとそうなのだろうと。

 ところが、それから7年。つまり去年のちょうど今頃、私は「花をみて笑える心」どころか、花を眺める余裕すら失っていた。今から思い返しても、ああ花が綺麗だといって外を歩いた記憶が全くと言っていいほど無いのである。それどころではなかった。自分の生死にかかわることが自分の体の中で起きていた、そのことを知らされたのだった。

 「精密検査の結果、膵臓がんの疑いあり。一刻も早く手術を受けるべし。」

 高校時代の級友で内科医を務めているS君から、そんな所見があったのが昨年の4月12日。そしてその二週間後の4月25日には都内の専門病院で開腹手術を受けるという段取りが、あれよあれよという間に決まっていった。

 そこまで迅速な手配をしていただけたのは本当に得難いことで、S君をはじめとして手を尽くしていただいた皆さんには心から感謝を申し上げねばならない事柄なのだが、深刻な事態を迎えていることへの実感が、当の私には今一つ湧かず、「いつも全面的に信頼して来たS君の言うことだから、ともかくも彼が薦める通りにしていこう」ということしか考えていなかったように思う。

 「頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなった」とか、「ショックで食べ物が喉を通らなくなった」とか、そういう事態に陥ることはなかったと、自分では思っている。

 膵臓がんは一般に発見が遅く、手遅れのケースが非常に多いので、発見から5年後の生存率ががんの中でも一番低い、要するに助からない病気である。その病に直面したことは確かにショックであり悲しくもなったが、だからといってジタバタしても仕方がない。最後はなるようにしかならないのだから、ともかくも主治医の指示に従い、自分の身を全て預けることにしよう。

 そこまでは気持ちの整理がついていたのだが、例年よりだいぶ早く桜の季節が終わった後、それに続く一年中で一番素晴らしい花の季節に、花を愛でることを全く忘れていた。結局のところ、私は肚が坐っていなかったのである。
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 S君の所見を受けてからの二週間はあっという間に過ぎ去り、4月25日が到来。開腹手術は(ほぼ予定通りだそうだが)5時間にわたり、その日の夜は病院の集中治療室で過ごし、体にまだ管が付いたままの状態で翌日の昼に病室に戻された。こんな体験をしたのは私の人生では初めてのことだ。それでも術後の経過は比較的順調な方で、5月の連休を迎えた頃には、二時間程度ではあるが点滴を外して病院の周辺へ外出することが許された。

 5月5日の祝日、窓の外は好天だ。見舞いに来てくれた家族と共に、入院後初めて病院の外に出て、隣接する緑地をゆっくり歩くことにした。風薫る5月。病院の急患入口の自動ドアが開いて外の空気を吸い込んだ時の心地よさ、そして次の瞬間に目の中に飛び込んで来た緑の眩しさは、今でもはっきりと思い出すことが出来る。

 窓ガラス越しに眺めるのとは全く違う、それは命の躍動とでも言うべきものだろうか。木の幹に体を預け、フレッシュで柔らかな緑の葉に手を触れてみると、命のいとおしさが脈々と伝わって来る。「生きている」とはこういうことなのだ。61歳を迎えたばかりの私は木々の緑にそう教えられていた。
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 その後も経過は比較的順調な部類のまま推移し、手術の日から16日目の5月10日に退院。その日を含めて5日ほど自宅で静養し、5月15日から会社への出勤を再開。それから二週間が過ぎたところで一度体調が悪くなり、再び10日ほど入院することになった。そして、血液検査の数値やCTの画像にも異常は見られなくなったので、6月8日に漸く退院。今から思えば、最初に退院した後にわりと直ぐ会社に復帰したのは、ちょっと頑張り過ぎていたのかもしれない。

 その後も日常生活において辛さのある日々が続いた。何といっても開腹手術というのは想像以上に体へのダメージが大きいものであるようだ。そして、ロクに物が食べられない状態が続き、いつまでたっても下痢が治らない。それに加えて、がん治療とはそういうものであるようだが、術後の体調回復が十分でないうちに抗がん剤の服用が始まり、これがまた色々な副作用を伴うことになる。

 夏が過ぎる頃までは、平日の帰宅後や週末には横になっていることが多く、さすがに気分が滅入った。体重が大きく減って筋肉も落ちてしまった今、もう昔のように元気に体を動かすことは出来ないのだろうか。真夏に咲く花が少ないこともあるのだが、そんな状態だった私は依然として花を愛でる心を失ったままだった。

 その後、初秋の頃から少しずつながら体力が戻り始め、食事の量もそれに合わせて増えていった。抗がん剤の副作用にもある程度体が慣れてきたのだろう。無理のない範囲で出張にも出るようになり、短いコースながら週末の山歩きも再開出来た。そして、抗がん剤の服用は予定通り年末で終了。以後は普通に生活していて、今年6月の経過観察を待つ身となっている。

 昨年の春以降をそんな風に過ごしてしまったからだろう。今年はまだ真冬の間から、例年にも増して花の季節が待ち遠しくなり、春の兆候を探しにカメラを持って外に出ることが多くなった。放っておけばそのまま死に至る病を得た私は、手術とその後の治療によって、ともかくも今こうして生きているということを有難くも実感させていただいている。そんな我が身にとっては、新たな命が輝き始める早春は何とも眩しいばかりだ。
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(1月28日 新宿御苑の寒桜と蝋梅)

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(2月4日 小石川植物園の梅園)

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(3月3日 浜離宮恩賜公園の菜の花畑)

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(3月24日 小石川植物園)

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(3月25日 皇居・千鳥ヶ淵)

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(3月27日 小石川・伝通院)

 花看半開 酒飲微醺 (花は半開を看(み)、酒は微醺(びくん)を飲む)

 『菜根譚』の中の有名な一節で、「満開の花より半開こそ見ごろであり、酒もほろ酔い加減がいい」と述べている。私も昨年の体験で、花や緑を眺めることによって湧き起る「命の愛おしさ」に少し敏感になっているからだろうか、『菜根譚』のこの一節が今更ながら心に響くように思う。物事は何でもmaximumがいいのではない。絶頂期よりも、そこに向かって物事が加速を続けている、言わば微分係数が最大になる頃が一番の見ごろだという訳で、命が最もその躍動感を見せるのが花で言えば五分咲きの頃であり、酒で言えばその旨さが一番わかる程度のほろ酔い加減がベストということだ。

 もっとも、桜に限っては五分咲きの頃だけではなく、散った花も、花と入れ替わるようにして甦る若葉も素晴らしい。
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(3月31日 練馬区・石神井公園)

 そして、桜よりも長く花を楽しめる桃。一つの木から多様な色彩の花が咲き、桜のような忙しなさがない。そのどこかのんびりとした穏やかさが、私は好きだ。
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(4月1日 新宿区・早大通りのシダレモモ)

 桜が終わると、それを待っていたかのように緑が甦る。新緑は何といっても5月が素敵だが、4月中頃の、本当に生まれたばかりのような若葉の輝きもまた格別である。
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(4月7日 小石川植物園)

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(4月8日 新宿区・戸山公園)

 そして、3月に平年より暖かい日が続いた今年は総じて草木の開花が早く、東京都心ではツツジが既に見ごろになっている。
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(以上、4月15日 文京区・根津神社)

 ひとまずは経過観察の身になったとはいえ、私が抱えた病気について今後のことはまだ何とも言えない。基本的に自覚症状の出にくい病気だから、体の中で進行していても自分ではわからないのだ。だから本当にまだ何とも言えない。だが、昨年の轍は踏まず、これからどんなことがあっても、「花をみて笑える心」を忘れないようにしたいものである。

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大津にて (3) [歴史]

 
 土曜日の夕方に京都に集まり、大学時代のゼミの同期生たちと楽しく過ごした、その翌日の日曜日。私は京都から在来線に乗って滋賀県の大津を初めて訪れ、ちょっとした一人旅を楽しんでいる。

 広い境内を持つ古刹・園城寺(三井寺)では、桜の開花を待つばかりの山の静寂さをかみしめ、更に北方向へ1キロほど歩いた弘文天皇陵新羅善神堂では、日本古代史が激動期を迎えていた壬申の乱(672年)の前後のこの国の姿に思いを馳せていた。

 新羅善神堂から緩い坂道を降りると、県道の反対側に京阪電鉄石山坂本(いしやまさかもと)線大津市役所前とい小さな駅がある。前々日の3月16日までは「別所」という名前の駅だった。「別所」というと、別の場所という一般的な意味の他に、

①(仏教関係用語で)本寺の周辺にあり、修行者が草庵などを建てて集まっている地域。平安後期から鎌倉時代にかけ浄土信仰の興隆とともに盛んになった。
②新たに開墾した土地。(以上、『三省堂スーパー大辞林』より)

という意味があるようだが、平安時代の初期に比叡山延暦寺と袂を分かつ形で智証大師円珍の門流が三井寺にやって来た、その歴史と何か関係があるのだろうか。(もっとも、昭和2年にこの鉄道路線が開業した時の駅名は「兵営前」だったようだが。)
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 その大津市役所前駅の短いホームで待つことしばし、比叡山の山並みを背後に、石山寺行きの二両連結の電車がトコトコとやって来た。そして、左右にカーブを切りながら琵琶湖疎水を渡ると三井寺駅、そこから道路の中央を走る路面電車区間になって、程なくびわ湖浜大津駅に到着する。(ここも前々日までは名前が「浜大津」だった。)ここでは京都方面に向かう京阪電鉄京津線との乗換駅で、石山寺行き電車の到着に合わせて、電留線から京津線・太秦天神川行きの四両連結の電車が反対側ホームに入線して来る。今日はこの路線に乗ることを楽しみにしていた。
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(左が石山坂本線、右が京津線の電車)

 明治13年に官設鉄道の大津・京都間が開業した時、そのルートは東海道沿いに急勾配で逢坂山の斜面を登り、山科盆地を南西に横切り、更に稲荷山の南を回り込んで京都に向かう大回りのルートだったこと、そして、長大トンネルを掘れるようになった大正10年に現在の大津・京都間のルートが開業したことは、前々回にこのブログで述べた通りである。しかし、その官設鉄道の新ルート開業を待たずに、大津と京都を手っ取り早く結ぼうという鉄道業者が現れた。官鉄の京都駅は京都の伝統的な繁華街からは随分と南に外れており、官鉄はルートが大回りなだけでなく、京都駅自体が不便な場所だったのだ。

 それが明治39年設立の京津電気軌道で、大正元年に浜大津と京都の三条大橋を結ぶ10kmの路線を開業した。たったの10km?と思ってしまうが、両者の間は遠回りをしなければそれぐらいの距離なのである。
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 この京津電気軌道を前身とする現在の京阪電鉄京津線(「きょうつせん」ではなくて「けいしんせん」が正しい読み方だそうだ)。見ての通りの四両連結の電車なのだが、これが大津市内の路面電車の区間、逢坂山を越える山登り区間、そして京都市営地下鉄に乗り入れる地下鉄区間という三つの顔を持つ、極めてユニークな鉄道なのである。

 びわ湖浜大津駅を出発した電車は、直ぐに大通りの交差点を半径43mの急カーブで左に曲がり、琵琶湖を背に、路面電車として大通りを登って行く。日本の軌道法では列車長が最大30mと定められているが、この路線では特例でこの長さを超える四両連結の電車が走ることが認められているそうだ。そして700m弱の路面電車区間が終わると、今度はこの路線で最も急な半径40mの右カーブで専用軌道に入り、上栄町駅に停車。いよいよ山岳路線が始まる。
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(路面電車区間を走る京阪京津線の電車)

 上栄町駅を出ると、そこからは急カーブで速度制限が20km/hの箇所が連続する。そして、車内にいると気がつかないのだが、人家に近い急カーブの箇所では、車輪と線路が軋む音を緩和するために水煙を上げるスプリンクラーを作動させているそうだ。

 程なくJR東海道本線の線路をオーバーパスして右カーブ。そして今度は左カーブで国道161号を横断すると、逢坂山トンネルまでの間は国道1号の下り(京都方面行き)側に沿ってゆっくりと勾配を登り続ける。最大で61‰の急勾配は箱根登山鉄道の80‰に次ぐ国内第二位、アプト式の大井川鉄道井川線の90‰を加えても第三位というから大変な難所なのである。
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(京阪京津線の山越え部分)

 そして、この区間のハイライトがいよいよやって来る。名神高速道路の下を潜って間もなく、半径45mの右急カーブで逢坂山トンネルへと入って行く箇所だ。長さ約250mのトンネルの中も上り勾配が続いていて、それを抜け出た先がピークになる。今度は線路が国道1号の上り(大津方面行)側に並行するようになり、勾配を下り始めて直ぐに大谷駅に到着する。この駅自体が40‰の急勾配の途中にあるために、私は気がつかなかったのだがホームのベンチは勾配に合わせて左右の脚の長さが異なるという。
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 大谷駅の北側には「百人一首」で有名な蝉丸(せみまる)を祀った蝉丸神社。蝉丸は生没年が共に不明で、皇族の血統を持っていたという噂があること、盲目ながら琵琶の大変な名人だったこと、そしてこの逢坂に住んでいたことぐらいしかわかっていないようだ。

 「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも逢坂の関」

 平安時代の昔から、この逢坂越えが東西交通の要所であったことをこの歌は示しているのだが、東京に生まれ、その後も基本的には東京で育った私には、「箱根の山は天下の険」なら肌感覚はあっても、「逢坂山」には今までどうも具体的なイメージが湧かなかった。それだけに、鉄道が大津と京都を結ぶ時代になってからも「逢坂の関」が引続き難関であったことを、今回乗ってみた京津線の電車が文字通り身をもって教えてくれたように思う。

 さて、大谷駅を出た電車は、今までの山越えの区間とは異なり、わりと直線部分が続くルートで山科盆地へと下りて行く。四宮駅からは殆ど平坦になり、JR山科駅の直ぐ南にある京阪山科駅に停車。この場所を初めて「山科」と名乗ったのは大正元年8月に開業したこの京津線の駅なのだが、後の大正10年8月に官鉄東海道本線のルート変更で山科駅がここに設置されると、京津線の方は「山科駅前」駅に変更となった。官と民との関係は常にそういうものであるようだ。

 京阪山科駅を出ると直ぐにS字カーブでJRの線路を潜り、電車は平成9年から始まった京都市営地下鉄東西線への乗り入れのために地下へと潜って行く。そして最初の停車駅が御陵(みささぎ)である。(以前のルートは京都の三条までずっと地上を走っていた。)ホームが地下2階と3階に分かれた駅で、地上に出ると幅の狭い県道が走っている。

 この駅で降りた理由は、その駅名にあった。「御陵」とは付近にある天智天皇山科陵のことだ。今朝、大津の三井寺や弘文天皇御陵、新羅善神堂を訪れ、私があれこれと想像を巡らせていた、あの天智天皇の陵墓とされている場所である。

 前回の記事で少し触れたが、663年に白村江で唐・新羅連合軍に惨敗を喫した中大兄皇子は、4年後の667年に近江大津京に遷都し、翌年に即位。後に「天智」の諡号を贈られる天皇となるのだが、その即位から4年足らずの672年の年初(旧暦では671年の年末)に崩御。その事情について「宮中での病死」を示唆する日本書紀の記述に対して、「遠乗りに出たまま行方不明となり、仕方がないので沓が落ちていた場所を陵墓とした」との噂を記載した文献が存在。しかも現に宮内庁が今も管轄している「天智天皇陵」が近江大津の地から山々を隔てた山科の地に存在するのだ。それならば、大津から京都へ戻る道すがら、是非立ち寄ってみようではないか。
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 電車を降りた御陵駅から県道を大津方向へ500mほど戻ると、道の左側にその陵墓の入口がある。そこからは森の中に石畳の道が真っ直ぐ続き、それを更に500mほど進むと、歴代天皇特有の形をした陵墓が現れる。背後は深い森で、訪れる人など誰もいない。まさに静寂だけが支配する空間だ。その静寂に包まれながら、私は改めて考えてみた。
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 近江大津京と天智天皇山科陵の間には、比叡山から南へと続く幾多の山々によって隔てられている。その当時、この山々に入り込んで大津京から山科へと抜けて行く山道があったとしても、「馬で遠乗りに出る」ルートとは考えにくい。天智天皇が本当に馬で遠乗りに出かけたのならば、それはやはり逢坂の関を越えて行く通常のルートだったのではないか。だとすれば、平安京はおろか平城京もまだ開かれていない時期に、山科には何の用事があって立ち寄ったのだろう。
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(再掲)

 この出来事が「遠乗りに出かけて行方不明になった」のではなく、「遠乗りの途中で暗殺された」という説を取るのなら、「沓が落ちていた」という場所は本当に暗殺現場の近辺だったのか。そうでないなら何処だったのか。そして、天智のものと伝えられる陵墓がなぜ山科の地にあるのだろうか。

 いずれにせよ、山科の陵墓からは近江大津京も琵琶湖も眺めることは出来ない。にもかかわらずこの地に天智天皇の陵墓が造られたのであれば、何等かの事情があって、「霊魂を鎮めるために事故(もしくは事件)現場付近に取り急ぎ陵墓を造る」ことが優先されたということではないだろうか。そして、天智の「崩御」から幾らも経たないうちに壬申の乱が始まったことから考えると、天智が「遠乗りに出かけたまま帰還しなかった」事故または事件の背景に、天智への対抗勢力としての大海人皇子(後の天武天皇)の存在が多分にあったのではないか・・・。

 恐らくは本人にとって不本意な形で葬られたのであろう天智天皇。だが、時代が明治に入り、都としてのステータスを失って衰退を始めた京都に対する「復興プロジェクト」として琵琶湖疎水の建設が始まり、三井寺の直ぐ南を取水口として山を貫くトンネルに入ったその水路は、山科盆地で再び地上に姿を現し、この天智天皇山科陵のすぐ北側を回り込むようにして京都へと流れている。天智天皇の崩御から1200年余り。琵琶湖疎水の開通が琵琶湖と天智天皇とを再び繋ぐことになったのだから、歴史というのは何とも不思議なものである。
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 京都から立ち寄った大津への半日の旅。それは私にとって久しぶりの、足で歩く歴史旅であり、なおかつ大好きな乗り鉄の旅でもあった。京阪京津線は車両の更新時期が迫る中、赤字路線であるためにその将来が取り沙汰されているようだが、是非存続して欲しいものである。そしてそのためにも、遠からずまた乗りに出かけることにしよう。

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大津にて (2) [歴史]


 琵琶湖を東に見下ろす山の斜面に広い境内を持つ、天台寺門宗総本山の長等山園城寺(通称、三井寺)。この古刹を初めて訪れた私は、桜の開花を待つばかりの境内の様子を楽しみながら、遥かな古代史に思いを巡らせている。

 園城寺のHPでこの寺の歴史を調べてみると、次のような記載がある。

 「667年に天智天皇により飛鳥から近江に都が移され、近江大津京が開かれました。672年、前年の天智天皇の永眠後、大友皇子(天智天皇の子:弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟:天武天皇)が皇位継承をめぐって争い、壬申の乱が勃発。乱に敗れた大友皇子の皇子の大友与多王は父の霊を弔うために『田園城邑(じょうゆう)』を寄進して寺を創建し、天武天皇から『園城』という勅額を賜ったことが園城寺の始まりとされています。勝利を収めた大海人皇子は再び飛鳥に遷都し、近江大津京はわずか五年で廃都となりました。」

 サラッと書かれているが、実は日本古代史の中で特筆すべき激動の時代に関する事柄である。

「万世一系」とは言うものの、遥かな古代には色々あったと思われる皇統の系譜。応神天皇(第15代)、継体天皇(第26代)、欽明天皇(第29代)らの登場の経緯については昔から数多くの議論があるところだが、その欽明天皇以降の皇統の中では、やはり天智天皇(中大兄皇子)が存在した時期が大きな激動期である。
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 彼は626年に舒明天皇の第二皇子として誕生。乙巳の変(645年)と呼ばれる宮中クーデターで蘇我宗家を滅ぼし、異母兄の古人大兄皇子を謀反の疑いで葬ったのは弱冠19歳の時だ。以後、叔父の孝徳天皇の下で皇太子として難波に遷都し、一連の改革(いわゆる大化改新)に着手するのだが、その8年後に何故か飛鳥板葺宮に群臣を連れて戻り、これに同行しなかった孝徳が翌年に一人寂しく崩御したため、妻の前・皇極天皇が斉明天皇として重祚。息子の中大兄皇子は引続き皇太子として政権を支えていたところ、その5年後の660年に、唐・新羅連合軍の侵攻による百済滅亡という大事件が起こる。

 事件の報に接した斉明天皇・中大兄皇子は、百済の再興を図るべく援軍を西方に送るのだが、自ら九州に赴いた斉明女帝は筑紫・朝倉の地で崩御。中大兄皇子は皇太子のまま称制を執り、朝鮮半島に出兵するのだが、663年に白村江で唐・新羅連合軍に大敗を喫してしまう。

 衝撃を受けた皇子は、やがて起こり得る唐・新羅の日本侵攻に備えて北九州の各地に防塁を築くと共に、都を近江大津京へと遷した(667年)。その都の位置は、この園城寺から琵琶湖の左岸を2km足らず北上したあたりだ。確かに比叡山から南に続く山並みが都の西側に連なり、西からは攻略を受けにくい地形ではある。そして、この地に遷都した翌年(668年)に中大兄皇子はようやく即位に至る。これが天智天皇だ。そして「弟」の大海人皇子が皇太弟となった。

 母親であった斉明女帝の崩御から約6年半、中大兄皇子はなぜ即位をせずに称制を続けたのだろう。そして、西からの敵を防ぐのに適した地であるとはいえ、彼が遷都先として近江大津の地を選んだのはなぜだったのか。

 日本書紀によれば、天智天皇(中大兄皇子)と天武天皇(大海人皇子)は、同じ舒明天皇を父、皇極(斉明)天皇を母とする兄弟とされている。天智が兄で天武が弟だというのだが、実に奇妙なことに天武の生年に関する記載が日本書紀には全くないため、今でも生年不詳なのだそうだ。そして、古代においては近親結婚が特に珍しくもなかったとはいえ、(記紀の記述が正しければ)兄の天智は自分の娘を4人も天武の妻に送り出しているというのも異常なことである。

 だが、考えてみれば日本書紀は天武の息子の舎人親王が編集責任者となり、天武の孫の元正女帝の治世(720年)に完成した官製の「国史」である。そして、全体の中では天武の業績に関することが大きなボリュームを占めており、その編纂には官製プロパガンダという意図があったことは否定できないだろう。だとすれば書かれていることの全てが真実とは限らない、いや、むしろ多分にフィクションが含まれているのではないか、という考え方に私は賛成したくなってしまう。

 そう考えると、天武天皇礼賛の史書の中に本人の生年に関する記載がないのは何とも奇妙なことであり、天武の出自を「天智の弟」とする上で何かしら都合の悪い部分があったのではないか、と疑いたくもなるものだ。それに加えてもう一つの大きな謎は、天智天皇の崩御に関する経緯である。
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 日本書紀によれば、天智天皇は病を得て死の床につく。(そうであれば、その場所は近江大津京の宮中だったと考えるのが自然だろう。) そして「弟」の大海人皇子を枕元に呼び寄せて後事を託すのだが、暗殺を警戒した大海人皇子は「皇后が即位して大友皇子(=天智の第一皇子)が執政を行えばよい」として辞退し、直ぐに頭を丸めて吉野に下ったという。それぐらい、大友皇子と大海人皇子との関係は緊迫したものだったのだろう。そして、672年に天智が崩御すると、大友皇子は朝廷で後継に立つのだが、実際に即位したかどうかは定かでないという。「弘文天皇」という諡号が贈られたのは実に明治3年のことである。

 ところが、それから400年も後の1094年になって、比叡山の僧・皇円の編纂によるものとされる「扶桑略記」の中に、
 「天智天皇は山科の里へ遠乗りに出かけたが、そのまま帰って来なかった。山中深く探しても行方がわからず、仕方がないので沓が落ちていた場所を陵墓とした。そこは山城国宇治郡山科郷(現・京都市山科区)の北山である。」
との記載があることから、天智の崩御は宮中での病死ではなく、近江大津から離れた山科の地での暗殺だったのではないかとの見方も少なくない。「扶桑略記は後世の書なのだから、そっちの方がフィクションなのでは?」との反論も成り立つが、それにしては不思議なのが、現に山科には宮内庁管轄の「天智天皇山科陵」が存在し、考古学的にも文献資料的にもほぼ確実な天皇陵とされていることだ。

 既に触れたように、天智の第一皇子の名前は大友皇子だ。園城寺の寺域を含む大津の一帯は、継体天皇と共に越の国から移住して来たとされる漢系渡来人の氏族・大友村主(すぐり)家の本拠地であり、その「大友」の名を冠した皇子は、大友村主家の支持を受けていたのではないかという。だとすれば、大友皇子の父親であり、明らかに百済救済に利害が絡んでいた天智天皇自身も大津に何らかの地縁があり、だからこそ都を遷す場所に選んだのではないか。

 そう考えると、もし天智天皇が宮中で病死したのなら、その陵墓は近江大津京の近くに置かれるのが普通ではないか。それがなぜ、大津京も琵琶湖も見えない山科の地にあるのか。そうなると、天智天皇の崩御に関しては、日本書紀よりもむしろ扶桑略記の記述の方に説得力があるように思えてくる。この山科の天智天皇の陵墓には、今日この後に足を運んでみようと思っている。

 園城寺の前の道路を北へ1kmほど行くと、大津市役所のすぐ先に「弘文天皇御陵参拝道」という石碑が立っている。天智天皇の崩御の後、時を経ずして大友皇子と大海人皇子の間で武力衝突が始まった。日本古代史上で最大の内乱とされる壬申の乱である。そして、この戦いに敗れた大友皇子は大津の地で自害に及んだ。
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 先に触れたように明治になってから大友皇子には弘文天皇という諡号が贈られたため、市役所の裏手にある彼の陵墓は「弘文天皇陵」なのだが、付近には「皇子山」という地名が今でも残っている。やはり大友皇子は即位していなかったのか。それとも、在位中の天皇を討ったとなれば逆賊になってしまうので、大友皇子はまだ即位していなかったように見せかけるために、天武が敢えて「皇子山」と呼ばせたのか。ともかくもその参道(といってもただの路地)を上がってみると、ひっそりとした「弘文天皇陵」が春の陽を受けていた。
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 そして、その弘文天皇陵の直ぐ近くに、新羅善神堂という、園城寺が管理しているお堂がある。南北朝時代に建てられたそのお堂と、その中に安置された平安時代(11世紀)の作になる新羅善神坐像(秘仏)は何れも国宝なのだが、とてもそうは思えないほど目立たない、言葉を選ばずに言えば捨て置かれたような場所にある。そこへ行く道も舗装すらされておらず、観光客など誰もいない。非公開なので門の外から眺めるだけなのだが、新羅善神という神様がここに祀られているというのが、これまた大きな謎である。
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 冒頭に引用した園城寺のHP上の文章を再掲する。

 「672年、前年の天智天皇の永眠後、大友皇子(天智天皇の子:弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟:天武天皇)が皇位継承をめぐって争い、壬申の乱が勃発。乱に敗れた大友皇子の皇子の大友与多王は父の霊を弔うために『田園城邑(じょうゆう)』を寄進して寺を創建し、天武天皇から『園城』という勅額を賜ったことが園城寺の始まりとされています。」

 先に触れたように、天智天皇と天武天皇が(日本書紀の記述のように)本当に兄弟だったのかどうかは、かなり怪しいと言うべきだろう。その天武が壬申の乱に勝利して、大友皇子(もしくは弘文天皇)は滅び、大友の子(与多王)が父の霊を弔うべく、言わば自分たちの氏寺を建てたいと申し出て(686年)、天武がそれを許可した。敗者の霊をも丁重に弔う日本の伝統はこの時代にもあったというべきなのかもしれないが、考えてみれば、大友の父(天智天皇)は、唐・新羅連合軍によって滅ぼされた百済の再興を目指して朝鮮半島へ出兵までした人物である。その霊を弔う寺に、なぜわざわざ新羅の神様を祀ったのか。それは、園城寺の中興の祖・円珍が唐に留学した帰りの船で嵐に遭い、そこに新羅善神が現れて一行は救われたので、以来この寺の守り神になったと伝えられるのだが、それも後から加えられたフィクションの可能性だってなくはない。

 この新羅善神の存在を天智親子の「怨霊封じ」という風に読み解くかどうかはともかくとして、壬申の乱の勝者と敗者の間の微妙な関係が、その後の園城寺の歴史の中にも投影されて来たと考えるべきなのだろう。

 なお、天智と天武の関係は、その後の天皇家の系図にも少なからず影響を与えている。前掲した天智・天武以降の皇統系譜を天智の血統か、或いは天武の血統(天智系との混血を含む)なのかで色分けしてみると、次のようになる。
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 天武の系統はなぜか男子が早逝することが多く、次世代が育つまで女帝が中継ぎを務めることが度々あった。奈良時代に女帝が多いのはそのためだが、更には大仏建立の頃の聖武天皇は男子に恵まれず、娘の孝謙(道鏡事件の際に重祚して称徳)天皇を以て、その血統が途絶えてしまう。

 称徳の後を受けて即位したのは天智の孫にあたり、なおかつ天武の血が入っていない光仁天皇で(その時点でかなりの老人だった)、その光仁と百済系帰化人・高野新笠との間に生まれた桓武天皇の即位を以て、皇位は名実共に天智の血統に戻ったことになる。(しかも再び百済と繋がっているところが興味深い。) そして、その桓武以降、日本の天皇家は1000年以上にわたって京都に定着することになる。

 更に言えば、歴代天皇を仏式に祀り、それゆえに御寺(みてら)と呼ばれる京都の泉涌寺では、天武から称徳までの天武系の8代7名の天皇だけ位牌がないという。途中で途絶えた天武の系統だけが何か異質なものとして扱われているかのようだ。それもまた、天武の出自の謎に繋がっているのだろうか。

 なお、ここまで「園城寺」と記載してきたが、この寺は三井寺(みいでら)という別名の方がずっとよく知られている。それは、この寺の金堂の近くに、「天智・天武・持統の三帝が産湯に用いた」という「三井の霊泉」があることに拠るものなのだが、これもまた、そういう「伝説」を敢えて用意する必要があるぐらい天武の出自には謎があることを、実は暗示しているのかもしれない。
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(色の濃い部分は各天皇の在位期間)

 それにしても、大津駅を起点に、ここまでよく歩いて来た。ここからは暫くの間、電車の座席に座って一休みすることにしよう。

(to be continued)

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大津にて (1) [歴史]


 3月18日(日)午前8時過ぎ、私はJR京都駅2番線ホームに停車していた東海道本線の上り列車に飛び乗った。8時7分発の快速米原行き。スマホで時刻表を調べてみたら、兵庫県と岡山県の県境に近い上郡駅を今朝の5時10分に出て、山陽本線と東海道本線をもう3時間近くも走り続けて来た列車だ。

 程なく発車時刻を迎え、列車はゆっくりと京都駅を離れていく。その時、私の中にはまだ昨夜の余韻が少なからず残っていた。大学時代のゼミの同期生たちと8人で京都に集まり、楽しく過ごしていたのである。

 私たちの母校は東京にあるのだが、ゼミの同期生のK君が今では京都で会社の社長を務めている。彼自身、西陣で生まれ育った生粋の京都人なのだ。私たちが大学を出たのはもう37年も前のことだが、ゼミの同期生たちとは今でも年に2回ぐらいは集まっている。京都で仕事をしているK君には、そのたびに用事を作って東京へ出て来てもらっていた。そうであれば、たまには我々が京都へ足を運んでみよう。そんな話が出たのが昨年の秋。それから話はどんどん具体化していって昨夜の集まりになった。
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 もっとも、実際に京都に集まるとなれば、場所のセッティングや宿の手配などは現地にいるK君に全てをお願いせざるを得ない。結果的に彼には大きな手間をかけることになってしまったのだが、もうあと一週間もすれば桜も開花という季節に、西陣の老舗料亭での一次会、そして祇園のバーでの二次会を私たちは大いに楽しむことが出来た。京都の夜に、女性が隣に座る訳でもなく、カラオケもなく、男8人がひたすら語り合うというのはいささか硬派な過ごし方なのかもしれないが、これもまた私たちのグループの持ち味なのだろう。

 大学を出た頃には、それから37年後に同じメンバーでこんな機会を持つことになるなんて想像も出来なかった。それから皆が社会に出て、メンバーの大半が海外赴任を経験し、それぞれの人生を精一杯生きて来た。そして全員が還暦を過ぎた今、こうして昔と同じように様々なことを語り合える。長い年月を経た今もなお、お互いにそんな間柄でいられるというのは何と幸せなことだろう。
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 そんな余韻をまだ半ば引きずったままの私を乗せた米原行き快速電車は、間もなく闇の中へと吸い込まれた。京都の清水寺の1kmほど南で東西に山を貫く、長さ1865mの東山トンネルである。それを抜けると窓の外には山科盆地の眺めが広がり、程なく山科駅に到着。再び出発して左カーブを切り、湖西線と別れると直ぐにまた次のトンネルに入る。これが長さ2325mの新逢坂山トンネルだ。それを抜けると軽い右カーブになり、列車は直ぐに大津駅ホームに滑り込むことになる。

 ホームに降り立つと、その京都寄りの先端部からは先ほどの新逢坂山トンネルの大津側出口が直ぐ近くに見え、その上に逢坂山の東面が立ちはだかっている。その時に一つのシンプルな疑問が湧き起った。

 自分が知る限り、新橋・横浜間の鉄道開通は明治5年、京都・神戸間は明治10年だ。そして東海道本線の全通は明治22年だから、大津・京都間もそれ以前に開通していた筈である。しかし、そんなに早い時期に長さが2km前後にもなる鉄道トンネルの建設が出来たのだろうか?
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(大津駅ホームから眺める逢坂山とトンネル)

 これは後で調べてみて知ったことなのだが、大津・京都間の開業は明治13年だった。当然、そんな時期に長大トンネルを掘る技術はない。だから京都・大津間の鉄道は今とは別ルートだったのである。

 急勾配が苦手という宿命を背負ってきた鉄道。全国いたる所に山あり谷あり急流ありの日本でその鉄道を建設するためには、様々な工夫を凝らしつつ現実の地形と折り合って行かねばならない。「逢坂越え」もその典型で、大津側からの当初のルートは今よりも南側、旧東海道に沿って25‰の急勾配を登り、長さ665mのトンネルで逢坂山を越え(旧逢坂山隧道)、その後は山科盆地を南西に横切った上で、伏見稲荷大社のある稲荷山の南を回り込み、現在のJR奈良線・稲荷駅から京都を目指すというものだったのだ。大津・京都間を結ぶものとしてはいかにも大回りだが、難関の逢坂越えに加えて、地盤が軟弱とされた東山を避けるという意図もあったようである。
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 なお、このルートを建設する過程で、665mの逢坂山トンネルは、外国人技師の力に頼らずに日本人だけで完成させた日本初の山岳トンネルとなったという。明治13年といえば西南戦争の後だ。深刻な財政難に陥っていたはずの明治新政府も、よく頑張ったものだと思う。そして、新逢坂トンネルと東山トンネルを伴う現在のルートに変更となったのは大正10年。勾配も緩和されてスピードアップに大きく貢献したことだろう。現代の私たちは、この新ルートよりも南側を走る東海道新幹線で通過してしまうことが多いから、かつての逢坂越えの苦労を想像する暇もなく京都に着いてしまう。やはりたまには在来線で旅をしてみるものである。

 さて、大津駅で降りた私は駅前ロータリーに出た。考えてみれば、私が物心ついてから滋賀県に足を踏み入れるのはこれが初めてのことである。観光案内の地図を見ていたら、駅から歩いて直ぐのところに露国皇太子遭難の碑があるという。おお、明治24年のあの大津事件の現場なのか。それは是非とも見てみよう。

 駅前から琵琶湖に向かって大通りを下って行くと、大きな交差点の先の路地に、あまり目立たない石碑が一つ。「比附近露国皇太子遭難之地」とある。その前の道は旧東海道だそうだ。
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 日露戦争の時にはロシア皇帝だったニコライ二世が、まだ皇太子の時代に日本を訪れたことがあった。シベリア鉄道の東側起工式に出席するために軍艦ではるばるやって来た皇太子は、その途中に九州経由で神戸に寄港。京都を訪れ、そこからの日帰り観光で琵琶湖にも足を延ばしていた。その途上で、沿道の警備をしていた津田三蔵巡査が突然サーベルを抜いて皇太子に襲いかかり、頭部を負傷させるという事件が起きたのだ。津田は日頃から日本に対するロシアの行動に不快感を募らせており、ニコライの訪日も敵情視察が目的だという思いがあったそうだが、外国の皇族に対してテロ行為を起こしたこの津田への刑事罰は、死刑なのか無期懲役であるべきか、政界と司法界を巻き込む大論争となったのがこの大津事件である。

 東海道沿いの現場付近は、当時は人通りで賑わっていたのだろうが、日曜日の朝ともあって今はひっそりとしている。

 その旧東海道をそのまま西に進み、だいぶ行ったところで右に折れて琵琶湖に近づくように歩いていくと、やがて琵琶湖疎水の取水口が現れる。琵琶湖の水を京都まで引いて京都市民の水道用水とする他、水運や水力発電によって新たな産業を興すために建設された水路。それは、明治になって首都機能が東京に移り、衰退を続けていた京都の復興プロジェクトでもあった。
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(琵琶湖疎水の取水口。前方が琵琶湖の方向)

 琵琶湖側の取水口から水路を作り、長いトンネルで山を貫いて、明治23年に第一疎水が完成。更には京都の蹴上(けあげ)で大きな落差を利用して水力発電を行い、その電力を利用して舟を京都側から琵琶湖側に持ち上げるために長さ640mのインクライン(傾斜鉄道)を建設。それらの運転開始は翌明治24年というから、まさにニコライが大津を訪れた年のことである。(もう一つ言えば、この蹴上で発電した電力を利用して、明治28年に京都電気鉄道が京都・伏見間で営業を開始。日本で初めて電車を走らせたのである。)これに続いて第二疎水の建設も行われ、それが完成したのは明治45年のことであった。
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(京都市上下水道局のHPより拝借)

 先人たちは偉かった! 取水口から山へと向かっていく琵琶湖疎水を眺めながら、そう思う他はない。
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 疎水を渡って更に歩いて行くと、道はやがて大きな参道と交差する。そこを左に向かえば有名な園城寺(三井寺)の入口が待っている。

 長等山園城寺。言うまでもなく天台寺門宗の総本山である。平安時代の初期、第五代天台座主・智証大師円珍(814~891、空海の甥にあたるそうだ)によって天台別院として中興された。

 開祖・伝教大師最澄(766~822)亡き後、日本天台宗では第三代天台座主・慈覚大師円仁(794~864)と円珍の二人が抜きんでた存在となるのだが、その二人の間での仏教解釈の違いから後の世代の中で争いが起こり、比叡山延暦寺は円仁門流が多数派を占めたため、円珍派は山を下りることになる。その時に彼らが拠ったのがこの園城寺だった。
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(園城寺の入口に立つ仁王門)

 以来、山門派(延暦寺)と寺門宗(園城寺)は対立を続けることになる。四宗(円・密・禅・戒)兼学を旨とする山門派に対して寺門宗は四宗+修験の五法門を唱えるというが、両者の対立の原因がそれだけのことなのかどうか、私にはわからない。

 仁王門の横から境内に入り、石段を登ると国宝の金堂が正面に聳えている。延暦寺との対立の中で園城寺は焼き討ちに遭うことも数多く、この金堂も16世紀末に秀吉の遺志を継いで再建されたものだそうだ。
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 山の東斜面全体が寺域であるような園城寺。広々とした境内を歩き回るには相応の時間が必要だ。重要文化財の三重塔、同じく重文の釈迦堂、毘沙門堂などを見て歩くと、それぞれに山の自然と一体化したような落ち着いた佇まいが立派である。明治の初めに来日し、この国の自然と伝統美術をこよなく愛して岡倉天心(1863~1913)を支援した米国人アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(1853~1908)やウィリアム・スタージス・ビゲロー(1850~1926)が眠る墓も、この境内にあるそうだ。
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 それにしても、昨日の土曜日の京都の大混雑とは対照的に、園城寺の境内は何と静かなことか。
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 琵琶湖を望む観音堂からは、甍の向こうに比叡山の山並みが見えている。山門派・寺門宗の争いといっても、この距離の中でのことだったのだ。箱庭の中での争いごとのようで、何だか微笑ましくもなってしまう。辺りの桜の木では蕾が大きくなっていて、あと一週間もすればこの山でも開花が始まりそうだが、その時に訪れたならば、どんなに素晴らしい眺めが待っていることだろう。
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 さて、この園城寺は平安時代初期の智証大師・円珍が中興の祖であることについて先に触れたが、それ以降の寺門宗としての歴史もさることながら、私にとってより興味が湧くのは円珍の時代以前の、この寺の創建に係わることである。

(to be continued)

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四旬節 [音楽]


 「来月、マタイ受難曲の演奏会があり、私は合唱のバスのパートに出る予定です。
 福音史家の部分を神父さんが日本語で『聖書朗読』し、アリアや合唱の部分を歌う形式でやります。何分、若手、セミプロ、素人の集まりですのでハイレベルの演奏という訳には行かないと思いますが、もしお時間とご興味がありましたらご一報ください。」

 高校時代の山岳部の先輩・Eさんからそんなメールをいただいたのは、今年1月の中頃だった。二月の三連休の月曜午後、しかも場所は目黒のカトリック教会の中だという。そんなシチュエーションでJ. S. バッハ「マタイ受難曲」(BWV244)を聴かせていただく機会など、滅多にあるものではない。私は二つ返事で行かせていただくことにして、Eさんに直ぐにメールを返した。

 学校の年次も会社の会計年度も4月から始まる日本では、年が明けるとその年度の最後の四半期になるので、何かと忙しい。「一月は行く。二月は逃げる。三月は去る。」などと昔から言われて来たが、私自身にとっても今年はまさにそのような展開になり、気がつけば二月も既に半ば。Eさんからお誘いを受けた「マタイ受難曲」の演奏会の日が遂にやって来た。
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 当日の午後、家内と二人で目黒駅から西方向の行人坂へ向かい、途中で左に折れて緩い坂道を下って行くと、程なく左側に教会の入口がある。受付開始の13:30に合わせて来たのだが、私たちと同様に教会に向かう人々は多く、着いてみると座席はもう殆ど埋まりかけている。(教会の中だから席の指定などないのだ。)私たちも慌てて後ろの方に何とか席を確保したのだが、ギリギリ間に合ったという感じだった。

 やがて、オーケストラが登場して各自の位置に座り、続いてEさんを含む合唱団が登壇。それでも床がフラットな教会の中だから、演奏者たちは私たちの目の高さだ。そのあたり、コンサートホールでの演奏会とは異なる身近さや手触り感があって、なかなかいいものだ。
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 教会の中は、前方の祭壇に向かって信者が座る木製で横長の座席が、左右二列になって後ろに続いている。定刻の14:00になると、教会の後方からその左右のベンチの間の通路を通って指揮者が登場。大きな拍手に包まれた後、聖堂の中に柔らかく差し込む午後の光の中で、バッハの「マタイ受難曲」が粛々と始まった。これからイエスの受難という悲劇が始まる、その導入部としての厳粛にして荘厳なオーケストラの響きと、それに続く分厚い合唱。それにソプラノのコラールが絡み合っていく。

 ドイツ語の歌詞だから聴いているだけでは意味が解らないが、和訳は以下の通りだ。

合唱
来たれ娘たちよ、ともに嘆け。見よ - 誰を? - 花婿を、
彼を見よ-どのような? - 子羊のような!見よ - 何を? - 彼の忍耐を、
見よ - どこを? - 私たちの罪を 
愛と慈しみゆえにみずから木の十字架を背負われるあのお姿を見よ!

コラール
おお、罪なき神の子羊よ 犠牲として、十字架に架けられた御方よ、
たとえ侮辱されようとも、いつでも耐え忍ばれた。
すべての罪をあなたはお負いになった。さもなければ私たちの望みは絶えていただろう。
私たちを憐れんでください、おおイエスよ!

 この後、「マタイによる福音書」の第26・27章に従って受難曲は進行していくのだが、バッハの原曲では、エヴァンゲリスト(福音史家)が語る部分はテノール、イエスをはじめとする登場人物のセリフはバリトン或いはバスによる独唱、集団の声は合唱によって表現される。それに対して今日の演奏会では、福音史家の部分について教会の司祭が福音書を日本語で朗読する趣向になっている。これは私たちにとっては大変ありがたいことで、これだけでもストーリーの進行がよく理解出来るのである。

イエスはこれらの言葉をすべて語り終えてから、弟子たちに言われた。
「あなたがたが知っている通り、ふつかの後には過越の祭になるが、
人の子は十字架につけられるために引き渡される。」

 これに続いて、
●祭司長たちや民の長老たちが、策略をもってイエスを殺そうと相談する話、
●イエスがべタニヤで、らい病人シモンの家にいた時に、ある女が高価な香油をイエスの頭に注ぎかける話、
●十二弟子のひとり「イスカリオテのユダ」が、司祭長のところで、イエスを引き渡すことと引き換えに銀貨三十枚を受け取る話、
●夕方になって、いわゆる「最後の晩餐」の時に、イエスが「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている。」と予告する話
などの有名なストーリーが展開。そして、一同が讃美歌を歌ってオリーブ山に出かけ、イエスが
「今夜、あなたがたは皆わたしに躓くであろう。『わたしは羊飼いを打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう。』と書いてあるからである。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガラリアへ行くであろう。」
と述べた後に、美しくとても印象的なコラールが歌われる。

私を認めてください、私の守り手よ!私の羊飼いよ、私を受け入れてください!
すべての宝の泉であるあなたから、私のために多くのよいことが行われました。
あなたの口はミルクと甘い食べ物で 私を元気づけてくださいました。
あなたの聖霊は多くの天国の喜びを もたらしてくださいました。

 これが有名な「受難のコラール」で、この後も幾つかの場面で歌詞を替えて歌われる。この「マタイ受難曲」全体の主題曲とでも言うべきものだ。 
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 同じ一神教ながら、正典といえばただ一つ「コーラン」だけがあるイスラム教とは異なり、キリスト教の「新約聖書」は全部で6種類・計27の文書によって構成されるという。その中で最初のジャンルとして括られるのが、イエスの生涯とその死、そして復活を記録した4種類の「福音書」である。マルコ、マタイ、ルカ、そしてヨハネの順に成立したそうだ。

 「なぜ開祖の伝記が四種もあるのかというと、キリスト教会が最初から統一のとれた組織ではなかったからである。違う派がそれぞれに福音書を制作した。正典に入っている四種の他にも『福音書』と銘打たれた書は続々と出現した。ただし制作年代は少し下り、内容はなかり神話めいたものになっている。
 福音(書)をギリシャ語でエウアンゲリオンと呼ぶ。『良い知らせ(グッド・ニュース)』という意味だ。英語のゴスペル(Gospel)はこれを訳したもので、古語ではgod-spell(良い・話)と言った。(中略) 中国語で『福音』と訳され、日本語はこれを採用した。
 何がグッド・ニュースだったのかというと、もちろん救世主キリストの到来が良い知らせなのであった。神の子が出現して『神の国』を告げて死んで復活して昇天したことが、衝撃的なニュースだったのだ。」
(『聖書、コーラン、仏典』 中村圭志 著、中公新書)

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(上表の「パウロ書簡」の中で網掛けをした文書は、パウロの殉教(西暦65年)以降に成立したと見られ、現在ではパウロの作ではないとされているようである。)

 ライプツィヒの聖トーマス教会においてバッハの「マタイ受難曲」が初めて演奏されたのは1727年のことであるという。バッハがこの街にやって来てから、間もなく満4年が経つ頃であった。

 ライプツィヒに来る以前の6年弱を、彼はケーテンという小さな街で領主レオポルト候に仕える宮廷音楽家として過ごしている。その間に、あの膨大な数にして傑作揃いの室内楽曲・器楽曲の大半が作成されたというのは想像を絶することだが、その一方でバッハの活動には大きな制約もあった。レオポルト候は宗教的にはカルヴァン派に属していたため、宮廷での礼拝からは殆ど音楽が締め出されており、バッハには礼拝用の音楽を作曲する機会がなかったのである。

 やがて彼は大都市ライプツィヒ(ケーテンからは南東へ60kmほど)の聖トーマス教会のカントル職に応募し、採用されることになった。当時「トーマスカントル」と言えば、教会の合唱団を指揮して礼拝用の音楽を取り仕切り、教会に付属する小学校で教鞭を取り、なおかつライプツィヒ市全体の音楽をも差配する監督でもあるという、大変に名誉ある職だった。その肩書を与えられたバッハは、堰を切ったようにカンタータをはじめとする礼拝音楽の作曲に邁進していく。

 「激務だった。だがバッハは全力をあげてこの仕事に立ち向かった。
 生涯を通じてルター派の信仰を持ち続け、また教会に奉職することが長かったバッハにとって、その頃全盛を極めていたルター派の礼拝音楽は、信仰と音楽の双方を追求できる絶好のジャンルだった。」
(『バッハへの旅』 加藤浩子 著、東京書籍)

 加えて、大都市ライプツィヒでは人々の耳も肥えていたようだ。「教会の国」と呼ばれたこの街では「教会音楽も街の売り物の一つ」だったようで、「人々は劇場の桟敷席に通うように、教会の定められた席に坐った」という。

 「おびただしい数にのぼるバッハの作品のなかでも、傑作といえば真っ先に指を折られる二つの受難曲、《マタイ受難曲》BWV244と《ヨハネ受難曲》BWV245も、この時期に初演された。(中略) 復活祭前の聖金曜日に上演される決まりになっていた「受難曲」は、「聖金曜日の受難楽」として、ライプツィヒ市民の年間の楽しみのひとつだったのである。」
(以上、引用前掲書)

 イエス・キリストが十字架に架けられて刑死する受難劇という、いささか残酷で重苦しい内容のドラマが「市民の年間の楽しみのひとつだった」という、その感覚にはちょっとついて行けないなという思いがなくもないし、実際に日本では、キリスト教の信者でなくてもクリスマスは盛大に祝うが、このイエスの受難と復活という、いわゆるイースターは(少なくとも私から見る限り)世の中では殆ど話題になることがない。イエスの受難という重苦しい話は、わが国ではやはり好まれないのだろうか。その一方、私たちの周りでは「義によって主君の仇討を果たした家臣たちが、最後は名誉の切腹を賜る」という話が年末のたびにドラマになり、歌舞伎にもなっているのだから、人間とは意外と悲劇を好む生き物であるのかもしれない。

 西方教会の教会暦では、復活祭(イエスが復活した日曜日。定義は「春分の日の後の最初の満月の直後の日曜日」)の46日前から四旬節と呼ばれる期間に入り、それが復活祭の前日まで続く。今年(2018年)で言えば4月1日(日)が復活祭だから、2月14日(水)から四旬節が始まることになる。そして、復活祭の前々日、即ちイエスの受難の日である金曜日(聖金曜日、Good Friday)に受難曲が演奏されていた訳だ。

 2月12日の今日、東京・目黒の教会でバッハの「マタイ受難曲」の演奏を鑑賞している私たち。座席は教会の長椅子だから、3時間を過ぎようかというほどの公演になると、正直なところお尻が痛くなって来る。元々はあまり長居をする場所でもないからか、夕方に近くなると教会の中は次第に底冷えがしてきて、おまけに隙間風も冷たい。今日はまだ2月の中旬だからそれも仕方ないのだが、東京よりも寒冷な気候である筈のライプツィヒでは、イースターの時期といってもまだ冷え冷えとしている頃なのだろう。そんな中で受難曲を楽しむというのも決して楽ではないに違いないが、それが愛好されてきたというのは、やはり信仰の賜物なのだろうか。
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(ライプツィヒの聖トーマス教会)

 バッハの「マタイ受難曲」は、休憩を挟む二部構成になっている。「最後の晩餐」や「オリーブ山の祈り」の後、そのオリーブ山から麓に降りたゲッセマネでイエスが捕縛されるところまでが第一部、そして最高法院での裁判に始まって、ピラトの尋問、十字架のくびき、ゴルゴタでのイエスの死、そして埋葬までが第二部である。捕縛されてから十字架に架けられるまでの経緯をかなり詳しく描いているので、第二部の方が演奏時間は長い。その中で特に印象に残るのは、やはり十字架上のイエスが死を迎える部分である。

さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 福音書の朗読の後、死に瀕したイエスの前に預言者エリアがはたして現れるか否かという人々のやり取りが続いた上で、司祭が次の一節を静かに読み上げる。

イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息を引き取られた。

 これに続いて歌われるコラール。ここでも先に述べた「受難のコラール」が用いられているのだが、バッハはここで音階を4度下げ、敢えて中世以来の古風なフリギア旋法を用いることで、イエスの死を限りなく昇華させている。お見事!としか言いようがない。

いつしか私がこの世に別れを告げるとき、私から離れないでください。
私が死の苦しみにあるとき、目の前に現れてください!
この上ない恐怖が私の心を囲むとき、
あなたの苦悩と痛みの力で 私を恐れからお救いください!

 このようなドラマが生まれたエルサレムという街は、一体どんな所なのだろう。昨年に膵臓がんの手術を受けた身である以上、自分の命があとどれだけ残されているのか、今はまだ何とも言えないが、死ぬまでには一度訪れてみたいなと、私は思い始めていた。
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 ローマ総督のピラトがイエスの墓に番人をつけるように命じ、石に封印が為されたことが語られると、第一部の冒頭に用いられたメロディーが再び登場し、合唱をもって受難曲は終了する。

私たちは涙してひざまつき そして、墓の中のあなたに呼びかけます。
安らかにお休みください、やすらかに。お休みください、疲れ果てた御体よ!
安らかにお休みください、やすらかに。
あなたの墓と墓石は、悩める良心にとっては ここちよい憩いの枕
魂の憩いの場となるべきもの。

 会場が盛大な拍手に包まれたのは17:00を少し回った頃であった。途中20分の休憩を挟み、3時間に近い演奏であったが、私たちはこうしてイエスの受難劇の全てをじっくりと鑑賞することができた。これほどの大作に挑むのに、コーラスの練習には一体どんな量のエネルギーを必要としたことだろう。お誘いいただいた先輩のEさんを含めて、演奏者の皆さんの大いなる努力に、心からの敬意を表したいと思う。

 そして、改めて思う。パウロが語るように、キリスト教の要諦は、やはりイエスの受難と復活なのだ。

 「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」
(『ローマ人への手紙』第10章9)

 私たちにはなかなか理解の及ばないところであるのだが、人間が本来背負っていた原罪をイエスが一人背負って死に、そのことによって人類は救われ、そしてイエスは復活した、だからイエスはキリスト(救世主)なのだ、という信仰である。(私自身も、そこは今も腑に落ちていない。)けれども、信仰そのものではなく宗教学的なアプローチからこのキリスト教の要諦について考えてみることには、きっと意味があることだろう。今日のような機会を利用しながら、これからも学んでみたいと思う。

 私の大好きなバッハの世界にたっぷりと触れた休日の午後。このような機会を与えていただいた、尊敬すべき山の先輩・Eさんに改めて大きな感謝を捧げつつ、家内と二人で再び目黒駅へと向かう。

 坂道を上った所からは、夕暮れの富士山がその頭だけを見せていた。

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立春 [季節]


 2月4日(日) 立春。といっても、外はまだまだ寒い時期である。

 東京の都心部の朝は曇り空が広がっていたのだが、食後のコーヒーを飲みながら読みかけの本に目を通している間に天候が回復していたようで、ふと気がつくと窓のカーテンが明るい陽射しに輝いている。ベランダに出てみると、空の2/3ぐらいに青空が広がっていた。ならば、本の続きは後にして散歩に出てみようか。

 小さなデイパックを肩に、我家の近くにある植物園へ。ここも随分とご無沙汰してしまっている。いつものように正面の坂道を登って桜の広場に出ると、あたりの木々はひっそりと春を待っていた。
Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA



 空が曇っていた朝こそ肌寒かったものの、正午を過ぎたばかりの今は南側の空が良く晴れていて、太陽の輝きが眩しくて暖かい。考えてみれば、今日が立春だから、太陽が一番低くなる冬至から1ヶ月半ほどが過ぎた訳で、春分までの道のりのちょうど半分が経過したことになる。
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 暦というのはよく出来たもので、毎日の平均気温の平年値(現時点で適用されるのは1981~2010年の30年間の平均値)が年間で最低になるのは、二十四節気のちょうど大寒の頃だ。それを過ぎてもまだ気温はなかなか上がらない一方で、南中時の太陽高度は冬至を過ぎてからは徐々に上がり始め、その後は次第に加速をつけて高くなっていく。太陽の輝きの眩しさと風の冷たさとの間のギャップ、すなわち「光の春」を一番感じるのが今頃だというのも、やはり理屈があってのことなのだ。
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 桜の広場からスズカケの林を過ぎ、針葉樹林を抜けて坂道をゆっくりと下ると、日本庭園の先にある梅林ではその1/4ほどの梅の木が既に花を開いていた。
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 ある時期になると多くの木々が一斉に開花する、まるで集団行動のような桜とは対照的に、梅の開花時期は木によって様々だ。そして、花の色にも個性があり、寒風・冬枯れの中で一人花を開き、微かな芳香を放つ・・・。座禅によって己(おのれ)を見つめ続ける禅宗では桜よりも梅が好まれるというのも、何だかわかるような気がする。
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 その日、東京の日中の最高気温は9.8度まで上がり、風のない穏やかな昼下がりを、私はこんな風に植物園の自然の中でのんびりと過ごしていた。そして、翌2月5日(月)は冷え込みが厳しかったものの、東京は引き続きよく晴れた冬の一日だった。ところが、その日から北陸地方では稀に見る大雪が始まっていたのである。

 日本列島が西高東低の冬型の気圧配置に覆われる時、等圧線の間隔が狭くて縦に並ぶものは「山雪型」、等圧線の間隔が広くて斜めに並ぶものは「里雪型」と呼ばれる。2月5日と6日の天気図を見ると、等圧線の間隔は広く、そして等圧線の方向がちょうど北陸地方の上空で斜めになっていた。これは平野部で大雪になるパターンだ。事実、北陸三県では雪が降り続き、特に福井県でそれが激しかった。県庁所在地・福井市の毎日の最深積雪量を見ると、2月4日時点で40cmだったのが5日には82cm(+42)、6日には136cm(+54)に急増、そして翌7日には147cmに達している。
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 147cmと簡単に言ってしまったが、よく考えてみればテニスコートの中央にある審判台の座面の高さが150cmだから、要するにあの審判台がほぼスッポリと埋まってしまう高さである。山の中ならともかく、市街地でその高さの積雪とは大変なものだ。

 2~3日の間にこれだけの量の雪が積もってしまえば、鉄道も道路も除雪が追いつかなくなるのは当然のことだろう。トンネルが多く、除雪のための仕組みを色々と備えた北陸新幹線は別として、在来の鉄道が軒並み運休となっただけでなく、特に福井県下で国道8号線をはじめとする道路交通にも深刻な影響が出て、極めて多数のクルマが立ち往生してしまった様子は、日夜報道されている通りである。

 「雪国」のイメージのある北陸地方だが、平野部で1メートルを超えるような積雪がずっと続く訳ではない。県庁所在地の福井市・金沢市・富山市をとってみれば、冬の間の積雪量は平年値ベースで20~30cm程度のものである。交通が寸断されて市民生活に大きな影響が出るような豪雪というと、近年では1980(昭和55)年の年末から翌81(昭和56)年1月中旬にかけての、いわゆる「五六豪雪」に遡ることになる。
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 この時は北陸三県で12月28~29日、1月5~6日、同13日及び15日と波状的にドカ雪となり、福井市では積雪が1月15日に史上最高の196cmに達している。金沢・富山でも程度の差こそあれ同じような状況だった。
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 五六豪雪の時の北陸地方は、実は12月から平年に比べてかなり寒い冬を迎えていた。気温が低いと降った雪がなかなか融けず、そこへ新たな雪が積み上がってしまう。福井市の場合、年明け後も平均気温が平年値よりかなり低い状態が2月中旬まで続いたために、1月15日に196cmに達した積雪が2月中旬までは1mを超えた状態で残ったのである。

 平均気温と積雪量の逆相関のような関係は今年も同じで、1月に何度かあった平年よりも低温になった時期に積雪量が多くなっている。そして2月に入り、五六豪雪時よりも更に寒くなったところへ里雪型の気圧配置になったことが、今回の豪雪をもたらしたのだ。注目すべきは、2月6日に福井市の最深積雪量136cmが五六豪雪の時の同日の積雪量に並び、翌7日にはそれを上回ったことだろう。局面的には「五六を超える豪雪」とも言えるのである。

 いささか昔話になってしまうのだが、大学を卒業して社会に出た最初の3年間を、私は富山市で過ごしている。着任をしたのは、ちょうどこの五六豪雪の雪がすっかり消えた4月の第3週のことだ。着いた翌日が穏やかによく晴れた日で、真っ白な北アルプスの立山や剱岳、そしてその北方にある毛勝山などが間近に見えていたことを、今でもよく覚えている。

 山が近く、豊かな自然に囲まれた富山市は誠に愛すべき街で、今から思えばその何とものんびりとした環境の中で社会人の第一歩を踏み出せたのは、大変に幸せであったという他はない。多くの人達に本当によくしていただいたので、私の記憶には楽しかったことしか残っていない。仕事のことはともかく、雪国の暮らしを実際に経験することはとても貴重なことで、実に多くのことを学ばせていただいたように思う。(そのおかげで、雪道でのクルマの運転にも一応の「免疫」が出来ていて、それが今の仕事でも役に立つことがある。) 以来、私の中では富山への愛着心をずっと大切にし続けてきた。

 その北陸が、あの時以来の豪雪に見舞われている。福井県でも2月8日のうちに何とか道路上でのクルマの立ち往生を解消したいとのことだが、その先の天気予報を見てみると、これから週末にかけて日本列島には気圧の谷がやって来て、2月11日(日)は全国的に雨。そして振替休日となる2月12日(月)には再び冬型の気圧配置となる見込み。そして想定される等圧線の形はまたしても里雪型だ。しかもその日から強い寒気がまた降りて来る。北陸はもう一度大雪への備えが必要になるようだ。
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 雪の季節での北陸の暮らしは懐かしいが、大雪に人々が難儀するようなことにはなって欲しくない。久しぶりに寒い冬となった今年だが、大雪もそろそろ手仕舞にしてはもらえないだろうか。

 日々の天気予報を眺めつつ、彼方の北陸の空に思いを馳せている。

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続・冬は北へ (3) 津軽鉄道 [自分史]


 1月22日(月)、青森県・大鰐温泉の朝は氷点下13度まで下がった。

 「この冬一番の冷え込みです。こっちの気候に慣れてる筈の私でも、今朝は『うわぁ、寒っ!』って思いましたもの。」

 ホテルのフロント係の女性が肩をすくめながらそう言って笑った。朝8時に迎えを頼んだタクシーは、後部トランクが凍結して開かないと、ゴマ塩頭の運転手さんが四苦八苦している。移動性高気圧は東へ去ったが、オホーツク海と日本海中部にそれぞれ低気圧があって、東北地方の北部は緩い気圧の尾根が東西に延びた形になっているため、夜は晴れたのだろう。それが放射冷却をもたらしたという訳だ。ホテルのロビーから眺める池も、今朝は完全に凍りついている。

 折角のリゾートホテルだから朝はゆっくりしたかったのだが、今朝は弘前発08:49の快速「リゾートしらかみ2号」に間に合うように、ホテルを出なければならない。朝食は少し急ぎ足にならざるを得なかったのだが、その代わりに神様からの素晴らしいご褒美があった。タクシーが大鰐温泉の中心部を抜けて国道7号に入り、岩木川の支流が造る狭い谷から津軽平野に出ると、津軽の名峰・岩木山(1625m)の大きな姿がフロントガラス一杯に広がったのだ。しかも、山頂までくっきりと見えている。
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 厳冬のこの時期に何という幸運。昨年の一月下旬にも家内と私は弘前を訪れているが、その時の岩木山にはガスが終日かかり、中腹から上は見えなかった。それだけに、今日のこの眺めには大感激だ。

「この山が風を防いでくれるから、津軽には米もリンゴも育つんですよ。」

 タクシーの運転手さんは、そう語る。津軽平野の西に忽然と盛り上がったような岩木山。周囲には他に高い山がないため、その裾野の広がりの優雅さがひときわ印象的だ。30万年前頃から噴火と山体崩壊を繰り返し、現在のスカイラインが形成されたのは1万年前頃のことだそうだ。いつまでも眺めていたい山である。

 予定通り8時半過ぎには弘前駅に到着。駅のコインロッカーに荷物を預け、私たちは五能線を走る「リゾートしらかみ」に乗車。40分足らずで五所川原に着いたら、そこから私鉄の津軽鉄道に乗ることにしている。タクシーの中からはあれほどすっきりと見えていた岩木山の山頂は、列車の中からその姿を追いかけた時にはもうガスの中だ。やはり、山というのは朝早くに眺めるべきものなのである。

 その岩木山の山裾を見つめ続けているうちに、間もなく五所川原に到着する旨の車内放送が流れた。先頭車両に乗っていた私たちは、運転席の右側の窓から正面を凝視。ゆっくりと近づいて来た五所川原駅の構内は、何とも懐かしい昭和の雰囲気に満ちている。
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そして、ホームに降り立つと、跨線橋の向こうの津軽鉄道の小さなホームには、お目当てのストーブ列車が私たちを待っていた。
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 左から、ディーゼル機関車DD350、客車のオハフ33、津軽21型気動車、そして最後部になぜか雪かき車キ100の姿が。機関車の左に見えている古い気動車は、既に廃車になって留置線に置かれている旧国鉄のキハ22である。(昨日乗って来た秋田内陸縦貫鉄道を走っていたこともあったそうだ。)

 この編成の中で、客車には2台の石炭焚だるまストーブが暖房用に設置され、冬の風物詩として観光客の人気を集めている。(但し、乗車には400円のストーブ券が必要だ。) 平日にもかかわらず、今日もこの客車の席がほぼ埋まっている。そんな中で私たちがストーブの近くに席を取ると、先ほどまで乗って来た五能線の「リゾートしらかみ」が、秋田を目指して発っていった。
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 9:32 津軽中里行きのストーブ列車は定刻に発車。2台のだるまストーブのおかげで、車内は暖かい。同乗している女性アテンダントによる沿線の観光案内が早速始まると共に、ワゴンによる車内販売も同時にスタートした。言うまでもなく、車内で楽しむ酒やスルメ、そして津軽鉄道グッズなどの販売である。
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 そこで買い求めたスルメは、もちろん車内のストーブで焼いてくれるのだが、女性アテンダントは実に手際よくそれをこなしている。私たちを含めてかなりの乗客が途中の金木駅で降りるので、乗車時間は30分足らず。その間に次々とスルメを焼くのだから彼女は結構忙しいことになる。

 僅かの時間ではあるが、それでもこのスローでレトロなストーブ列車に揺られ、スルメをかじりながら常温の酒で一杯というこの一時は、なかなか得難い経験である。
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 9:58 五所川原から12.8kmを走ったところにある金木駅に到着。ホームの様子は何やら映画「鉄道員(ぽっぽや)」の一コマでも見ているかのようだ。
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 私たちはここで下車し、街の中を700mほど歩いて「斜陽館」を見学。言うまでもなく、太宰治(1909~48)の生家だった旧津島家の大邸宅である。太宰の実父で戦前の衆議院議員も務めた大地主・津島源右衛門が1907年に建てた木造二階建て、入母屋造り、宅地面積が680坪の邸宅で、今は国の重要文化財に指定されている。太宰はここに生まれ、自らが旧制青森中学に進学するまでの間、この家で育てられたそうだ。(上京後は共産党の活動に手を染めたりしたために、彼は郷里から勘当されている。)
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 館内では案内係の男性が30分ほどの時間をかけて一階・二階それぞれの様子を詳しく説明してくれた。或る部屋では太宰の時代のマントを羽織って写真を撮れたりするのだが、ここで冬の今は床が冷え切っていて、靴を脱いで屋敷の中を歩いていると両足が芯から冷えて来る。太宰が暮らしていた当時、全部で19部屋もあるこの屋敷では、一体どれほどの量の薪を燃料に使ったのだろうか。

 この大きな屋敷の中をそれなりにゆっくりと見学させていただき、来た道を通って駅に戻ると、上りのストーブ列車が程なくやって来た。先ほど乗って来た列車が終点の津軽中里で折り返して来たものである。
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 津軽に鉄道がやって来たのは、意外に古い。官営鉄道として奥羽本線の青森・弘前間が開業したのは1894(明治27)年の12月だ。鉄路はそれから南に延びて、1992(明治35)年には秋田に達した。
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 次いで、鉄路は津軽半島地域にも延びていく。1918(大正7)年9月、奥羽本線の川部(弘前から2つ青森寄りの駅)と五所川原を結ぶ私鉄の陸奥鉄道・五所川原線が開業。それは大正時代が終わるまでの間に、日本海に面した鰺ヶ沢まで延伸していた。

 他方、秋田県の能代から海岸線沿いに北上する官営鉄道の能代線の建設が1908(明治41)年から順次進んでおり、1926(大正15)年の暮には秋田・青森両県の県境に近い岩館までが開業していた。そして、国は能代線と五所川原線を一体の鉄道として管理することを企図し、1927(昭和2)年6月に陸奥鉄道を買収。1936(昭和11)年に日本海側で南北の線路が繋がり、ここに現在の五能線が全通することになった。

 この陸奥鉄道の買収に際し、株主たちには当初の出資金の2倍を超える金額が払われたそうだ(額面50円の株式に対して115円!)。だが、昔の人は偉かったと言うべきか、巨額の金を手に入れた陸奥鉄道の株主たちは、「この資金で郷里にもう一つ鉄道を造ろう。」という意見でまとまる。そこで翌1928(昭和3)年に設立されたのが、津軽鉄道株式会社なのである。同社は直ちに鉄道建設に取り掛かるが、岩木川沿いの湿地は地盤が緩く、想定を越える難工事になった。そのためにかなりのコストオーバーランになったようだが、ともかくも1930(昭和5)年11月に五所川原・津軽中里間20.7kmが全通することになった。

 因みに、1930年というと太宰が21歳の年だ。それよりも前、彼は中学入学と共に実家を離れているから、この津軽鉄道開通には縁がなかったことになる。後の1945(昭和20)年に彼が東京から疎開して来た時には、この鉄道に乗ったのかもしれないが。

 こうしてスタートした津軽鉄道。だが、結果的に昭和恐慌の真っ只中で開業したために、当初は業績が振るわず苦労したようだ。地域の乗合バス事業を次々に買収して収入源を確保し、何とか危機を乗り越えたが、色々あって戦後はそのバス事業も手放している。

 金木駅から雪原の中に細々と続く単線鉄道のレール。今から88年前の津軽鉄道の開業時も、こんな風景だったのだろうか。
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 津軽鉄道が公表している直近の財務諸表は2年前の2015年度のものだが、それによると鉄道事業は▲25百万円の営業赤字。これに対して15百万円ほどの補助金を得ているが、最終損益は▲5.3百万円の赤字である。バランスシートには▲65百万円の累損を抱え、純資産は36百万円だから、このペースで赤字が続くと、7年後(→現時点からは5年後)には債務超過に陥ってしまうことになる。

 五所川原駅ではJRから津軽鉄道に乗り換える際にも跨線橋に改札口がないから、そうした乗客に対しては車掌が車内で改札を行っている。その際に使われるのは、乗車駅と降車駅の欄に車掌がハサミを入れる、昔懐かしい補助券だ。そして有人駅で発売する切符は、これまた昔ながらの硬券である。かつて鉄道が開通した頃から殆ど何も変わっていないようなこうした姿は、私たちからすればいつまでも残して欲しいと思うが、ビジネスの現状を見る限り、よほどの観光需要に支えられない限り、存続は非常に厳しいのではないか。そういえば、昨日・一昨日と回って来た田沢湖温泉郷や秋田縦貫鉄道がアジアからの観光客を引き付けていたのと比べると、今日は中国語も韓国語もかなり限定的にしか聞こえて来ない。
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 11:29 ストーブ列車での往復も終わり、私たちは五所川原駅に戻って来た。JRに隣接する津軽鉄道・津軽五所川原駅の駅舎は、いたって簡素である。
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 それから私たちは雪が舞う五所川原の中心街を歩き、海産物を扱う市場でゆっくりと昼食。食堂で買った丼飯を魚屋の前に持って行き、好みの刺身を注文するスタイルで、これがなかなかいい。そして、食堂のテレビのニュースでは、予報通り東京で大雪が始まり出したことを頻りに伝えていた。
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 食後は津軽鉄道直営の店でコーヒーを楽しみながら、五能線の列車を待つ。私たちが乗る13:20発の弘前行きが出ると、その次の列車は2時間51分後だ。それもまた、五能線の味わいである。
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 昨年に続いて、今年もまた真冬の東北を家内と旅した。厳しくも美しい自然。人と人の触れ合いの素朴な温かさ。そして、そこかしこに残る懐かしい日本の姿。冬の東北がまた一つ好きになった旅が終わろうとしている。

 川部駅で進行方向が逆になり、列車が弘前へと近づいていく時、窓の外には再び岩木山の大きな姿があった。
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続・冬は北へ (2) 秋田内陸縦貫鉄道 [自分史]


 1月21日(日)、田沢湖高原温泉郷のホテルで朝早く目が覚めた。窓の外は雪が舞っている。家内と私はそれぞれ朝の入浴に出かけ、少しゆっくりしてから朝食へと向かった。家内は昨夜の露天風呂で久しぶりに星空を眺めて楽しんでいたという。そうであれば、ここまでやって来た甲斐があったかな。

 8:30発の送迎バスでホテルを出発。9:00少し前に田沢湖駅に着き、暫くしてやって来た秋田新幹線の「こまち1号」に乗ると、9:34に角館に着いた。「大人の休日倶楽部パス」は新幹線も乗り放題だから楽なものだ。
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 角館では次の予定まで一時間近くの時間がある。今日は曇り空だが風がなく、北国ながらそれほどの寒さは感じない。せっかくだから、観光案内所に荷物を預けて、街中を少し歩いてみよう。家内と私は角館総鎮守の神明社という神社へと向かった。駅からは15分ほどの距離である。
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 中世の時代に角館の中心が今の市街の北部の古城山にあった頃から、その山の鎮守の神として人々に崇められていたというこの社。江戸時代の明暦期に佐竹北家によって現在の場所に移されたという。実際に訪れてみると、天照大神をお祀りし角館総鎮守と呼ばれるだけあって、境内はなかなかの風格を持っている。

 私自身、昨年に膵臓がんを患い、開腹手術や抗がん剤治療という経験をしてからは、家内と二人で神社を訪れることが多くなった。これから先、食生活を含めて健康には十分留意していくつもりではあるが、将来がんの転移が起きるのかどうか、こればかりはまだ何とも言えない。けれども、たとえどんなことがあったとしても、自分の命が続く限りは真っ当に生きて行こう。角館の天照大神にも、そのことを誓った。
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 神明社から角館の武家屋敷街へ向かうように歩いていくと、道の左側に立派な蔵を持つ味噌・醤油の蔵元があった。日曜日の朝10時を回ったところだが、開店しているようなので店内を覗いてみることにした。
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 江戸時代の明暦期以降、角館は佐竹氏の分家・佐竹北家による統治が続いたが、その佐竹北家の初代・佐竹義隣が京都の公家・高倉家からの養子であったことから、角館には多くの京文化が取り入れられ、「みちのくの小京都」と呼ばれるように独特の雅やかな文化が育まれて来た。今回訪れた老舗の蔵元にもクラシックな雛壇が飾られ、生け花も実に立派だ。家内も私も暫くの間、目の保養をさせていただいた。
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 角館には3年前の秋に家内と二人で訪れたことがある。http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2015-11-14 あの時に美しい紅葉に包まれていた武家屋敷の家並みは、雪の時期の今はどんな様子だろうか。街の中をまだ歩き続けていたい気持ちも十分にあったのだが、次の列車の時刻が迫っている。私たちは再び駅へと向かった。

 JR角館駅の北側に隣接して、小さな鉄道の駅がもう一つ。その駅舎も「小屋」と呼んだ方がいいぐらいのサイズだ。この角館とJR奥羽本線の鷹ノ巣を結ぶ全長94.2kmの単線鉄道、「スマイルレール秋田内陸線」の愛称を持つ秋田内陸縦貫鉄道である。

 私たちは角館を11:02に出る急行「もりよし2号」に乗るつもりで、「こんな冬の真っ只中にこのローカル線に乗ろうというもの好きなんてそんなにいないよ。」とタカを括っていたのだが、何と改札口の前に行列が出来ていて、しかもここでもマンダリンが飛び交っている。慌てて乗車券を買い求めて構内へ。たった一両のディーゼルカーはほぼ席が埋まり、危うく立席になるところだった。そして、改めて車内を眺め回してみると、乗客の半数以上はアジア系の外国人である。
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 昨日の田沢湖周遊といい、今日の秋田内陸線といい、この時期の日本観光としては相当ニッチな行先である筈なのだが、この盛況ぶり。いやはや、外国人によるインバウンドの観光需要には、私たちの想像を超えたものがあるようだ。

 そもそも日本人の中だって、地元の人々と鉄道マニアを除けば、秋田内陸縦貫鉄道という名前を知っている人はそんなに多くはないのではなかろうか。この鉄道の原型は、旧国鉄の阿仁合(あにあい)線(鷹ノ巣⇔比立内(ひたちない))と角館線(角館⇔松葉)という二つのローカル線である。
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(秋田内陸縦貫鉄道のルート)

 前者は日本三大銅山の一つだった阿仁鉱山から鉱石を運ぶために戦前に建設され、戦後に阿仁合から比立内まで延伸された。そして後者は、もうすっかりモータリゼーションの時代に入っていた1970年に開通し、列車は一日三往復だけという、生まれながらの超ローカル線だった。そして、両者を繋ぐ山岳区間の延伸工事が当時の鉄建公団によって続けられていたのだが、1980年の国鉄再建法の施行によって角館線と阿仁合線の段階的な廃止が決まったことから、鉄建公団の工事も中断。それを地元自治体の出資による第三セクターが引き継いで、JR発足直前の1986年に再スタートしたのが、この秋田内陸縦貫鉄道だ。未成区間が完成して全通したのは1989年4月のことである。

 降雪の中を、たった一両の急行「もりよし2号」は定刻に発車。ディーゼルエンジンの重厚な音を響かせながら、列車は白一色の景色の中をトコトコと走り始めた。乗客はそれを眺め、シンプルに喜んでいる。雪を見ることのない国からやって来た人達には、この北国のいささかクラシックな単線鉄道に乗ること自体が、非日常のわくわくするような体験なのかもしれない。
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 とは言え、この鉄道を取り巻く環境は非常に厳しい。沿線地域は「全国一の高齢化県」といわれる秋田県の中でも有数の高齢化地域だ。旧国鉄から引き継ぐ前年の1985年と比較すると、2010年の時点で沿線の人口は6割近くも減った。その傾向は勿論今も続いていて、それはこの鉄道の輸送実績に直接影響している。
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(秋田内陸縦貫鉄道の一日当り乗客数)

 一日当りの乗客数を月別に見ると、稼ぎ時は例年8~10月なのだが、そこは年々苦戦していると言わざるを得ない。だが不思議なことに12~2月の冬場だけは、少しずつではあるが輸送実績がコンスタントな改善傾向にあることがわかる。乗客の絶対数は年間で最も少ない時期なのだが、その季節の実績が意外と底堅いのだ。それは、例えば今日のような冬場の外国人旅行者によって下支えされていると見ることは出来ないだろうか。1月下旬から2月中旬と言えば、例年旧正月の時期である。

 戸沢という駅を過ぎて全長約5.7kmの真っ直ぐな十二段トンネルを抜けると、阿仁マタギ駅に到着。先ほどのトンネルによって分水嶺を越えたので、ここから先は米代川水系の阿仁川の渓谷を眼下に眺めることになる。両方の窓からの眺めは一段と山深く、雪に覆われたモノトーンの世界。こんな中を単線鉄道がダイヤ通り正確に運行されていることが、何だか不思議に思えて来る。
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 やがて、列車は阿仁合駅に到着。ここで台湾人の結構大きなグループが下車していった。このあたりはかつてのマタギの文化が残る地域。真冬の今はとりたてて景勝地がある訳でもないから、台湾からやって来た人達はきっと何らかの体験型観光を楽しみにやって来たのだろう。

 最近では「地方の活性化のために外国人観光客のインバウンド需要を上手く取り込もう。」ということが良く言われているが、その割には、彼らが日本の何に価値を見出しているのか、どんなことに魅力を感じているのかを、私たちは実のところあまり良くわかってはいないのではないか。今日、この列車に乗っている外国人たちも、決して鉄道マニアのように「乗り鉄」をしに来た人たちではないはずで、それでもこうして座席の半分以上を彼らが占めている。結局は私たち日本人が、祖国の風土や伝統文化をもっとしっかりと理解すべきなのだろう。それは自分自身への反省を込めてのことでもあるのだが。

 阿仁合を過ぎて、どうやら鉄路は下り勾配が続き始めたようだ。ディーゼルエンジンを稼働させた力走ではなく、空走をしていることが多くなり、静かな室内にカタンカタンという線路の継ぎ目の通過音だけが心地よく響いている。私は運転席の右側の窓に陣取り、雪の中に細々と続く鉄路を子供のように見つめ続けていた。
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 13:02 列車は定刻通りに終点の鷹巣駅に到着(JR奥羽本線の駅名表記は「鷹ノ巣」だが、秋田内陸線の駅名は同じ読みで「鷹巣」と書く)。そこで奥羽本線の弘前行がやって来るまで9分の待ち合わせなのだが、鷹ノ巣駅は何にもなくて寒い。空には雲を通して白い太陽の姿があるのだが、光の暖かさは伝わっては来ない。駅舎の外壁に掲げられた温度計は、ちょうど0度を指していた。
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 程なくやって来たのは二両連結の弘前行の電車。ロングシート車両なので通勤電車のようだが、これから大館を経て秋田・青森両県の県境へと向かうので、沿線風景は寂しい限り。奥羽「本線」とは言いながら列車ダイヤは一時間に一本あるかないかといった頻度だから、ローカル線色の極めて濃い区間である。

 それまでの道中にスマートフォンで受信したメールに返信したり、ミラーレス一眼で撮影した何枚もの写真を整理したりしているうちに、列車は青森県に入る。そして14:04に大鰐温泉駅に到着。寒々としたホームの向こう側では、弘南鉄道大鰐線の車両が発車を待っていた。
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 田沢湖駅から列車を乗り継いで来た私たちの旅も、今日の行程は終わりに近い。チェックインの時刻にはまだ少し早いが、私たちはタクシーで今夜宿泊予定のリゾートホテルに向かうことにした。設備はいいホテルだから、まだ部屋には入れなくてもロビーでゆっくりさせてもらおう。
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 広々としたロビーで特製の「りんご茶」を楽しみ、部屋に案内された後はこのホテルの名物の「りんご湯」につかり、私たちは津軽の夕暮れ時をのんびりと過ごすことにした。
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(To be continued)


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続・冬は北へ (1) 田沢湖 [自分史]


 1月20日(土)、天気はゆっくりと下り坂に向かっていた。

 冬型の気圧配置が崩れ、前日の午後から東北地方を覆っていた移動性高気圧が東に抜けて、弱い気圧の谷が日本海から近づいて来る。今朝のニュースで解説されていたのは、そんな天気図だ。私たちが目指している秋田県の田沢湖のあたりは、スポット天気予報によれば正午頃まで晴マークで、午後からは曇、そして夕方からは乾雪が降ることになっている。
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 こういう気圧配置の時は、東京は移動性高気圧からの東風で雲の出ることが多い。事実、10:20に東京駅を出た秋田新幹線「こまち13号」の車窓に広がる沿線風景は、北へ行くほど青空が多くなり、雪を纏った那須連峰や安達太良山、吾妻連峰、そして宮城蔵王がよく見えていた。

 11:54 仙台駅を発車。これからいよいよ東北地方の北半分へと入って行くのだが、高気圧が遠ざかっていく過程にあるから、車窓から眺める山の姿も、山頂まで含めてそのスカイラインは確認出来るものの、その輪郭も色彩もだいぶ淡くなりつつあった。12:10を少し回り、くりこま高原駅を過ぎて車窓の主役に踊り出た栗駒山(1626m)の姿も、どこか淡色水彩の絵を見ているかのようだ。
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 12:57 北海道新幹線の新函館北斗へ向かう「はやぶさ13号」から切り離されて、盛岡駅を離れた「こまち13号」は田沢湖線に入る。その時、右側の車窓に雄大な岩手山(2038m)の姿が。天気が崩れる前に何とか間に合った!
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 私はこんな風に、相変わらず窓の外の山の眺めに見とれてばかりだが、本来の趣旨に戻ると、今日は家内と二人で一年ぶりの旅行に出ている。

 昨年は4月初めに私の膵臓がんが見つかり、大急ぎで入院・手術、そして術後の療養と抗がん剤による治療という、人生始まって以来の大病への取り組みで、あっという間に過ぎてしまった一年だった。比較的早期の発見と適格な処置のおかげで、12月末の診察でその後の転移が起きていないことが確認されて抗がん剤の服用が終わり、半年後に経過観察を受けるだけの身になったことは本当に幸いだったが、ともかくも家内には大きな心配をさせてしまい、とりわけ術後の療養期間には手間をかけてしまった。ようやく、相応に自由の身となった今、JRの「大人の休日倶楽部パス」を利用して、東北の温泉で家内にも少しゆっくりしてもらおう。去年の暮に二人で計画して、今回の旅を決めていたのである。

 列車が雫石駅を出た頃、走って来た方向をふり返ると、岩手山の山頂はもう雲に隠れている。つい10分ほど前に車内からカメラを向けたのがラストチャンスだったのだ。いよいよ気圧の谷が近づいて来ている訳だが、今日の本当のお目当てである秋田駒ケ岳(1637m)はこの後に姿を見せてくれるだろうか。

 窓の両側の景色が一段と雪深くなり、奥羽山脈を横断する仙岩トンネルを抜けると、列車は秋田県に入る。間もなく田沢湖駅に到着。時刻はまだ13:10頃なのだが、曇り空の下ではもう少し夕方に近いような印象を受けてしまう。駅舎から外に出ると、さすがに寒い。
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 列車JR田沢湖駅に着いた時刻から15分の接続で、田沢湖一周の路線バスが出ている。それに乗り込んだのは私たちを含めて10人ほどなのだが、そのうちに気がついたのは、その中で日本人は私と家内の二人だけで、他はみなアジアの国々からの観光客だという事実だ。広東語やマンダリンが聞こえてくる。確かにこの先には秘湯として今や超人気の乳頭温泉や、私たちの目的地である田沢湖高原温泉、更には新玉川温泉などがあって、雪を眺める冬の温泉ツアーは外国人の間でも人気が高いのだろうけれど、それにしても、京都でも北海道でもなく田沢湖にやって来た彼らは、間違いなく日本観光のリピーター達なのだろう。

 駅前から生保内(おぼない)地区を抜けてしばらく北上を続けたバスは、やがて国道を左に折れて田沢湖畔へと近づき、そこから時計回りに田沢湖を一周。その途中、二ヶ所の景勝地でしばらく止まってくれる。丸い田沢湖を時計の文字盤に見立てると、凡そ8時の位置に「たつこ像」というこの地の伝説の女性の銅像が立つ場所があり、バスは約20分停車。私たちは歩いて湖岸に向かう。そして、そこで待っていてくれたのは、私が今回一番のお目当てにしていた秋田駒ケ岳の全容だった。
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 今日は極めてゆっくりと天気が下り坂になるパターンで、等圧線の間隔が広く、この時期にしては珍しいほど風がない。日本一の水深(423m)を誇る田沢湖の湖面は冬でも凍ることがなく、風がないから湖面は文字通り鏡のようだ。天気が何とか持ちこたえた上に、「逆さ駒」というおまけまで付いて、ここまでやって来た甲斐があった。寒がりの家内もすっかりその眺めに見とれている。そして外国人の観光客たちは、それこそ「自撮り棒」を持って大変なはしゃぎようだ。
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 乗客の全員を再び乗せてバスは出発し、続いては田沢湖のほぼ最北端の位置にある御座石(ござのいし)神社の前で10分ほど停車。この神社は600年ほど前の室町時代に、熊野権現を信奉する修験者が修験の地としてこの場所を選んだとのご由緒があるそうだ。事代主神(ことしろぬしのかみ)・綿津見神(わたつみのかみ)といった記紀に登場する神様と共に、この湖の竜神がご祭神とされている。中央の神様とローカルな神様とが合祀されているのはよくあることなのだが、それにしてもこの御座石神社は実にシンプルだ。鳥居の向こうには何もなく、ご神体は湖そのもの。簡素なこと極まりない信仰のかたち。これが日本なのだ。
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 ご由緒書きによれば、三神のご神徳は開運厄除、勝利成功、そして美貌成就だという。私と家内がそれぞれ何をお祈りしたのかはともかくとして、昨年の私の大病の後に、縁あってこのお社を訪れ、二人で田沢湖に向かって手を合わせる機会を持つことが出来た。何はともあれ、昨年以来多くの方々に助けられ、支えられて来たことに深い感謝を捧げつつ、この先も自分なりに真っ直ぐに生きていくことを誓わせていただこう。

 再びバスに乗り、田沢湖駅へと戻る間に、それまで見えていた秋田駒ケ岳はもうすっかりその姿を隠してしまった。電車の中から眺めた岩手山に続き、田沢湖畔から眺めた秋田駒ケ岳の姿は、先ほどの撮影時がラストチャンスだったのだ。そう思うと、今日は何か「持ってる」のかもしれない。15:00少し前に田沢湖駅に到着すると、そとはもう雪が舞っていた。

 暖房の効いた田沢湖駅の待合室の中には、周辺の地形を表した立体地図が展示されていてわかりやすい。途中二ヶ所での小休止を含めて田沢湖を時計周りに一周して来た私たちは、この後はホテルの送迎バスで秋田駒ケ岳の山裾を北上し、田沢湖高原温泉郷へと向かう予定だ。
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 送迎バスが来るまで30分以上の時間がある。駅前の土産物店を眺めていたら、見たこともない缶詰が目にとまった。
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 「熊の缶詰」とは何とも面妖な名前だが、ラベルを読むと、要するに醤油、味噌、生姜、砂糖、赤ワインで熊肉を煮込んだものだそうで、この近辺で獲れた熊を使っているという。そんなに量産出来るものでもないのだろうから結構なお値段だが、風変わりなお土産にはなるのかもしれない。

 やがてホテルのマイクロバスがやって来て、定刻に駅前を出発。国道341号を北上し、右に折れて県道271号に入ると、標高が上がるにつれて路上の雪は深くなる。右手の秋田駒ケ岳の西斜面にはたざわ湖スキー場が広がっているのだが、雪が舞っている今は山の上にガスがかかり、殆どホワイトアウトしているような状況だ。
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 駅からおよそ30分。16:10過ぎに、雪深い田沢湖高原温泉郷のホテルに到着。今日は東京駅発が10:20というゆっくり目のスタートだったが、田沢湖観光を済ませてこの時刻に投宿できるのだから便利なものである。夕食までにはまだたっぷり時間があるから、旅装を解いて早速温泉を楽しむことにしよう。
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 スキー客も数多く宿泊するこのホテルでも、アジアの国々の言葉が飛び交っていた。

(To be continued)


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隅田川テラス [散歩]


 都心から乗った東京メトロ日比谷線の北行きの電車が、三ノ輪を過ぎて地上に出る時、進行左側の窓から外を眺めていると、近づいてくるJR常磐線の高架との間に挟まれた狭い土地にちょっと大きなお地蔵さんを見下ろすことが出来る。
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 既に速度をかなり落とした電車は、その直ぐ先の南千住駅に到着。南口の改札口から猫の額のようなロータリーに出ると、向かい側にそのお地蔵さんが見えている。延命寺というお寺の境内に鎮座するそれは「首切地蔵」という縁起でもない名前のお地蔵さんで、なぜそんな名前がついたかというと、江戸時代に小塚原の刑場がこのあたりにあったからだ。常磐線の線路によって分断される前は、その北隣にある小塚原回向院と一体になっていて、要するに幾多の刑死者が埋葬された場所だったのだ。

 回向院の境内に入ってみると、幕末期の「安政の大獄」で処刑された橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎らの墓が並んでいる。そして、もう一つ忘れてはならないのが、ここは前野良沢、杉田玄白らによって刑死者の「腑分け」が日本で初めて行われた場所で、それに因んで「解体新書」の表紙のデザインをレリーフ化した「観臓記念碑」が置かれている。
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 おっと、いけない。目的地で電車を降りたとたんに道草をしてしまったが、今日は歴史探訪の散歩に来た訳ではなかった。駅前に戻って更に北へ進もう。JR貨物の隅田川駅を右手に見ながら、新興の高層マンション街を抜けて10分ほど歩くと、やがて隅田川の右岸に出た。

 岸の高さまで降りてみると、左側(=上流側)にトラス橋が見えていて、日比谷線の南行き電車が轟音を立てながらその鉄橋を渡るところだった。実はそこはメトロの日比谷線、つくばエクスプレス、そしてJR常磐線用のそれぞれのトラス橋が3つ並行する、鉄道風景としてはなかなか壮観な場所なのである。
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 おっと、いけない。今日は鉄旅をしに来た訳でもなかった。私はジョギング用の服装でここまでやって来た。これから隅田川の右岸沿いの遊歩道を、河口に近い勝鬨橋まで距離にして12kmほどなのだが、それをジョギングしてみようという魂胆である。今朝の東京は今冬一番の冷え込みとなったが、正午を過ぎたばかりの今は風もなく、冬晴れの太陽が眩しい。

 昨年の4月末に膵臓がんの開腹手術を受けた私は、その後の養生の過程で3回ほど隅田川沿いの遊歩道「隅田川テラス」を部分的に散歩していた。初回は術後2ヶ月ちょっとの7月初めに、両国駅から浅草駅までを恐々と歩いた。まだ体調は全く安定していない時期だったから、試運転そのものだ。その2ヶ月後の9月初めに、今度は永代橋から佃島を経て築地の勝鬨橋までを歩いた。少し元気が出て来た頃だった。更に、金木犀の香る10月初めには、京成関屋の駅を起点に水神橋を渡って浅草までを歩いた。そうした隅田川沿いの散歩を重ねるうちに、「本当に元気になったら、この隅田川テラスを千住から築地まで通しで走ってみたい」と思うようになっていた。

 既にこのブログにも綴って来た通り、術後の抗がん剤の服用も12月下旬で予定通り終了し、半年後の今年6月の経過観察までは病院に通うこともない身になった。体力の回復も概ね順調で、日帰りの山歩きにも特に問題なく行けている。ならば、この週末に隅田川テラスのジョギングを実行してみよう。年が明けて二週間。寒さは厳しいが、今この12kmを完走出来たなら、自分にとっても励みにもなることだろう。
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 汐入公園と呼ばれる一画の西端にあたる隅田川テラスの起点からジョギングを開始。そこは隅田川の大きな蛇行に沿って右カーブが続き、真昼の今は太陽を真正面に見ながら走ることになる。程なく汐入大橋・水神橋という比較的新しい橋を通過。そこから先は上述の通り散歩をしたことがあるので大体の様子はわかっている。白髭橋を過ぎるともう浅草が近い。
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 白髭橋の一つ下流側に桜橋というエックスの形をした歩行者専用のユニークな橋が架かっている。そこからは東京スカイツリーがもう見上げる高さまで近い。今日の起点からここまで凡そ3.5kmの距離である。
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 再び走り始め、言問橋を過ぎると、歴史を感じさせる、しかし重厚なだけでなくどこか優雅なスタイルのトラス橋が近づいてくる。1931(昭和6)年に竣工した東武伊勢崎線の隅田川橋梁だ。ちょうど上り列車が橋を渡って右手の浅草駅に進入するところで、列車は殆ど止まりそうなほどゆっくりとアプローチしている。
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 それもそのはずで、東武伊勢崎線のルートは隅田川を横断するや否や半径僅か100mほどの左急カーブを切り、最終的には川に並行した東武浅草駅のホームへと入って行く。従って、この間は15km/hの徐行にならざるを得ないのだ。
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 明治30年に北千住・久喜間で営業を開始した東武鉄道は、その後南北に鉄路を伸ばすも、隅田川を越えて都心への乗り入れを行うことにはなかなか認可が下りなかった。京成電鉄との激しい鍔迫り合いの末、昭和6年に念願の浅草入りを果たすのだが、当時東都最大の繁華街の一つだった浅草に線路を敷くのは大変で、そのルートも隅田公園に入らぬように配慮した結果、現在の急カーブになったという。橋のトラスの背が高くないのも同様に景観への配慮で、だから鉄橋の割にいかめしくない印象があるのだろう。
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 おっといけない、またしても鉄旅気分になってしまった。先を急ごう。浅草駅前のほぼ真下になる吾妻橋の西詰を潜り、なおも走り続けると、風格のあるアーチ橋が近づいてくる。1927(昭和2)年竣工の駒形橋だ。関東大震災後の復興計画の一環として新たに架けられた橋で、それ以前は渡し舟が行き来していたという。
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 春日通りが走る厩橋をくぐり、次の蔵前橋を過ぎると、再び大きなアーチ橋が迫る。JR総武線の隅田川橋梁だ。1932(昭和7)年、総武線の両国・御茶ノ水間の延伸のために架けられた鉄橋で、たった一つの長いアーチが印象的である。今日の起点から約6.5kmだから、コースの半分が過ぎたところだ。今のところ、お世辞にも速くはないが、私なりに順調に走れている。
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 さて、この橋を過ぎたら右手の陸側に上がるように気をつけていないといけない。この先は右手から神田川が隅田川に合流するため、遊歩道自体は一度途切れている。江戸時代には、ここから隅田川を遡って遊郭・吉原へと通う舟が多数出入りしていたという。
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 小さな橋で神田川を渡り、幅の広い靖国通りを横断して両国橋の西詰へ。その先から隅田川テラスが再び始まる。首都高の6・7号線を潜ったあたりから隅田川は少し東向きに蛇行。そのために新大橋を過ぎるあたりまでは走路が日陰になり、とたんに寒くなった。太陽エネルギーとは、やはり偉大なものなのだ。
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 それが、再び南方向にカーブしていくと正面に太陽が復活。眩しい光の中に現れるのが、優雅な吊り橋の清洲橋だ。そのクラシックな姿は見ていて楽しい。これも震災復興計画の一環として1928(昭和3)年に架けられたというから、今年で満90歳の卒寿だ。いつまでも大切にしたい景観である。
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 もう一つ首都高の下を潜る所があって(地上部分には隅田川大橋という一般道用の橋があるのだが)、それを過ぎるといよいよ永代橋が近く、そのどっしりとしてクラシックなアーチと、背後に並び立つ佃島の高層マンション群とが絶妙なコントラストを見せている。
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 永代橋の手前で日本橋川が右から合流するので、隅田川テラスはそこで再び途切れており、陸側で日本橋川を越え、永代通りを横断して永代橋の西詰から川に戻る。ここから先は昨年9月に家内と歩いたコースだが、あの時に比べると、冬晴れの下で高層ビル群が更にくっきりと見えている。

 コースが幾分西を向き、日本橋川の分流が右から合流するところで中央大橋を渡り、佃島へ。眺めの良いこの佃島の北端で360度のパノラマ写真を撮りたかったので、予定通りそこで小休止。隅田川の本流と豊洲運河に囲まれた「水辺の風景」がパノラマ写真には絶好の場所だと、前回来た時から思っていたのだ。今日の起点からちょうど10kmの距離である。


 さあ、残りは僅かになった。再び頑張ろう。佃島の北端から中央大橋を潜って南西方向へ。左手に住吉神社の境内をチラッと眺め、その先の佃大橋へと上がって隅田川の右岸に戻る。そして隅田川テラスに下りれば残りは1kmほどである。
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 何度か写真を撮りながらの行程になったので、ずっと走り続けた訳ではなく、タイムを意識するつもりもなかったからスピードは極めてゆっくりとしたものだったが、特段ペースを変えることもなく、呼吸の苦しさや足の疲れを感じることもなく、今日はこうして築地の近くまで走り続けることが出来た。昨年の秋に散歩をしていた頃は、隅田川テラスを走ることが出来るのはいつになるだろうかと思ったものだが、年明けから二週間後の今日、こうして12kmの道のりの完走を間近にしてみると、色々な感慨がこみあげて来る。何よりも、ここまで元気を取り戻したことについて、昨年4月の入院以降お世話になった、そしてご心配をいただいた多くの方々への感謝の気持ちで一杯だ。

 隅田川テラスが行き止まりになる勝鬨橋の真下。誰もいないその場所にゴールテープが張ってあるつもりで、私は今日のランニングを終えた。
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