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「私」の解消 [読書]


 8月16日(水)、6連休になった会社のお盆休みも最終日を迎えた。だが、東京は終日雨が降り続き、街は人通りも少ない。8月のど真ん中だというのに気温も低めで、盛夏らしからぬ冴えない一日だった。

 毎年この日は、お盆で里帰りしていた祖先の霊を送り出す「送り火」、いわゆる大文字焼きが各地で催される。こういう時代になって、火をLEDに切り替えた地域もあったそうだが、いずれにしても大文字焼きのニュースに接すると、夏も残り少なくなったなあという淡い寂寞感に囚われてしまう。それは還暦を過ぎた今でも、私の中では子供の頃とあまり変っていないようだ。
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 もっとも、さすがにこの歳になって、全く無邪気に夏休みを過ごしていた子供の頃との違いがあるとすれば、お盆のせいかこの時期には自分がどこか仏教臭くなることだろうか。会社の夏休み最後の日、雨の中をわざわざ出かけるほどの用事もない私は、数日前に買った南直哉(みなみ じきさい)氏の新書本を読んでいた。著者は大学を卒業後、数年の会社員生活を経て仏門に入り、福井の永平寺で20年も修行を続け、今は恐山にあるお寺の院代を務めるお坊さんである。(以下、青字部分は本書からの引用。)
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 幼少の頃から病弱で、激しい発作による呼吸困難に苦しみ続け、間もなく迎えるかもしれない「死」とは何か、それとは逆に「生」と何かを子供なりに考え続けたという著者。やがてそれは「自分の存在の根拠とは何か」という問いに発展し、高校時代には哲学書・思想書の類を読み漁ってみるのだが、肝心なところがわからない。とりわけ、自分が存在することの根拠を“唯一絶対”の創造神の存在に投げてしまうキリスト教の考え方には、ついて行けなかった。

 そんな著者は、やがて日本曹洞宗の開祖・道元禅師の『正法眼蔵』にある有名な一節に出会う。
 「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己を忘るるなり。」

 そもそも「この『私』はそれ自体で本当に存在するのか。その一貫性を根拠づける何かがあるのか。」 「昨日の『私』と今日の『私』が同じ『私』であることの証明は、昨日の『私』はすでにいない以上、無理」であるならば、「今までも、今も、今後も存在する『私』を当たり前のように前提にすること」もまた無理なのではないか。まして「『私』の存在は『自己決定』によって始まったわけではない」のであれば、「『自己』自体が幻想に過ぎない」 つまり、「一貫して変わらない(と思い込んでいる)“私”の存在が、老・病・死の苦しみの大前提」なのだ・・・。

 「(中略)仏教は根拠を求めて苦しむ人間に根拠を与えて救うのではなく、そのような人間の在り方そのものを解体することによって、『苦しみを消去してしまえばよい』と考えるのです。
 これは、どう考えても尋常な話ではありません。どう転んでも仏教が「ヒューマニズム」になることは金輪際ありません。『ありのままの自分』を大切にするような考え方と真逆にあるのが、仏教なのです。
 これほど極端な考え方に、シンパシーを感じる人が昔から今までかなりの数存在し続けてきた、考えると不思議なことです。」

 ブッダや道元の言葉を通じて、「自己」の実在を否定する仏教の考え方に巡り合った著者は、「これは、“絶対に正しい何か”の話とは別物だ。何の確信もない。でも仏教を選択するのだ」という“賭け”に出て仏門に入り、結果的に今に至っているという。

 そんな経緯があるためか、本書における自分の仏教についての考え方は基本的に偏っており、一般的な仏教を知りたい人には向かないと著者は謙遜している。だが、本書の後段で著者も述べているように、「絶対の真理」や「絶対者」の存在を前提にしていて「答え」がひとつでなければならない宗教とは異なり、仏教が投げかけるのはあくまでも「問い」であって、それに対する答えの出し方は様々なのだから、著者なりの仏教論があっていいのではないか。読者の一人として、少なくとも私はそれを楽しませていただいた。

 「苦」、「無常」、「無我」、「縁起」、「因果」、「業(ごう)」、「空」・・・。仏教書を読めば必ず出て来るキーワードに関する著者なりの説明も、なかなか興味深い。普段から明快な文章を得意とする著者の手にかかっても、様々な比喩を用いながら理解のヒントを提供するという手法を用いざるを得ず、言わんとしていることを読者はそこから懸命につかみ取ろうとするしかないのだが、そもそも仏教とはそういうものなのだろう。「不立文字」にして「教外別伝」なのだから。
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 本書のクライマックスは、「『悟り』―それは『開けない』」と題された章である。

 まず、「煩悩」とは何か。それを「本能的な直接性を失って、それが『意識』と『言葉』を持つ人間における欲望として発現する」ものと説く。本能としての「空腹を満たすこと」と煩悩としての「美味しい」とは別物で、前者は物理的に満腹になればそれで終わりだが、後者には際限がない。同じ理由で、「所有」に対する欲求も「煩悩」の最たるものだろう。

 そこで、「煩悩にとらわれた凡夫がブッダの教えに従って修行して、悟った結果、煩悩をコントロールするか、煩悩を滅して解脱し、最後は涅槃に至る」という仏教のプロセスが始まるのだが、多くの場合、修行と苦行を混同し、或いは修行それ自体が自己目的化し、目指すところの「悟り」とは何かを取り違えているという。

 「人間の『煩悩』や『欲望』が意識や言語に深く浸透されている」のであれば、煩悩による苦しみは「『私』という在り方(=『私』という言葉を使う実存)でいる以上は決して解決し」ない。ならば「問題の解決は『欲望』の消去ではなく、欲望する『私』の解消、或いは改造」、言い換えれば「『無常』であるにもかかわらず、それ自体で存在していると思い込むような『私』の錯覚を解消すること」になり、そのために座禅や瞑想などの修行方法が伝えられて来た。

 しかしながら、「そのような修行が結果的にもたらす心身状況を特別視して『真理』と考え、結果的に『実体』化すること」は避けねばならないという。修行によって得られる一種の恍惚感を以て「悟った」などとしてはいけないということだ。これは「決して完結しない修行」であって、道元が言うところの「悟った上にも悟る(悟上得悟)」という姿勢が肝要だというのである。

 そして、その修行としての「座禅」。道元の「只管打坐」という言葉がつとに有名だが、著者によればこれは「ただ坐る」という意味で、「『悟り』のための座禅を否定する言葉」だという(!)。座禅を重ねて行くと次第に感覚が開放され、身体の内外を区別する感覚が曖昧になって、やがては「非思量」という、自意識が融解してしまう状態になるそうなのだが、それでも「ただ、そうなる――というだけのこと」で、それがブッダ本人の到達した境地と同じかどうかを決める根拠は一切ない、と突き放している。本書の表題である「『悟り』は開けない」とは、そういう意味なのだろう。
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 然らば、歴史的事実としてはゴータマ・ブッダの死を意味する「涅槃(ニルヴァーナ)」とは何か? 「悟りの境地」とは、要するに「死」と同じことなのか?

 例えば“唯一絶対”の神によって「自己」の存在が与えられ、その「自己」を実体のあるものと考えるならば、「『自己』のうちに『自己』であることを根拠づける不変の何ものか」、つまり「『霊魂』のようなもの」の存在を想定することになる。ならば死とは生きている世界から(霊魂が)移動するだけで、それが最終的に天国へ行くのか地獄へ行くのかはともかく、「自己」の存在は永遠に変わらない。それが「古今東西、最も一般的な死の考え方」だと著者は言う。

 それに対して仏教では、自分の死を自分で語ることは誰にも出来ないのだから、死が何であるかは絶対的にわからないものだとしたうえで、生と死は対立概念ではなく、「『生きている』とは『死んでいくこと』」であり、「死に侵された生こそ『自己』が実存することの『無常』」と考える。とすれば、「『自己』が生きる意味(=『自己』の存在根拠)を欲望し続けることを止めてしまえば、死も無意味になる」わけで、「無意味でわからない死を、無意味でわからないまま受容すること」「その無意味を怖れることも、その無意味に憧れることも、無視することも欲望することもなく、ただ受容する態度が、『死』を『ニルヴァーナ』に転換する」のだという。さすがにここまで来ると、凡夫の私にはまだ十分に呑み込めていない、というのが正直なところではある。
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 では、座禅という修行を重ね、「自己」の実存への欲望を滅することが出来たとして、その先はどうするのか。実践することが最も重要とされる仏道は、畢竟何のためにあるのか。そのことへのキーワードとして、筆者は「他者の受容」を挙げている。

 既に述べたように、死が何であるかは絶対的にわからない。それと同じく、我々には絶対にわからないのが「他者」である。絶対的にわからない死を「わからないもの」として受け入れることは、やはり絶対的にわからない「他者」を「わからないもの」として受容することと根底で繋がっているのだと、著者は説明する。

「まず座禅という方法によって『自己』の無根拠さを自覚する。この自覚において、『自己』がそれ自体で存在するのではなく、『他者から課された自己』という構造で存在していることを認識する。このいわば『自己』の初期化から、再度『他者』といかなる関係をつくり出し、それによってどのように『自己』をプログラムし直して起動させるかを問う――。」

 このことを著者は「『自己』を『他者』に向かって切り開く」とも表現している。他者との対話を成り立たせ、「他者との間に利害損得とは別の関係をつくり出」し、「自他に共通の問題を発見して、一緒に取り組む」こと。そして、「仮にその行動から利害が生じるなら、そのときは一方的に自分が他者に利を譲る覚悟をする」こと。それが仏道だというのである。

 考えてみれば、「我思う、故に我あり」という西洋の啓蒙主義を土台にして近代資本主義が勃興し、その資本主義の枠組みの中で経済効率の更なる向上を日夜追い求めることが世界のスタンダードになってから、もう既に久しい。けれども、とりわけ1990年代以降の米国で金融とITが興隆して以降、世界は大きな金融危機を度々経験する一方で所得格差は拡大の一途を辿り、行き過ぎた資本主義経済がもたらす弊害はもう誰の目にも明らかである。資本主義の原動力は「我思う・・・」どころか、今や「我所有する、故に我あり」だ。こうして資本主義経済と市民社会、議会制民主主義との間のバランスが崩れてしまったことが、移民・異教徒・富裕層などへの激しい憎悪を呼び、世界各国はテロの横行に揺れている。

 そのような風潮の中で、著者が説明するような仏道の実践は極めてハードルが高いと言わざるを得ないし、まずは修行を続けて「自己」を求める欲望の解消を図るというのは、いかにも遠回りなアプローチであるようにも見える。それこそ、ブッダの言うように「犀の角のように独り歩む」覚悟が要ることだろう。しかしながら、中庸と寛容の精神を持って他者を受容するこうした仏道の実践でも行われない限り、このまま行けばこの世は利害が衝突するばかりの本当にとんでもない世界になってしまうのではないかと、本書を読み終えてからその思いを新たにした。
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 同じ日の夜、日経新聞の夕刊に目を通していると、シンクタンク出身で現・法大教授の渡部亮氏がコラムにこんなことを書いていた。米国では、日本では考えられないような超高所得の資産家や企業家が誕生し、その政治献金によって連邦議会議員に圧力をかけ、自らの利権擁護を図っていることについての評論である。具体的には、高所得者からの圧力を受けて、社会福祉関連支出を削減し、その分を高所得者の減税に充てようと、トランプ政権が医療保険制度改革法(いわゆるオバマケア)の廃止を議会に上程。しかしながら、低所得者の医療費負担増が自らの票田に影響する民主党と共和党穏健派がこれに反対、その他の税制改革法案も滞っていることを指している。

 「表面上これは政治問題だが、その背景には経済の論理が民主主義の論理を圧倒してしまったという事情がある。経済成長や利益追求を優先した結果、繁栄の基盤であった議会制民主主義や健全な市民社会が危機に瀕している。低所得者向け減税や社会福祉支出などの所得再分配政策を行わないと、米国の社会的混乱は激化するであろう。
 資本主義は所得格差や金融危機といった弊害を生みやすい。民間の利益追求の行き過ぎを政府が制御する必要があるが、経済的利権がらみのイデオロギー対立によって制御不可能になっている。」
(2017年8月16日付 日本経済新聞夕刊 『十字路』より抜粋)

 私たちは、この日本をそんな国にしてしまってはいけないのである。

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仏の国の通史 [美術]


 8月11日(金)、今年から始まった「山の日」のおかげで、お盆休みを合わせると会社は来週の水曜日まで6連休だ。

 私は今年の4月下旬に開腹手術を受け、今はまだそこからの養生過程にあるので、山の日といっても山歩きはまだ封印中である。もっとも、この夏は特に8月に入ってから天候不順が続いており、東京では何だかんだ毎日雨が降っている。この時期に山へ行っていたとしても、山頂から一望千里という訳にはいかなかっただろう。

 この日は夕方から家内と上野に出かけ、東京国立博物館で開催中の日タイ修好130周年記念特別展『タイ ~仏の国の輝き~』に足を運んでみた。

 私が1996年から2003年まで香港に赴任していた間、仕事でも家族旅行でもタイにはよく出かけたものだ。独特の民族文化を今も色濃く残した非常に特徴のある国で、どこへ行っても食べ物は美味しいし、暑さの中で万事ゆったりと物事が動いていく感じが好きだった。そして、私たち日本人にも親しみのある仏教が今なお非常に盛んだが、それは我が国のものとは随分と有り様の異なる仏教で、そこが何ともエキゾチックである。そんなタイに残された仏教美術の名品を通じて同国の歴史と文化に触れるという企画。東京メトロの車内で盛んに流れる広告を最初に見た時から、これは行こうねと家内と話していたのだった。

 東京国立博物館は毎週金曜日が21時閉館なので、遅い時間からでも展覧会を楽しめる。この日、私たちは17時半過ぎに入場。祝日の夕方だが、世の中はお盆の帰省の初日ということもあってか、博物館の中はガラガラで、実にゆったりと展示物を鑑賞することが出来た。
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 特別展の鑑賞を始めて感心したのは、展示物の説明と共に、タイという国の歴史そのものに関する説明が実にわかりやすいことだ。

 家に帰って高校時代の世界史の教科書をひっくり返してみると改めて気付くのだが、タイを含めた東南アジアの歴史に関する教科書の記述は、さながら中国史とインド史の谷間にすっぽりと落ちていて、極めて断片的にしか述べていない。だから、私自身も極めて不勉強なことに、タイという国の通史を全く理解していなかった。東南アジアにあって帝国主義の時代に欧米列強の植民地にならなかった唯一の国、という断片的な知識がかえって邪魔をして、遥かな古代からタイ人の王国が連綿と続いて来たかのようなイメージを勝手に持ってしまっていたのである。

 ところが、タイの地理を改めて整理してみればわかるように、この国の北部はユーラシア大陸の一部でインドシナ三国やミャンマーと陸続きだ。そして南部のマレー半島から南はマレーシアやインドネシア、そしてフィリピンなど島嶼部の多い国々との船での往来が古来盛んで、それはインドと中国を結ぶ海上交易のルート上にある。だから、古くはヒンドゥー教、その後はイスラム教の文化が入り込み、民族的にも華僑や印僑のプレゼンスが大きい地域だ。要するに、極東の島国に住む私たちとは比べ物にならないほど、タイは歴史上、周辺の民族に揉まれ続けて来たのである。

 チャオプラヤ川の肥沃なデルタが広がるタイの平野部には、BC36世紀にも遡るという世界でもかなり早期の農耕文明が興り(世界遺産にもなった遺跡あり)、AD6~11世紀にかけてチャオプラヤ川沿いのタイ中央部から北部にかけて都市国家が成立。これが世界史の教科書にも一応名前だけが載っているドヴァーラヴァティ王国である。これを形成したのはモーン族という、古くから東南アジアに居住していた、肌が浅黒くて目がギョロッとした民族だそうだ。
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 ついでながら、タイ国政府観光庁のHPには
「かつてはタイ族の起源は中国から南下した民族であるとされていましたが、以上のような先史時代の遺跡、またドヴァーラヴァティ王国やクメール王朝などの史料から、現在その説は否定されています。」
という風にきっぱりと書かれているところが面白い。「俺たちは中国人の末裔なんかじゃないぞ!」という気概を見せているようで。

 そのドヴァーラヴァティ王国では上座部仏教の信仰が篤く、造営された数多くの寺院に法輪が造られたという。「車輪が転がるように仏陀の教えが広まることを意味する」法輪が盛んに造られたのはこの王国の大きな特徴なのだそうだ。
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(7世紀に造られた法輪)

 その後、7世紀頃から現在のカンボジアでクメール族の王国が隆盛になり、ドヴァーラヴァティから独立して9世紀にはアンコール朝が成立。11世紀には強大になってタイ中央部も勢力下に治める。有名なアンコール・ワットが建設されたのは12世紀初めのことである。(このアンコール・ワットに象徴されるように、クメール族はなぜかヒンドゥー教の強い影響を受けていた。)
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 しかしアンコール朝の繁栄も長くは続かず、中国を支配したモンゴル人のの勢力がインドシナにも及び始めると、アンコール朝の支配下にあったタイ族が玉突きのようにして雲南地方から南下。13世紀前半にタイ中北部を支配してクメール族の勢力を駆逐する。こうして成立したのが、タイ族初の王朝となるスコータイ朝だ。「幸福の生まれ出ずる国」という意味を持つこの王朝下では上座部仏教に基づく仏教文化がいよいよ栄え、タイ語の文字や文学が生まれるなど、現在にも繋がる「この国のかたち」が形成されていく。日本でいうと鎌倉時代の初期にあたる。
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 特別展に展示された14~15世紀のこの王朝下の仏像は、私たちが一般的に持っているタイの仏教文化のイメージそのものではないだろうか。
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 その後、14世紀半ばになると、スコータイの南にアユタヤ朝が成立。これがスコータイを併合し、東のクメール王国にも侵攻して首都アンコールを陥落させる。以後400余年の間、この王朝は国際交易国家として栄え、秀吉・家康の時代には朱印船貿易に携わった日本の商人たちもここに集い、日本人町も誕生した。言うまでもなく山田長政(1590~1630)が活躍した時代である。(日本人町に集まったのは商人だけではなく、戦国時代末期に主君を失った浪人たちが傭兵として海を渡ったケースも多かったのだ。)
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(薙刀を持っているのが日本人義勇兵)

 しかし、アユタヤ朝はその成立以降、西に隣接する現在のミャンマーを支配していた王朝と何度も戦火を交えた。その中で1765~1767年にかけて起こった戦争で首都アユタヤは陥落し、街はミャンマー軍によって徹底的に略奪・破壊され、アユタヤ朝は完全に滅亡してしまった。

 私は香港駐在時代に家族を連れてアユタヤを訪れたことがある。石造りの仏教遺跡の数々を巡り、それらがミャンマー軍によって破壊されたという説明も受けたのだが、まるで古代遺跡のように風化したその様子から、ミャンマーとの戦争とは、例えて言えばポエニ戦争(ローマvs.カルタゴ)のような古い話なのかと恥ずかしながら思っていた。しかし、それが18世紀の戦争だったとすれば、それなりに砲火(少なくとも銃火)を交えるような戦争だったのではなかろうか。
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(アユタヤの遺跡の一つ、ワット・プラシーサンペット)

 このアユタヤ朝滅亡のあたりから、世界史の教科書においてタイに関する記述はなくなり、その次は帝国主義時代の列強諸国による東南アジアの植民地化の話まで飛んでしまう。だが実は、1767年のアユタヤ朝滅亡の後、15年間の争乱を経る中でタイ族の勢力はミャンマー軍を再び撃退し、1782年にチャオプラヤー・チャクリーが内乱を鎮めてラーマ1世として即位。これが現在も続くラッタナコーシン朝(またはバンコク朝)である。

 その後、19世紀半ばに王位にあり、映画「王様と私」で有名なラーマ4世の時に清朝への朝貢を止めて冊封体制から脱し、西洋との自由貿易を開始。続くラーマ5世の時代に数々の近代化政策が実施された。因みに、今年で「日タイ修好130周年」という1887(明治20)年の日タイ修好通商宣言は、このラーマ5世の外交政策の成果物なのである。

 首都バンコック最大の観光地の一つである「エメラルド寺院」は、ラーマ1世の時代に建てられたものだ。予備知識を何も持たずに行くと、奈良や京都の名刹のように古いものと考えてしまいがちだが、実は日光の東照宮より150年以上も後に建てられたもので、タイの歴史の中ではかなり新しい存在なのである。
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(Google Earthで俯瞰した「エメラルド寺院」)

 仏像を鑑賞するというよりも、私の場合は今回認識を新たにするになったタイの通史の方に目が行ってしまったが、こういう機会に学び直すことが案外あるものだと思った。タイの通史をもう少しきちんと頭に入れていたら、香港駐在時代に何度も足を踏み入れたあの国の姿をもっとまともに見つめることが出来たかもしれないという大きな後悔も含めて。人間、還暦を過ぎてもなお、まだ知らないことだらけだと痛感している。

 いつもなら東京国立博物館の特別展は黒山の人だかりなのに、「山の日」の夕方に訪れた今回は入場者も少なく、展示室のソファーからもゆっくりとタイの仏様の微笑を鑑賞することが出来た。金曜日の夜に行くのはおススメである。

 外に出ると日没後の残光がそろそろ消えようかという頃で、本館のライトアップが美しかった。

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Fさんを悼む [自分史]


 8月9日(水)、ここ最近にしては少々遅くまで会社に残っていた。還暦を過ぎたこの歳になっても、どうしてもその日の内にやっつけておかねばならない仕事というのが時にはあるものだ。集中してPCに向かっているうちに、つい時を忘れてしまった。

 帰宅してシャワーを浴び、晩飯をつまみながら日経新聞の夕刊に目を通していると、直近の物故者に関する追想記事が2面に載っていた。そして、そこにあった顔写真を見た次の瞬間、もう30年近く前の遠い記憶が私の中に次々と甦り始めた。その写真は、私が30代のまだ前半だった頃にロンドンの現地法人でお世話になったFさんの、トレードマークとも言うべき笑顔だった。そのFさんが亡くなられたのは約2ヶ月前、今年の6月半ばのことである。
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 ロンドンの金融街、シティ。その南端にあるCannon Street駅で地下鉄を降りて、私が現地法人のオフィスに「初出勤」をしたのは、1988年4月25日(月)の朝のことである。その日から一年間、私は東京の本社からの業務トレーニーとして、そこにお世話になることになっていた。当時の私は新卒入社の8年目。前々年の5月に結婚し、前年11月には長男が生まれたばかりだった。

 当時の会社には「勤務地希望調査」という制度があって、各々の社員が現在の部署で仕事を続けたいのか、或いは異動の希望があるのか、後者の場合にはどんな分野の仕事をしたいのか、その希望を(一応ではあるが)職制を通じて人事部が定期的に吸い上げる仕組みになっていた。以前の部署で海外とはおよそ無縁な仕事を4年近く続けていた私は、この勤務地希望調査で「国際業務」と「市場関連業務」に手を挙げていた。その数年前から私の会社が属する業界では、外圧によって規制緩和が段階的に始まっており、会社としても国内の伝統業務ばかりに拘ってはおられず、「海外」と「市場」にも強くなる必要があった。そういう時代が早晩やって来るのなら、私も若い内にそれを経験しておきたかったのである。

 そんな希望を出していた私を、当時の部署の部長であったIさんは精一杯後押しして下さったようだ。その結果、1988年2月の中頃に人事部から異動の内示が私にあり、4月からロンドンの現地法人で一年間の業務トレーニーに出よとのこと。

 そのロンドン現法とは、規制緩和が日本で今後も更に進み、業界と業界を隔てる垣根が取り払われた時のために、既にそうした規制のない英国で垣根の向こうの仕事の経験を積んでおくことを目的に、1970年代に設立されていた。垣根の向こうとはまさにマーケットを相手にする業務。ならばロンドン現法での業務トレーニーとは、要するに「国際業務」と「市場関連業務」を同時に勉強して来いという訳だ。あまりの「願ったり叶ったり」に、私はしばらく茫然としてしまった。

 異動の内示を受けて、改めて部長のIさんに挨拶をすると、
 「いやあ、おめでとう!ロンドン現法の社長はF君だろう? 君のことを宜しくって、今度手紙を書いておくよ。」
と言って下さった。「筆まめ」で有名だったIさんも、ロンドン現法を率いる社内きっての国際派Fさんも、共に私が卒業した高校の大先輩だった。

 Bank of Englandからは目と鼻の先にある大きなビルの上層階。その社長室で初めてFさんと対面した。眼光鋭く、極めて理路整然とした語り口、しかし人柄は実に穏和で、その人懐っこい笑顔が大きな魅力、というのが私の受けたFさんの第一印象だった。

 「私は入社してから7年間、ずっと国内の仕事ばかりしていたので、『海外』や『市場』はまだ何にも知りません・・・。」
 「だからトレーニーとして来たんでしょ? 遠慮することはない。わからないことは先輩たちに何でも質問してみなさい。皆忙しそうにしてるけど、聞けばちゃんと教えてくれるから。聞けるのは今だけだよ。」

 Fさんにそんな風に励まされて、ともかくもロンドンでの私の第一歩が始まった。
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(ロンドンの金融街・シティ)

 ロンドン現法は、日本からの派遣社員が20名、現地スタッフが約200名の大所帯だった。それにもかかわらず、社長のFさんは現地スタッフ一人ひとりの顔と名前をよく把握しておられ、オフィスの中では分け隔てなくあらゆるメンバーと気さくに接しておられた。最近の言葉でいう「上から目線」とはおよそ無縁の人で、いつも私たちと同じ高さから語り掛け、多くのヒントを与えて下さったのである。

 そして、「弁舌爽やか」とはこの人のことを言うのかと思うほど、実に明快で説得力のある話し方。しかもFさんの英語は日本語のそれと同等かそれ以上に雄弁で理知的なのだ。わかりやすくて知的だから誰もがFさんの話を聞きたがり、誰とも気さくに接してくれるから日本人・外国人を問わずFさんの周りには自然と人の輪が出来る。それがFさんのお人柄だった。Fさんを知る人はおそらく全員が、こんな所に限りない魅力を感じていたはずである。短い期間ではあったが、ロンドン現法の末席のそのまた末席からFさんの薫陶を受けたことは、私にとってかけがえのない財産になった。

 1988年といえば、その頃の日本は空前の株価バブルに酔っていて、いわゆるジャパン・マネーがロンドン市場を席捲していた。株価が上がるからワラント債の発行ラッシュで、ロンドンでは毎週のように日系銘柄のワラント債の調印式が開かれていた。そのおかげで現地の日系社会も羽振りが良かったのだが、その年の夏を過ぎると昭和天皇の容態悪化が本国から連日伝わるようになり、「歌舞音曲の自粛」はロンドンにも及び始める。日系企業の派手なパーティーなどは潮が退くようになくなった。

 そんな中、Fさんが6年にわたる現法社長の任務を終えて東京の本社に帰任されることになった。10月の終わり頃だっただろうか、自粛ムードの真っ只中で私の会社は現法社長交代パーティーを敢えて開き、歴史のあるロンドンのホテルに多くの取引先・関係先を集めた。無論、日系社会のためだけのパーティーでは全くなく、極めてオーソドックスな内容だったから、何ら誹りを受けるようなものではない。そして会場では日本人・外国人を問わず、実に多くの人々がFさんとの別れを惜しんでいた。
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(Fさんの社長交代パーティーが開かれたロンドンのホテル)

 それから、歳月は流れた。本社に帰任されたFさんは当然のように役員に選ばれ、最後は会長にまでなられた。そして私が香港に駐在中の、あれは2001年の初夏の頃だったと思うが、Fさんが中東への出張の帰りに香港に寄って下さったことがあった。おそらくフライトの乗り継ぎの関係で香港経由の帰国になって、それなら会社の拠点に寄ってみようということになったのだろう。

 本社の会長が来るともなれば、拠点長が空港まで出向き、会長様御一行をお迎えして道中をご案内するのが普通なのだろう。だが、お伴も連れず我が身一つで中東を歴訪されていたFさんは、香港拠点長のMさんに予めこう伝えていたという。
 「香港での出迎えは要らない。空港に車を回して、ドライバーがわかるようにだけしといてくれればいい。後は自分でホテルにチェックインしてからオフィスへ顔を出すよ。」
 実際にそうやってFさんは独り飄々とオフィスに現れたと、後になってMさんの秘書が語っていた。

 拠点長のMさんがFさんを連れて、オフィスの中を一回り。現地スタッフ達と打ち合わせをしていた私たちの部署のドアが開いた。
 「ここはプロファイのチームで、あそこにヘッドのK君が座っていますよ。」
Mさんの声が聞こえた次の瞬間、私は10年ぶりぐらいにFさんと目が合った。

 「あっ、Fさん。すっかりご無沙汰しています!」
 「いやあ、どうも暫く。それにしても君、相変わらず血色が良くて元気そうだねえ。」
 「ありがとうございます。まあ、ご覧の通りの酒池肉林の香港ですから、おかげさまで栄養だけは足りてます。(笑)」

 Fさんの近くへ行って挨拶をした私は、半袖ポロシャツにチノパン、首から携帯電話をぶら下げた全くの現地スタイル。今日はFさんが来られるから背広にネクタイ、という発想は私たちにはなかった。そして、Fさんもお互いにフランクな接し方を寧ろ好まれた。

 ついでながら、ここまで「Fさん」と綴って来たように、私の会社では人を肩書では呼ばないのが伝統だった。上下の垣根が低く、虚礼が実に少なく、相手が部長だろうが役員だろうが「〇〇さん」と呼んで、社内ではどこでも自由闊達な議論をしていた。そして、Fさんはまさにそういう社風を象徴するような人だった。

 翌日の朝はFさんが宿泊していたホテルに集まり、6人ほどでFさんを囲む朝食会。ここでも和気藹々と色々な話題に花が咲き、相変わらずのFさんの人を惹きつけるお話を皆が楽しく拝聴することになった。どんなに偉くなられても決して威張るところのない、気さくなFさんのお人柄は本当に昔のままだった。
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 その翌年の春、私の会社と他2社との合併が正式にスタートした。以前の会社としては最後の会長となったFさんは、その合併を機にご退任。程なく外資系企業の日本法人の会長へとスカウトされた。内外に知己の極めて多かったFさんのことだから、まさに引く手数多だったのではないだろうか。

 だがそれから数年を経て、Fさんは病魔に襲われることになった。それも、英国の高名な物理学者スティーヴン・ホーキング博士と同じASL(筋萎縮性側索硬化症)という原因不明の難病だった。筋肉の萎縮と筋力の低下が進んでいく病気で、Fさんはやがて言葉を発することが出来なくなった。スカウト先の会長職を辞されたのは致し方のないことだった。

 あの弁舌爽やかなFさんが言葉を話せなくなってしまった。周りの者でさえ何とも残念に思ったのだから、ご本人にとってはさぞかし不本意なことだったろう。けれどもFさんはそれを筆談にかえ、やがてそれも出来なくなると視力入力のパソコンなども駆使して、世の中に色々なことを発信し続けたという。最新の技術に常に興味を持ち、病床にあっても常に前を見続けておられた。

 「病床で書いた英語のスピーチの表題は『A POSITIVE LIFE』(前向きな人生)。これ以上にFさんをよく表している言葉もない。」

 日経新聞の追想録は、こう結んでいる。

 以前にも書いたことだが、私はこの春に初期の膵臓癌が見つかり、4月の終わりに開腹手術を受けた。それから3ヶ月が経過した今の時点で、体の回復具合は想定の範囲内にあり、各種の検査を通じて現時点で転移は見られないとの医師の話だ。そして、将来の転移リスクを可能な限り減らすべく、今月からは抗がん剤の服用が始まっているが、その副作用との兼ね合いを図って行かねばならず、将来のことも考えると、まだまだ不安は拭えないというのが本音のところだ。けれども、難病の中にあっても終始前向きであり続けたFさんの写真を眺めていると、癌の一つぐらいでクヨクヨしていてはダメなんだと、あの忘れようもない笑顔がそう教えてくれているように思う。
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 2017年6月19日没、80歳。Fさんの「お別れの会」は、お盆明けの8月21日に東京のパレスホテルで行われるそうである。

 合掌

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帝都の治水(補遺) [散歩]


 前回は昭和5年に竣工した東京の荒川放水路について書いてみた。
 http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2017-07-29

 その関連で、週末の散歩がてらに見て歩いたことのいくつかを、補遺として残しておくことにしたい。

 JR総武線・亀戸駅の北口に出ると、南北に走る広い道路が明治通りだ。その明治通りの一本東側の細い路地を北に向かう。この路地はいかにも駅裏の飲み屋街といった感じで、今は土曜日の午後2時前だが、餃子屋の前には行列ができ、もうもうと煙を上げるモツ焼き屋は昼間っから繁盛してそうだ。

 なおも直進し、自動車通りに出たところで右折。そこから300mほども歩くと、道の左側に小さなお社がある。それが亀戸水神である。有名な亀戸神はここから蔵前橋通りに沿って西へ1kmほど行ったところだ。天神様は言うまでもなく菅原道真公のことだが、この亀戸水神のご祭神は弥都波能売神(ミズハノメノカミ)という神様である。
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 日本神話ではイザナミが数々の「神産み」をしたことになっているが、ミズハノメノカミはイザナミの尿から生まれた女神で、水を司る神様だという。神社の御由緒によれば、室町時代末期の1521~46年頃の創立で、このあたりを開墾した土民が水害を防ぐために堤防を築き、大和国吉野の丹生川神社からこの神様を勧請したことがその始まりなのだそうである。(亀戸天神の創立は江戸時代に入ってからのことだから、亀戸では水の神様の方が先輩格になる。)
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 地図を見ると、ここは旧中川と隅田川に東西を挟まれた土地だ。旧中川は幾つにも蛇行した、いかにも増水時には暴れそうな川で、徳川家康が大規模な治水工事を行う以前には利根川の水も東京湾に流れ込んでいたから、水害は繰り返されたのだろう。また、江戸時代の初期に水路として旧中川と隅田川を結ぶ北十間川が開削されたが、隅田川の氾濫時には水が逆流して被害が広がったそうである。20世紀に入って荒川放水路の開削が行われた背景の一つとして、隅田川の下流では室町時代から治水の重要性が認識されていたということを、ここでは押さえておきたい。
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 水神様に二礼二拍手一礼を済ませた後、神社への参道だったと思われる道路を200mほど進むと踏切があり、その右手にはカーブの途中に作られた駅がある。東武亀戸線の亀戸水神駅だ。週末の昼間は10分間隔のダイヤで二両連結の電車が亀戸・曳舟間3.4kmを往復する、東京23区内にありながらローカル色の濃い路線で、私自身も乗車するのは今回が初めてになる。けれども、東武亀戸線の開業は1904(明治37)年と、非常に早い部類のものだ。世が世ならば、これが東武鉄道の本線になっていた可能性もあるのだが、そのあたりの経緯についてはまた別の機会に纏めてみることにしよう。
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 亀戸線の電車に乗って曳舟駅で伊勢崎線の普通列車に乗り換え、そこから二つ目の鐘ヶ淵駅で下車。前回見たように、この鐘ヶ淵駅から次の堀切駅にかけては、荒川放水路の開削に伴って東武伊勢崎線のルートが変更になった箇所である。
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 1902(明治35年)に東武伊勢崎線の吾妻橋(現・とうきょうスカイツリー駅)・北千住間が開業した時には、鐘ヶ淵駅から緩やかな左カーブで荒川放水路の中央近くまで張り出した上で放水路の右岸に戻るルートになっていたのだが、新ルートは鐘ヶ淵駅から左急カーブを切って荒川放水路の土手に迫り、その土手に並行して暫く走った上で、再び左急カーブで従来のルートに戻ることになった。だから、鐘ヶ淵駅は上り線ホームの全体と下り線ホームの北端がその急カーブの中にある。
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 駅を出て線路の東側の路地を歩いて行くと、程なく荒川の土手に上がる道がある。そこから鐘ヶ淵駅を眺めてみると、確かに線路が急カーブで土手に迫っていく様子がわかる。
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 線路は土手の法面(のりめん)ギリギリまで近づいてから土手に並行した直線部分を形成しており、荒川放水路の開削計画と折り合っていくためには、こうするより他はなかったと思わざるを得ない。
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 このルート変更がなければ旧線の線路があったであろうあたりには野球場が整備され、球児たちの声が広い空に響き渡っていた。
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 線路を下に眺めながら土手沿いに1kmほど歩くと、頭の上を高速道路が横切る所に隅田水門があり、荒川から隅田川へと通じる水路が現れる。昔の綾瀬川の地形を利用したもので、この地点では荒川と隅田川に挟まれた陸地は400mほどの幅しかない。
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 そして、この水門の直ぐ先に現れるのが堀切駅だ。荒川の土手に沿った線路の直線部分が終わり、左カーブで元々のルートに戻ろうとする地点にあるため、ホーム全体が急カーブの中にある。
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 上り線ホームからの出口(=東口)は荒川の土手に面した一ヶ所だけ。自動改札を出て15段の階段を上ると川の堤防の上に出るなどというのは、東京23区内ではこの駅だけではなかろうか。こういう「寂れた感」が悪くない。
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 そして、下り線ホームの駅舎が実にレトロでいい。東京を遠く離れたローカル私鉄のような雰囲気だ。辺りには商店一つなく、実にひっそりとした駅前である。
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 ところで、作家・永井荷風(1879~1959)は、かつて荒川放水路の左岸を川上から川下へ散歩した時の様子を、以下のように記している。

 「西新井橋の人通りは早くも千住大橋の雑沓を予想させる。放水路の流れはこの橋の南で、荒川の本流と相接した後、忽ち方向を異にし、少しく北の方にまがり、千住新橋の下から東南に転じて堀切橋に出る。橋の欄干に昭和六年九月としてあるので、それより以前には橋がなかったのであろうか。あるいは掛替えられたのであろうか。ここに水門が築かれて、放水路の水は、短い堀割によって隅田川に通じている。
 わたくしはこの堀割が綾瀬川の名残りではないかと思っている。堀切橋の東岸には菖蒲園の広告が立っているからである。」
(『放水路』 永井荷風 著、昭和11年4月)

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 荷風が「綾瀬川の名残りではないか」と推測した短い掘割に築かれた水門は、先ほど通り過ぎた隅田水門のことだ。他方、堀切橋については若干の説明が必要になる。

 1902(明治35)年に東武伊勢崎線の吾妻橋・北千住間が開業した時に、堀切という駅は旧ルート上、つまり今は荒川の河道になっている箇所のどこかに設置されていたのだが、僅か3年後の明治38年に客扱いが休止となり、更に明治41年には廃止されてしまった。止まったり発車したりを頻繁に繰り返すことに向いていない蒸気機関車にとって、鐘ヶ淵・堀切間の距離が短すぎたというのが理由とされるが、利用者が少なかったこともあったのではなかろうか。

 それが、1924(大正13)年に荒川放水路の開削に伴う東武伊勢崎線のルート変更の際に電化も完成し、先ほど見た場所に堀切駅が復活することになった。その時に、地元の要望があって駅の近くに荒川放水路を渡る堀切橋が架けられた。それが荷風も見た初代の堀切橋だ。(先ほど見た、頭の上を越えて荒川を渡る首都高6号向島線の高架橋とほぼ同じ位置にあったようである。)そもそも堀切という地名は荒川放水路の対岸、つまり現在の葛飾区側のものであり、その堀切地区の人々にとって、かつての最寄り駅が今度は川向こうになってしまった。だから堀切橋が新たに架けられたのである。
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 ところが、その後の1931(昭和6)年に京成電鉄が上野線(日暮里・青砥間、現在の京成本線)を開業し、荒川放水路の右岸(葛飾区側)に堀切菖蒲園駅、左岸(足立区側)に京成関屋駅を開設すると、葛飾区側の堀切地区の人々も、足立区側の堀切駅周辺の人々も、都心に出るには京成電車の方が便利になり、東武の堀切駅は乗客を大幅に奪わることになってしまったという。そして、堀切橋自体も戦後になって250mほど上流の、現在の新堀切橋へと代替わりしている。今や、新堀切橋を渡って堀切駅を利用する人などは皆無であろう。
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(京成本線の全通後)

 堀切駅までやって来たところで雨が降り出した。曳舟や鐘ヶ淵で何人も見かけた浴衣姿の人々は、今夜の隅田川花火大会がお目当てだったのだろうが、ちょっと気の毒なことだ。私も傘を持っていなかったので、堀切のもう一駅先の牛田まで行き、そこから目と鼻の先にある京成関屋駅から京成電車に乗って都心へ戻ることにした。

 そのため、荒川放水路開削のために東武伊勢崎線がルート変更になったもう一つの箇所、つまり小菅・五反野間でJR常磐線をオーバーパスする部分については、今回は自分で見て歩くことが出来なかったが、実は戦後になって、このオーバーパスは俄かに注目を集めることになった。

 1949(昭和24年)7月5日朝、日本国有鉄道初代総裁の下山定則氏が公用車で出勤途上に失踪、翌7月6日未明に轢断死体で発見されるという事件が起きた。この死体が生体轢断なのか死後轢断なのかを巡って専門家の見解が分かれ、多くの自殺説・他殺説が飛び交う中、警視庁は捜査結果を発表することなく同年末に特別捜査本部を解散し、15年後には殺人事件である場合の公訴時効が成立。戦後最大の迷宮入り事件の一つとされる、いわゆる下山事件である。

 下山総裁は7月5日の朝、公用車で都内の自宅を出発。通常ならば午前9時前には丸の内の国鉄本社に出社するところを、この日は運転手に命じて日本橋・丸の内一帯を複雑なルートで周回。9時37分頃に三越百貨店前に停車させ、「5分位で戻る」と言い残して三越に入店、そのまま消息を絶った。

 その後、浅草行の地下鉄銀座線の車内や東武伊勢崎線・五反野駅で下山総裁と思しき人物が目撃され、午後2時から5時頃まで同駅近くの旅館に滞在。そして午後6時以降は五反野駅から南の東武伊勢崎線沿線で、同様の人物が複数の人間によって目撃されている。そして、日付が替わった7月6日の午前0時半過ぎに、国鉄常磐線の北千住・綾瀬間の下り列車用線路上で下山総裁の轢断死体が発見された。

 この時の死体発見現場が、東武伊勢崎線がJR常磐線をオーバーパスした地点から、綾瀬方の最初の踏切の手前までの場所であったそうである。(その後、現場付近の常磐線は高架になったので、同踏切は今はなく、道路との立体交差になっている。)
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 前日の出社前の下山総裁の不可解な行動。「影武者」によるアリバイ作りの匂いがする目撃情報(その一例として、自他共に認める愛煙家だった下山総裁が、現場付近の旅館に3時間滞在する間に一本の吸殻も残していないこと等)。轢断場所での血液反応の異様な少なさ。轢断した貨物列車の一本前に現場を通過した進駐軍専用列車の存在。下山総裁失踪の前日に国鉄が発表した3万7千人の従業員に対する整理(=解雇)通告。ソ連・中国との冷戦の激化を受けた米国の対日占領政策の「逆コース」化・・・。

 今もなお多くの謎が残る下山事件の現場は、今回その歴史を辿ってみたように、荒川放水路の開削計画がなければ今の場所ではなかったのだ。東武伊勢崎線のルートが旧線のままであったなら、今の五反野駅に相当する駅がその後に開設されていたのかどうか。そこに駅前旅館があったのかどうか。もしかしたら下山事件の発生現場は全く違う場所になっていたのかもしれない。

 歴史にifはないと言われるが、ついそんなことも考えてみたくなった。

帝都の治水 [歴史]


 記録的短時間大雨情報という言葉を、この夏はずいぶんと頻繁に聞くようになった。

 気象庁の「大雨警報」が出ている時に各地の気象台から発表されるもので、その雨が、
 ● 数年に一度しか起こらないようなもの
 ● 一時間に100ミリ前後の猛烈な雨が観測されたもの
というのが凡その基準になっているそうだ。

 2013(平成25)年から運用されているが、現在までの月別の発表件数を調べてみると、今年(2017年)7月の44件(但し26日現在)というのが断トツの数字になっている。やはり、「最近よく聞くなあ。」という印象と合っているのだ。8月・9月の台風シーズンを前にしてこれだから、今年は年間の発表件数が過去最高になるのではないか。
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 一時間に100ミリなどという途轍もなく激しい雨が降ると、直ぐに気になるのは河川の氾濫だ。雨量が多い上に総じて河川が急傾斜な日本では、昔から各地で水害の発生が年中行事のようなものだった。今夏も、九州北部豪雨の際に筑後川とその支流の氾濫が周辺地域に大きな被害をもたらし、直近では秋田の雄物川の氾濫が注目を集めたばかり。現代ですらそうなのだから、明治以前の日本では多くの地域にとって治水が何よりも重い行政上の課題であったはずである。そして、大雨のたびに暴れ川となる河川に橋を架けるのは大変な事業だったことだろう。

 幕末期に歌川広重が残した『江戸名所百景』を見ると、江戸の隅田川に架かる千住大橋・両国橋・新大橋などの様子が巧みに描かれている。橋はどうしてもそこに人が集まるから、色々な意味で要所になりやすい。中でも両国橋の西詰などは当時の江戸で最大の繁華街だった。
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 その一方で・・・と思うことが一つある。隅田川に架かる橋の周辺のこのような賑わいに対して、それよりも川幅の広い荒川の流域はどんな様子だったのだろう。空の上から眺め下してみると、東京湾に流れ出る数々の河川の中でも荒川は有数の大河で、特に河口近くの川幅が広い。それなのに広重の錦絵の中に荒川の様子がちっとも出て来ないのはなぜなのか。残されているのは「逆井の渡し」という、荒川の西を流れる小さな川の鄙びた風景だけである。
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 答は簡単で、広重の時代、いや明治時代を通してみても、東京の下町に荒川という河川は存在しなかったからである。

 1910(明治43)年8月というと、日本が大韓帝国を併合する韓国併合条約の調印を月末に控えていた頃である。梅雨前線の南下によって5日頃から雨が降り続いていたところへ、11日に房総半島をかすめて太平洋に抜けた台風と、14日に駿河湾から甲府、更に群馬県西部へと抜けた台風とによって関東各地に集中豪雨が発生。この結果各地で河川が氾濫し、東京も含めた関東南部は未曾有の規模の水害を被ることになった。明治43年の大水害と呼ばれるものである。

 奥秩父の甲武信ケ岳(2475m)直下を水源とする荒川は、秩父盆地を貫いて寄居で関東平野に出ると、熊谷付近から次第に南を向き、現在のJR川越線の指扇・南古谷間で入間川を合わせた後、概ね南東方向に東京湾を目指す川である。昔から河道が安定せず、増水時にはその名の通り暴れ川になることで有名だった。その荒川が、利根川と共に明治43年8月にも暴れまくったのである。

 「山間部では山崩れを発生させ、家屋や田畑、橋や道路などの埋没・流失を招き、そして川へ大量に流れ込んだ土砂や流木は、濁流とともに堤防を決壊させました。明治以降、荒川最大の出水となるこの洪水は、利根川の洪水と合わせて埼玉県内の平野部全域を浸水させ、東京下町にも甚大な被害をもたらしました。記録に残る埼玉県内の被害は、破堤945箇所、死者・行方不明者347人、住宅の全半壊・破損・流失18,147戸、床上浸水59,306棟、床下浸水25,232棟にものぼりました。」
(国交省関東地方整備局 荒川上流河川事務所HPより)

 入間川と合流した後、当時の荒川は今よりももっと大きく蛇行を繰り返しながら、東北本線・荒川橋梁あたりで現在の隅田川の河道を通っていた。つまり、この時代までの江戸・東京にとって、荒川=隅田川であり、千住大橋あたりまでを荒川、そこから下流を隅田川と呼んでいたのである。蛇行が多いのは普段の川の流れが遅い地形になっているからであり、大雨による増水時にはそれが氾濫の原因になった。

 「埼玉県内では、県西部や北部に人的被害が多く、床上浸水被害が県南や東部低地に多かったのが特徴です。交通や通信網も遮断され、鉄道は7~10日間不通。東京では泥海と化したところを舟で行き来し、ようやく水が引いて地面が見えるようになったのは12月を迎える頃だったそうです。」
(同上)

 この年の水害損失額は当時の国民所得の3.6%にあたる112百万円にのぼり、明治時代としては最大の水害であったという。あの荒川の水がそのまま隅田川に流れ込む構造になっていたのだから、大雨の際にこのような水害が起きるのは避けられなかったのだろう。だから、「江戸名所百景」に登場する隅田川も、実際には広重が描いたようなのどかな情景ばかりではなかったに違いない。
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(現在の墨田区役所付近の隅田川の洪水。川の対岸は山の手側。)

 この未曾有の水害を受けて、明治政府は素早く動いた。時の首相兼蔵相・桂太郎が大蔵省秘書官に直々に命じて予算面における治山治水計画の骨格を作らせ、それを内務省に持って行って15年計画の具体案を発案させたという。先に大蔵省が金の算段を済ませたものであれば、内務省の具体案も話が取りやすいという訳だ。この水害発生時に、桂自身は軽井沢の別荘で静養中だったという。ところが大洪水によって鉄道も電信も不通となり、桂は東京と連絡がつかないまま現在の信越線・篠ノ井線・中央本線経由で帰京せざるを得なかった。その道中で水害の様子を目の当たりにした桂は、治山治水を急がねばという意を強くしたそうで、実際に工事は翌明治44年から早速始まっている。

 水害を防ぐための治山治水計画の内、首都・東京における対策は何といっても荒川の水を隅田川から切り離すことであり、そのために4つの案が出されたという。
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(荒川の水を隅田川から分離する計画案-国交省関東地方整備局 荒川下流河川事務所HPより拝借)

 第1案は、千住大橋の下流側で隅田川を分流させる新たな河道を建設する案だ。工事区間が最も短くて安価だが、これより上流部分の水害予防策にはならず、メリットが少ない。

 これとは逆に第2案はもっと上流の、入間川との合流地点あたりから荒川を早くも分流させてしまう案である。確かに水害は防げるだろうが、新たな河道の工事区間が極めて長く、なおかつそれが東京・山の手の市街地を縦断せざるを得ないので、実現性には乏しい。

 第3案と第4案は基本的に同じで、赤羽の岩淵地区付近に水門を設置し、そこで荒川を隅田川から分流させて中川の河口に繋げるというものである。それが日光街道の宿場町・千住の北を経由するのが第3案、南を回るのが第4案という訳だ。結局は新たな河道用の用地取得が比較的容易な第3案が採用された。これが、今となってはその名を語られることもなくなった荒川放水路である。
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(明治42年の赤羽・岩淵地区。当時、今の荒川の流れはなかった)

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(現在の赤羽・岩淵地区)

 ところで、この明治43年の大水害の11年前の8月27日に、東京・本所区と栃木県足利町を結ぶことを創立の趣意とした鉄道会社が、北千住と埼玉県・久喜の間で鉄道の営業を開始していた。現在の東武鉄道伊勢崎線の黎明期である。同社の社史には、「2時間間隔で1日7往復の混合列車を運転した。」とある。(混合列車とは客車と貨車とを併結させた列車のことだ。) そしてその3年後には、鉄路は北千住から吾妻橋(現・とうきょうスカイツリー駅、つまりその時点での東京側の終点)まで伸びていた。(無論、電化はまだ先の話である。)

 明治42年(つまり大水害の前年)作成の地図で北千住付近の様子を眺めると、確かに現在の荒川は皆無で、隅田川の流れだけが存在している。そして、明治29年の暮に日本鉄道の土浦線として開業していた現在のJR常磐線の線路を、北千住駅の北方で東武鉄道がオーバーパスする様子が描かれている。(その構造は現在も同じなのだが、当時は両鉄道共に、あたり一面の田んぼの中に建設された築堤の上を走っていたことが、その地図から見てとれる。)
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 ところが、明治43年の大水害を踏まえた「荒川放水路」の建設計画が世に出されると、東武鉄道伊勢崎線のルートが2ヶ所で変更を迫られることになった。
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 その一つが、この「田んぼの中のオーバーパス」だ。大正8年作成の地図では、このオーバーパスが荒川放水路計画ルートの真ん中に位置していたことが明確にわかる。あたりの水田は既になくなったようだが、荒川放水路(の予定地)にはまだ通水がなされておらず、昔の道路がそのまま残っていたりしている。
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 この荒川放水路を避けるために東武鉄道がルート変更を行ったのは1923(大正12)年7月、つまり関東大震災の僅か2ヶ月前のことだった。今度は北千住の先から荒川放水路を鉄橋で渡り、小菅の監獄に最も接近したあたりで左カーブを切りながら常磐線を越えている。(勿論、常磐線も新たに鉄橋を建設し、僅かではあるがルートが変わった。) つまりオーバーパス地点が旧線より北東側に移り、そこから先も西新井駅までのルートは旧線より北東側に変更となったのだ。そして、翌1924(大正13)年10月に新ルート上で小菅・五反野・梅島の3駅が新たに開業している。

 もう一ヶ所のルート変更は、北千住から南の鐘ヶ淵駅までの箇所である。S字状の線形の内、右下の部分の膨らみが荒川放水路の中央部にまでかかってしまうので、鐘ヶ淵駅の北側で直ぐに左急カーブを切り、荒川放水路の土手の淵に沿って北千住に向かうルートに変更する必要があったのだ。そして、土手に沿って走る部分の北端に堀切駅を開設。それは上述の小菅・五反野・梅島の開業と同日であった。
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 1911(明治44)年から工事が始まった荒川放水路の開削。それは総延長22kmにわたって川幅455~582mの河道を開削するもので、そのルート上にある土地の買収の総面積は11平方キロ、移転した住戸は約1,300戸に及んだ。地面の掘削や川底の浚渫によって掻き出した土量は東京ドーム約18杯分にもなり、その内の55%は両岸の築堤に使用されている。新たに4本の鉄道橋と13本の道路橋が架けられ、既存の河川との接点には3ヶ所の閘門と7ヶ所の水門が設置された。掘削や土砂の運搬をまだ人力に頼る部分も多く、大変な工事であったようだ。(途中、1923(大正12)年に関東大震災が発生し、築堤などに被害が出た一方で、通水前の河道は周辺住民15万人の避難場所にもなったという。)

 数多くの困難を経て、1924(大正13)年10月に赤羽の岩淵水門が完成すると、いよいよ通水を開始。工事開始からちょうど20年目にあたる1930(昭和5)年に、荒川放水路は竣工となった。総工費31.4百万円は、今の価値に換算すると2,300億円に相当するという。そして(上流にダムや調整池が整備されたことの効果は勿論大きいが)、これ以降現在に至るまで、荒川放水路の決壊は一度も起きていない。

 荒川放水路の開削が行われたこの20年間は、日露戦争終結の6年後から満州事変勃発の前年にかけての期間である。その前半には第一次世界大戦による好況期があったものの、その後は戦後不況に関東大震災、そしてニューヨークの株価大暴落に端を発した昭和金融恐慌と重なっている。日本にとっては苦しいことの多い時期であったが、一方でこの開削工事は失業者の受け皿としての公共事業にもなったのだろうか。

 明治43年の時点であのような大水害が起きたほど、帝都東京の治水が脆弱であったことにも今更ながら驚かされるが、それを受けた荒川放水路の開削は、この20年を逃しては出来なかったのかもしれない。勿論、今とは違って用地の確保にも工事の方法にも荒っぽい面はあったのだろうが、大都市のインフラ整備は何といっても政治家の決断力とリーダーシップにかかっているのだ。新聞紙上に「豊洲」・「築地」という文字が躍るたびに、私はこの20世紀初頭の開削事業のことを思い浮かべている。

 今や、人口の河川であることは殆ど認識されなくなった荒川放水路。1965(昭和40)年には正式に荒川の本流と定められ、以後「放水路」という言葉は消滅している。

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空虚な祝日 [季節]


 1969(昭和44)年7月20日というと、私が中学1年の夏の或る一日だった。私が通った中学の伝統行事であった「夏の海浜生活」、要するに臨海学校があり、私はこの日を挟む一週間を内房の富浦町で過ごしていた。この年は7月14日に関東甲信地方が梅雨明けを迎えており、とにかく毎日が真夏のカンカン照りだった、というのが私の記憶に残る冨浦での一週間である。

 この臨海学校には本当に長い伝統があって、私たちを指導してくれた先輩方(水泳部のOBが中心)はみんな褌(ふんどし)姿だった。海上に櫓(やぐら)を立てて飛び込みを教わり、日本の古式泳法を教わり、そして最後には生徒全員で4kmの遠泳。梅雨明け後の夏空の下でこんな毎日を過ごしたことは、もう半世紀近くも前のことなのに、今もどこかわくわくする思い出になっている。
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 さて、この年の7月20日は日曜日だった。臨海学校の真っ最中だったから当時の私たちに曜日の感覚はなかったが、実はこの日は、これから空の彼方で始まろうとしていることに世界中の人々が固唾を飲んでいた日曜日だった。サターンⅤ型ロケットで打ち上げられた米国の宇宙船コロンビア号が有人の月探査船イーグル号を切り離し、人類が史上初めて月面に降り立つという、いわゆる「アポロ11号計画」がそのクライマックスを迎えようとしていたのである。
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 イーグル号の月面着陸時刻は協定世界時の7月20日20時17分40秒。日本時間では翌21日の午前5時17分40秒である。当時としては当たり前のことながら臨海学校はテレビのない生活だったから、私たちはリアルタイムではこのニュースに接していない。しかしそれは引率の先生方から口頭で伝わり、当然私たち生徒の間でも話題になった。

 櫓の上から海に飛び込んで、しばし海の深さを全身に感じた後、再び海面に浮かび上がって息を大きく吸い込むと同時に視界に飛び込んで来る真っ青な夏空と白い雲。私たちがそんな日々を過ごしていた時に、その夏空の彼方では人類の新たな歴史が始まっていた訳だが、ともかくも7月20日といえば「夏の海」というのが、この時以来私にとって一種の刷り込みのようになった。そしてこの日は、関東甲信地方における梅雨明けの平年値でもある。

 それから四半世紀が過ぎて、1995(平成7)年の法改正で7月20日は国民の祝日になった。言うまでもなく「海の日」である。「国民の祝日に関する法律」によれば、海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことが祝日制定の趣旨なのだそうだ。然らば、それが何故7月20日なのか。それは、この日が戦前から「海の記念日」に定められていたことに基づくものだ。

 今ではあまり語られることもないが、明治5年から18年にかけて計6回にわたり、明治天皇による地方巡幸が行われた。その内訳は以下の通りである。
  第1回: 大阪・中国・西国巡幸(明治5年5月23日~7月12日)
  第2回: 奥羽・函館巡幸(明治9年6月2日~7月21日)   
  第3回: 北陸・東海道巡幸(明治11年8月30日~11月9日)
  第4回: 山梨・三重・京都巡幸(明治13年6月16日~7月23日)
  第5回: 山形・秋田・北海道巡幸(明治14年7月30日~10月11日)
  第6回: 山口・広島・岡山巡幸(明治18年7月26日~8月12日)

 この内、明治9年に行われた第2回の奥羽・函館巡幸は、とりわけ大きな意味を持っていたのではないだろうか。何しろ、東北各地と道南が戦場になった戊辰戦争の終結からまだ7年、廃藩置県の断行からは5年しか経っていなかったのだ。

 西南雄藩の出身者ばかりが光を浴びる新国家の中で、ひとえに損な役割を負わされることになった東北地方。とりわけ旧会津藩の人々は、移住の地としてあてがわれた陸奥・下北の地で大変な苦労を背負って来た。他方、新国家といってもまだ憲法もない頃だから、この段階の日本は「立憲君主制」とも言えず、ひとまず「王政復古」をしただけの状態だ。まずは明治天皇自らが東北各地を訪れ、その存在を民に知らしめること、そして戊辰の戦役以来の怨念が残る地において民を慰撫するというプロセスが、どうしても必要であったのだろう。この巡幸が東北地方と函館をセットにしていることが、何よりも戊辰戦争を強く意識したものであったことを示している。
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(福島県下桑野村の開墾地に到着した明治天皇)

 巡幸に先立って、まずは先発隊が行先の調査を入念に行っており、この奥羽・函館巡幸では参議・大久保利通が自らこの先発隊の指揮を執った。大久保はその調査結果を本隊並びに留守を預かる三条実美に報告し、巡幸の本隊は皇族をはじめ、岩倉具視・木戸孝允・大隈重信といった面々によって構成されたという。明治9年といえば西南日本で不平士族が不穏な動きを見せていた頃で、実際に10月には神風連の乱・秋月の乱・萩の乱などが起きている。そんな情勢の中、天皇巡幸のお供とはいえ新政府の高官たちが二ヶ月近くの間、よく政府を留守に出来たものだと思ってしまう。

 東北地方にはまだ鉄道がなかった時代。巡幸は基本的には馬車による移動だった。明治天皇御一行は現在の福島県・宮城県・岩手県・青森県の各地を巡った後、用意されたお召し船で函館へ渡り、帰路は三陸経由で横浜へ。この函館からの航海は三日連続の荒天だったそうだが、明治帝は最後まで泰然としていたとされる。

 この時のお召し船は明治丸と名付けられた鉄製汽船だった。明治の初年に各地に建設された洋式灯台のメンテナンスのため、灯台巡視船として新政府が英国に発注した船で、この巡幸の前年に日本に到着したばかり。要するに当時の日本にあった汽船としては最新鋭のものだった訳で、明治天皇を乗せたこの船が横浜港に無事到着したのが、明治9年の7月20日だった。これを踏まえ、昭和16年になって当時の逓信大臣・村田省蔵の提唱によって7月20日が「海の記念日」に制定されたのである。(と言っても祝日ではなく、国民を挙げてお祝いするような日ではなかったようだ。)
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(東京海洋大学に保存されている明治丸)

 「明治天皇が船で横浜に着いた、それだけのことでなぜ記念日に?」と言うなかれ。そこは私たちなりに当時の日本の姿を想像してみるべきだろう。

 武家諸法度によって大型船の建造が禁じられてから200有余年。明治の日本は必要な汽船をともかくも外国に発注せざるを得なかった。優先順位としては軍艦、次いで物資を運ぶための輸送船だった筈だ。明治天皇が明治丸に乗船した明治9年というと、洋式の汽船で人を運ぶというのはまだ極めて珍しかった頃で、事実明治丸は客船ではなく、前述のように灯台巡視船だった。そして、明治天皇が軍艦以外に乗船した初めての船だったのである。しかも、函館からの帰路は三日続きの荒天だった。「よくぞご無事にご帰還あそばされた」というのが、新政府の高官たちの心境ではなかっただろうか。

 そして、明治天皇が明治丸に乗船したそもそもの理由であるところの奥羽・函館巡幸。そのことの重さを、私たちは理解する必要があるだろう。

 伝統的に天皇は京都御所の外には滅多に出ず、御所の中でも御簾の向こうで姿の見えない存在だった。明治帝の先代・孝明天皇まではそうだったのだ。それが明治維新で日本が王政復古を迎えたために、天皇は俄かに近代国家の君主として洋装になり、必要な場合には民の前に姿を現すことが求められるようになった。しかも、今回の訪問地は戊辰の戦の怨念が残る奥羽・函館である。途中から軍艦ではない船に乗り、帰路は三陸沖の荒波を越えていく三日間の旅だ。この巡幸の実施に踏み切ることは、明治天皇にとっても大きな決断だったのではないか。その大きな使命を無事に終えて、明治天皇は7月20日に横浜港に降り立ち、帝都に戻ることが出来たのである。

 「市民革命」の本家本元のフランスでは、フランス革命とナポレオン戦争で5百万人近くの死者を出したと言われ、その後も王政と共和制とを行き来したために争乱が相次いだ。それに対して、日本の戊辰戦争による死者は約1万5千人だったそうである。そして、日本が1871(明治4)年に廃藩置県という「ただ一つの勅諭を発しただけで、二百七十余藩の実権を収めて国家を統一」し、駐日英国公使ハリー・パークスをして「ヨーロッパでこんな大変革をしようとすれば、数年間は戦争をしなければなるまい。」と驚嘆せしめた、その同じ年にフランスではパリ・コミューンの蜂起があり、一週間で2万人以上の犠牲者を出している。明治維新の少し前、米国では議会制民主主義の下で南北戦争(1861~64)が起こり、4年間で60万人超の死者を出した。更に同時期の中国は何をかいわんやで、太平天国の乱(1851~64)の死者数は2千万人を超えたとされている。

 明治天皇は奥羽・函館巡幸の道中において、沿道各県の県庁・裁判所・学校・工業関係施設・神社・墳墓など予め手配されていた箇所の視察に留まらず、農民の田植えの様子見るために馬車を止め、田畑の開墾に関する農民の苦労話に耳を傾け、といったことにも意を用いたそうだ(無論、この機を捉えた天皇への直訴は固く禁じられていたが)。「中央集権国家」とか「近代天皇制」といったことをそもそも快く思わない人々には違う意見があるかもしれないが、生まれたばかりの明治国家が、ともかくもこうしたプロセスを経ることで地域間の確執を乗り越え、世界レベルで見れば極めて穏和に初期の地固めを進めて行ったことを、私たちは改めて認識すべきではないだろうか。(天変地異が起きた場合も含めて)動乱期にあっても総じて日本の社会が安定していることは、今でも諸外国からの評価が極めて高いポイントの一つなのである。
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(田植えの様子を視察する明治天皇)

 この「海の記念日」がベースになった「海の日」は1996(平成8)年に施行された。(私自身はその年から海外赴任となったので、7月20日が休みになったという実感はなかった。)ところが、2003年に日本に帰任してみると、「ハッピーマンデー制度」とやらの法改正で、「海の日」は7月の第3月曜日になっていた。「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」という極めて漠然としたお題目だけが残ったまま、7月20日の「海の記念日」とは切り離されてしまったのである。

 「海の日」に関連し、海洋基本法には「国及び地方公共団体は、(中略)海の日において、国民の間に広く海洋についての理解と関心を深めるような行事が実施されるよう努めなければならない」という条文があるのだが、私たちが普通に暮らしていて、国や自治体がそういうことをしているという実感を持つことはまずないだろう(地域によっては「海の日」に関連したイベントがあるのかもしれないが)。明治天皇の奥羽・函館巡幸という歴史との繋がりが断ち切られてしまい、国民にとってはただ漫然と7月の第3月曜日が祝日になっただけ。要するにこれは単なる愚民化政策ではないのか。

 明治天皇のエピソードに因んだものであること、昭和16年という戦時体制下で制定された記念日がベースになっていることを忌み嫌う人々の言論を意識して、「海の記念日」との関係を敢えて希薄化させているのかもしれないが、それは本末転倒というものだろう。紀元節を「建国記念の日」、新嘗祭を「勤労感謝の日」などと言い換えているのと同根で、「国民の祝日」なのに国の歴史や伝統文化との繋がりをわざわざ見せないようにしている馬鹿げたやり方だ。これでは日本を知らない日本人を増やすだけである。

 さて、2017年の関東甲信地方は、「海の記念日」を待たず7月18日に梅雨が明けた。以後は連日の猛暑である。還暦を過ぎた私は、夏の海に行かなくなってもう久しいが、半世紀近く前に「海の記念日」を過ごした内房・冨浦の海は、今はどんな様子だろうか。

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女帝の暑い夏 [歴史]


 7月10日(月)、カラ梅雨気味の首都圏は猛烈な暑さに見舞われた。太平洋高気圧が一時的に勢力を増し、あの九州北部豪雨をもたらした前線は、今は朝鮮半島の中部まで押し上げられている。首都圏は朝から真夏の干天で、最高気温のランキングには館林37.1℃、熊谷35.4℃、甲府34.4℃、東京・練馬33.8℃と、お決まりの地名が並んでいる。
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 私が子供の頃、昭和30年代の終わりから40年代の前半にかけては、いくら真夏といっても東京で気温が30℃を優に超える日が何日も続くなどということは、あまりなかったように思うのだが、古代の日本では、今頃はどれぐらい暑かったのだろうか。

 今から1372年前、すなわち645(皇極天皇4)年の7月10日というと、旧暦では6月12日にあたる。現在の奈良県高市郡明日香村では朝から大雨だったそうだ。

 この日は、新羅・百済・高句麗の三国から貢物を持参した使者を迎える「三国の調」の儀式が飛鳥板葺宮の太極殿で予定され、皇極天皇に従って大臣・蘇我入鹿も入朝することになっていた。この機を捉え、かねてより専横を極める蘇我氏の打倒を画策していた中大兄皇子・中臣鎌足らがクーデターを挙行し、宮中で入鹿を殺害。その翌日には入鹿の父・蘇我蝦夷を屋敷の中での自決に追い込み、蘇我本宗家は滅亡した。言うまでもなく、これが後に「大化の改新」と呼ばれる一連の改革の口火を切ることになった「乙巳(いっし)の変」である。入鹿を討つために太極殿の柱に隠れていた中大兄皇子も、蒸し暑さに汗びっしょりではなかっただろうか。因みに、斬り殺された入鹿の死体は外に放り出されて雨に打たれたという。

 この時の天皇は前述の通り皇極天皇(594~661年)だ。皇室史上では推古天皇に続く二人目の女帝であり、しかもこの乙巳の変で一旦皇位を退いてから10年後に斉明天皇として再び即位、即ち重祚(ちょうそ)となった初めての天皇である。更に言えば、皇統系譜の中ではそれほど血筋が良いとも言えないのに皇位に就くことになった、ちょっと不思議な天皇なのだ。
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 第29代の欽明天皇以降、6世紀~7世紀前半に登場した歴代天皇の系図を眺めてみると、欽明天皇から敏達天皇へと世代交代が行われた後は、敏達 → 用明 → 崇峻 → 推古という兄弟間での皇位継承が続いた。(それ以前の応神王朝や継体王朝においても、兄弟間で皇位が継承された前例はある。)だが628年に推古天皇が崩御すると、敏達天皇の直系の孫にあたる舒明天皇が即位。皇位が一世代飛ぶのは異例なことだ。更に言えば、舒明の后となり、後に皇位に就く皇極の出自は歴代天皇とはいささか異なっている。

 皇極の父は、敏達の皇子(の一人)である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)と、どの天皇の子孫なのかよくわからない漢王の妹・大俣王との間に生まれた茅淳王(ちぬのおおきみ)だ。そして母親は、欽明天皇の皇子(の一人)である櫻井皇子と名前も出自も未詳の女性との間に生まれた吉備姫女である。だから、皇極自身は皇統の系図の中では極めて傍流と言うべきものだ。それが、夫・舒明の崩御を受けて皇位を継承し、女帝となったのである。

 一般に家系図というものは世代間の関係を見るためには適しているが、時間軸がないので誰がいつからいつまで生きたのか、誰と誰が同時代の人間なのかといったことを読み取ることが難しい。そこで、前述の期間について歴代天皇の生存期間と在位期間を年表の中に図示し、そこに家系図的な処理を加えてみると以下のようになる。
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 敏達・用明・崇峻・推古という兄弟の中では、推古女帝の寿命の長さが突出している。何しろこの時代に74歳まで生き、在位は35年にも及んだのだ。その間に、生きていれば有力な皇位継承者だったはずの厩戸皇子(用明天皇の皇子、いわゆる「聖徳太子」)は既に病没していた。(蘇我氏も馬子から蝦夷を経て入鹿へと世代交代している。)推古の次が敏達の孫の世代に飛んだのは、そうした推古時代の長さが大きな原因であったのだろう。

 そして、敏達の孫の舒明が在位12年の後に48歳で崩御。その時点での後継者候補は、舒明と蘇我法堤郎女(ほほてのいつらめ)との間に生まれた古人大兄皇子、厩戸皇子の息子・山背大兄王(共に生年不詳)、そして舒明と皇極の間に生まれた中大兄皇子(当時15歳)だった。そうした有力候補がいる中で、皇位はなぜか后の皇極へと継承された。

 その皇極は3年半ほど皇位にあったが、645年、自分の目の前で蘇我入鹿斬殺のクーデターが起きると、たちまち降板して同母弟の軽皇子に譲位。これが第36代の孝徳天皇となる。それまでの皇位継承は前天皇の崩御を受けて行われていたから、皇極 → 孝徳は日本で初めての譲位となった。それにしても、傍流の皇極のそのまた弟が、よくぞ天皇になれたものである。

 クーデターから一週間後の7月17日(新暦)、日本史上で初めて年号が立てられ、この年が大化元年となった。孝徳は新たに造営した難波長柄豊崎宮を都とし、「大化の改新」としての諸々の制度改革が行われる。だが、それらを実質的に仕切ったのは皇太子の中大兄皇子だったのだろう。その皇太子は653年に都を飛鳥に戻すことを孝徳に建議。だが、それを退けた孝徳は一人難波宮に取り残されてしまい、失意の内に翌年病没したという。既に述べたように、その後は皇極が61歳で重祚して斉明女帝となった。
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(今は耕作地に囲まれた飛鳥の宮殿跡)

 推古天皇の在位期間である6世紀末から7世紀の初めというと、隋・唐という統一王朝が中国に現れ、その覇権が周辺地域に及んでいくという、東アジアにとっては激動の時代の始まりであった。それでも、中国から海を隔てた日本としては遣隋使を、次いで遣唐使を送り、というように「まずは中国に学ぶ」というスタンスでよかったのだろう。ところが皇極天皇以降の時代になると、唐帝国の覇権によって朝鮮半島が動乱の時代を迎える。「三韓」の中で最も劣勢に立たされていた新羅が生き残りを賭けて親唐路線に転換し、唐が進める「遠交近攻」戦略に敢えて乗っかることで、高句麗や百済への対抗を始めたのだ。

 そして、斉明天皇としての即位から5年。660年に唐と新羅が連携して百済に侵攻。百済国王が捕虜になってしまった。蘇我氏の時代から日本とは親交のあった百済は日本に救援を要請。放っておけば唐の覇権が日本に直接迫りかねない事態となった。

 これに対し、斉明女帝は直ちに百済の要請を受け入れ、中大兄皇子、大海人皇子(後の天武天皇)らを引き連れて難波から瀬戸内海を西走。伊予の熟田津(にきたつ)や博多を経由して筑紫国朝倉の朝倉橘広庭宮へと進む。661(斉明天皇7)年5月9日(新暦の6月11日)のことだった。しかし、その朝倉では宮の建築のために付近の神社の木を無断で伐採したことから、神様の怒りに触れて宮殿が倒壊。鬼火が出没し、病が流行したという。そして、既に68歳の高齢に達していた斉明は、この年の7月24日(新暦の8月24日)に朝倉宮で崩御した。それは、きっと暑い夏の日であったのだろう。唐・新羅連合軍に対して日本軍が惨敗した白村江の戦(663年)の2年前のことである。

 この朝倉橘広庭宮は、今月の九州北部豪雨で大分県日田市と共に甚大な被害を受けた福岡県朝倉市に位置している。(正確な場所はまだ比定されていないようだが。)朝倉は日田方面から西方へ流れる筑後川が形成した平野の北端にあり、標高300m前後の丘陵の南斜面を後背地とする、いかにも有史以前から人々が住みついていたであろう地形の中にある。斉明天皇も宮殿からこの肥沃な平野を眺めおろしていたことだろう。
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 その朝倉が、今年7月5日(水)に前例のないほどの豪雨に見舞われた。北上して来た梅雨前線に南からの湿った空気が吹き込み、この日一日だけで516ミリという、7月一か月の平均雨量の1.5倍近くの雨が降ったのである。(朝倉と並んで大きな被害を受けた大分県日田市ではこの日一日で336ミリ、ちょうど7月一か月の平均雨量に匹敵する量だった。)
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(2017年 九州北部豪雨 朝倉と日田の雨量)

 こうなると、北側の丘陵から筑後川の支流が幾つも流れ出るのどかな地形がかえって災いし、市内の各地で土砂崩れや河川の氾濫が相次いだ。道路の冠水で一時的に孤立した地区が幾つもあったのは、報道されている通りである。
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 今年の首都圏はカラ梅雨だが、本来ならば7月は大雨の季節。乙巳の変や斉明天皇の筑紫遷幸の経緯を紐解きながら、私たちの遥かな祖先も、この国のこうした気候の下で歴史を刻んで来たことを改めて思う。

East of River [散歩]


 今年4月の下旬に膵臓の半分を切除する手術を受けてから、ちょうど2ヶ月と1週間が経過した。直近3回の日曜日は何かと体調が悪くて何れも棒に振ってしまったのだが、7月最初の日曜日の今日は特に問題がなく、少しは外で体を動かせそうだ。梅雨の合間に日差しが戻り、日中は30度超えになるようだが、元気を出して散歩に出かけよう。

 我家の最寄駅から地下鉄とJRを乗り継ぐこと約20分、隅田川を渡った両国駅で電車を降りる。普段は東京の山の手側で暮らしている私にとって、週末にちょっと気分を換えたい時には隅田川を超えてみることが時々ある。

 両国という地名は、言うまでもなく隅田川がかつて武蔵国と下総国との境であったことに由来している。それが、寛永年間(1622~43年)とも、もう少し後とも言われるが、いずれにしても17世紀の内に隅田川の東側も武蔵国に編入されたようだ。そしてそれは江戸の市街地拡大の歴史と軌を一にしている。

 大坂夏の陣の終結によって実現した元和偃武(1615年)から20年後の1635(寛永12)年、徳川家光によって諸大名の参勤交代が制度化されると、各藩の江戸屋敷が次々に設けられ、江戸詰めの家臣達も居住を開始。江戸の人口は急増し、市街地が拡大していく。その延長線上で起きた大惨事が1657(明暦3)年の明暦の大火、いわゆる「振袖火事」だった。旧市街地の大半が焼失し、大名屋敷はおろか江戸城の天守閣までもが焼け落ちてしまったこの大火による死者は、3万人とも10万人とも言われる。

 この大火の二年後の1659(万治2)年、隅田川に両国橋が架けられた。そして、この橋から東側の地区への居住が幕府によって奨励される。橋よりも北側が本所、南側が深川だ。上述したようにこの地域が下総国から武蔵国へと編入されたのも、こうした防火・防災上の政策の一環なのだろう。

 時代は明治に飛んで、1904(明治37)年4月5日というから、日露開戦からまだ間もない頃だ。私鉄・総武鉄道の線路が市川方面から伸びて来て、この両国に終着駅が出来た。当時の駅名は「両国橋」だったそうだ。その終着駅時代の面影を残す駅舎が(関東大震災で焼失したため、昭和4年に再建された駅舎がベースではあるが)今も残されている。
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 現在は1・2番線ホームをJR総武線の電車が行き交っているが、その北側の一段低い場所にもう一本のホームがあり、3番線の線路が西側(浅草橋駅寄り)で行き止まりになっている。

 道路の両国橋に並行するように総武線の鉄橋が隅田川に架けられたのは、1932(昭和7)年。関東大震災後の帝都復興事業の一環で、これによって総武線の電車は今のような運行形態になった。それでも、東京と内房・外房地区を結ぶ中・長距離列車の東京側の終点は長らく両国駅のままで、私が小学生の頃、夏の臨海学校の帰りに内房の岩井駅から蒸気機関車が牽く客車列車に揺られ、最後はこの両国駅に降り立ったことを今でも覚えている。そう、あの時も確かにこの行き止まりの線路があった。
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 そんな風に、どこか昔懐かしい両国駅から外に出て南に向かい、京葉道路を渡ると、正面に回向院の緑が目にとまる。諸宗山無縁寺回向院。幕府の命により、振袖火事の死者を弔った万人塚を起源とする寺である。以後も大きな災害による横死者の無縁仏を供養する場所として機能し続けて来た。
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 境内の奥には沢山の供養塔や慰霊碑が建てられていて、そこに刻まれた文字を読み解くと興味深いものがある。写真の左側は「大正十二年九月一日 大震災横死者之墓」、言うまでもなく関東大震災の死者に対するものである。その右側は「天明三年癸卯七月七日八日 信州上州地変横死之諸霊魂等」とあるから、「天明の大飢饉」の原因となった1783(天明3)年7月の浅間山大噴火による横死者への慰霊碑なのだろう。(因みに、この年の4月には東北の岩木山でも噴火があった。)
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 さて、回向院の南側にある路地を東側に数ブロック歩いていくと、「本所松坂町公園」の表示がある。公園といっても小さな土地で、遊具などは何もない。しかも白塗りの塀に囲まれているので、ここが公園だと思う人はいないだろう。それが吉良邸跡、要するにあの忠臣蔵の「悪役」・吉良義央の屋敷跡(の一角)である。1702(元禄15)年12月14日(今の暦では1703年1月30日)、四十七士による吉良邸討ち入りの舞台はこの場所だったのだ。
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 浅野内匠頭が江戸城松之大廊下で刃傷沙汰を起こし、即日切腹となったのが前年の3月14日。赤穂城の明け渡しが同4月19日。一方の吉良義央はその年の8月19日に呉服橋門内から本所のこの場所へと屋敷替えになっている。もちろん自主的に引っ越したのではなく、幕府により呉服橋の邸宅が召し上げられ、代替地があてがわれたという訳だ。

 大名屋敷が連なり、北町奉行からも目と鼻の先にある呉服橋から、それよりも遥かに人通りの少ない本所への転居命令。私たちが北斎や広重の錦絵を通じてイメージしている江戸・両国橋近辺の賑わいはあくまでも19世紀前半のものであって、両国橋の竣工からまだ40余年しか経っていない赤穂事件の時代は、両国橋の向こう(東側)はまだ市街化の歴史がずっと浅い頃だ。それに、元禄時代といえば文化の中心はまだ上方にあった頃である。そんな時代の本所に屋敷を移せと幕府が吉良に命じたことについて、敢えて討ち入りがしやすい場所を与えたのではないかという想像が働くのも無理からぬところだろう。
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(歌川国芳「忠臣蔵十一段目夜討之図」 19世紀に描かれた想像画ではあるが・・・)

 さて、吉良邸跡から両国駅に戻り、今度は隅田川に沿いに浅草まで歩いてみることにしよう。
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 両国国技館を右手に見ながら土手沿いに歩いて行くと、水上バスの両国発着場があり、階段を降りると隅田川の岸辺に出る。どうせ歩くなら土手沿いの道よりも岸辺の遊歩道の方が楽しい。振り返ると、総武線の電車が隅田川橋梁を渡っていく様子が彼方に見える。
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 そのまま暫く歩いて行くと、蔵前橋が目の前に近づいて来る。時刻は午後2時半を回った頃で、隅田川の左岸(東側)は対岸から太陽に照りつけられて暑い。岸辺から一旦上がって蔵前橋を渡り、右岸に出れば少しは日陰があるかな。そう思って蔵前橋から対岸に出てみた。1927(昭和2)年の竣工というこの橋。その直下から眺めると、鋼鉄製の重厚なアーチ部分がなかなか立派である。
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 両国に移転する前のかつての国技館は、この橋の東詰にあった。私が子供の頃に父に連れられて大相撲を見に行ったのは、その蔵前国技館の時代である。その跡地は東京都下水道局の蔵前ポンプ所になっていて、台東区周辺の家庭や工場からの下水を三河島水再生センターに送ったり、降った雨水を集めて隅田川に流したりする役目を負っている。
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(昭和40年当時の地図にある蔵前国技館。当時は主要な道路にまだ都電が走っていた。)

 期待したほどの日陰は右岸にはなく、汗を拭き拭き歩き続けると、次にやって来るのは春日通りがその上を走る厩橋。三つ並んだアーチが印象的な橋だ。厩(うまや)の名前は、江戸時代に蔵前の米蔵に出入りした荷駄馬用の厩が橋の西側にあったことに因むという。現在の橋は1929(昭和4)年の竣工になるもので、このあたりから対岸の眺めは次第に東京スカイツリーが主役になっていく。
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 ここまで来れば、浅草までは残り1kmもない。左手の土手の上を見上げると、川沿いに居並ぶビルの所々に、フレンチ・レストランや和風の居酒屋が隅田川の対岸に向いた場所にテラス席を設けている。スカイツリーの夜景を眺めながら一杯という趣向、なかなか良さそうだ。そして駒形橋を過ぎると、正面には鮮やかな赤色に塗られた吾妻橋が見えて来る。そこから左手の土手を上がれば東京メトロの浅草駅だ。
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 両国から浅草まで、川岸と土手の昇り降りを除けば 川沿いの至って平坦な散歩コースだが、梅雨明け後の盛夏を先取りしたような陽気になった今日は、両国駅前で買った水のペットボトルが浅草ではもう空になっていた。

 人気番組「ブラタモリ」のような深掘りは出来ないが、自分なりに江戸と東京とを行き来しながらの日曜日の散歩も、たまにはいいものだと思った。

4ヶ月のブランク (2) [自分史]


(前回分は以下の通り。)
http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2017-07-01

5月14日(日)
 久しぶりに都内の実家へ顔を出し、独り暮らしをしている母の様子を見る。今回の私の入院・手術の件は、実は母には話していない。心配させるだけで、母はどうすることも出来ないのだから。5月の連休の間は地方にある工場へ出張予定だと伝えていた(事実、入院をしなければその予定だった)ので、今回もその素振りを貫くことにした。幸い、母には気づかれずに済んだようだ。

5月15日(月)~26日(金)
 この週から会社勤務を再開。但し、当分の間は朝の混雑を避けて10時出社とさせてもらうことにした。手術からまだ1ヶ月も経っていないから、立ったり座ったりという動作もまだ恐々やっている感じがあるし、急ぎ足で歩くことはまだ出来ない。何よりも、机の上でのPC作業を久しぶりにやってみると、首や肩が直ぐに痛くなってしまう。そんな訳で、会社では我ながら生産性の低い二週間となってしまったが、それでも5月19日(金)に開催された会社の株主総会に何とか出席出来たのは幸いだった。

 食事はというと、まだ平常時の半分も食べられない。この手の手術を受けた場合には致し方ないのだが、膵臓の残り部分からの消化液の分泌が大きく減っているため、一回に沢山は食べられず、消化力が弱いから下痢を起こしやすい。消化に悪い食べ物も禁物だ。家内に小さな弁当を作ってもらい、それでも食べ切れずに残してしまう日々が続く。

5月29日(月)
 朝からA病院へ。実は前日から体調が悪くなっていた。

 前日の日曜日は朝10時から自宅マンションの管理組合の定期総会が開催され、私は副理事長の立場で2件の議案を説明。2期4年務めた理事の仕事も、この総会を以てやっと御役御免になる。だから気分さっぱりと過ごしたかったのだが、朝起きた時からずっと頭が重く、この定期総会の最中に発熱が始まっていた。総会が終わって昼過ぎに自宅に戻ると、熱は38.6℃に達していた。

 5月10日の退院時に、「38℃以上の発熱があった場合には直ぐ病院へ連絡してください。」と言われていたので、A病院へ電話。状況を話すと、明朝来院されたしとのこと。家内と二人、朝の超混雑した通勤電車で通院し、血液検査とCT検査を受ける。その結果、前回手術で膵臓を切除した部分に化膿が起きている由。術後1ヶ月と4日が過ぎているが、こういうタイミングで化膿が起きるのは珍しいことではないそうだ。これに対応するには化膿を止める抗生剤を点滴で投与する必要があるとのことで、即日入院を言い渡された。う~ん、また入院か。ちょっと辛いな。

5月30日(火)~6月8日(木)
 今回の入院は改めて手術を受けるようなことはなく、ひたすら点滴を受けるだけ。途中の血液検査では数値の明確な改善が見られ、抗生剤の効果が認められる由。それはいいのだが、抗生剤の副作用の一つとして、私の場合は下痢がひどくなり、追加の下痢止めを処方してもらう必要があった。

 病室にはLTE経由でネット接続が出来る個人のPCを持ち込んだので、メールの送受信を通じて会社の仕事も出来る。日によっては真夜中までPCを叩くことがあり、看護士さんに不思議がられてしまった。

 やがて、点滴による抗生剤の投与は経口薬に切り替わり、それで問題がなければ退院が見えてくる。6月8日(木)早朝の血液検査の結果に問題がなかったので、この日を以て退院に。再び外の世界に戻ってみると、知らない間に街中はアジサイの季節を迎えていた。
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6月9日(金)~25日(日)
 会社に復帰。だが、正直言ってこの期間は自分にとっては非常に辛かった。

 退院時に処方された抗生剤の経口薬は、6月18日(日)まで1日1回服用を続けることになっていたのだが、その副作用が強く出てしまい、食欲が著しく減退する一方で下痢がなかなか治らない状態が続くことになったのである。目の前に食べ物があるだけで気分が悪くなり、殆ど何も食べられない。他方、下痢が続くので水分が失われ、辛うじて何か口に入れた物からも栄養が吸収出来ないことになる。栄養失調に脱水状態が重なるようなことになり、6月16日(金)には殆どフラフラの状態になってしまった。

 A病院に連絡して、ともかくも抗生剤の服用を止めることにし、私の家からも近い旧友S君のクリニックで水分や栄養剤の点滴を受けて、脱水症状を解消。そして、新たに消化剤を処方してもらい、下痢の改善を進めることになった。また、抗生剤の副作用が出ていた間は胃酸過多になっていたので、それも錠剤の服用で緩和させることになり、その効果が現れるまでには日数を要した。

 そんな訳で、6月8日(木)の退院以降、3回あった6月の日曜日はいずれも体調不良で寝込んでしまい、私にとっては何とも不本意な過ごし方となった。そして、この間に体重は更に5kg近く減ってしまった。

 今まで大きな病気をしたことがなかった私は、入院、手術、術後の養生といったことに全く慣れておらず、抗生剤のような強い薬を服用した時の副作用の怖さや、その症状が現れた時にどう対処すべきなのかということについて肌感覚を何も持っていなかった。そのために今回は非常に辛い思いをしたのだが、こうした体験は将来いつかまた役に立つことがあるのだろうか。

6月26日(月)~30日(金)
 この週からようやく体調が安定し、食べることに少し意欲が出て来ると共に、会社の帰りに電車一駅分余計に歩いてみようという、体を動かすことにも意欲が出始めた。4ヶ月のブランクが続いたブログを再開してみようと思い立ったのも、こうした体調の好転があってのことだろう。

 とはいうものの、焦りは禁物。出来ることならばこうした状態をこのまま続け、体力の回復を図りたいものである。

4ヶ月のブランク (1) [自分史]


 2017年3月から6月までの4ヶ月間、このブログを更新することが出来なかった。

 大きな理由は、4月の末に膵臓の一部を切除する開腹手術を受けたことだった。それは以前から解っていたことではなく、4月に入ってから病変が発覚したのもので、以降は検査・入院・手術の日程が大急ぎで決まって行った。その展開の速さは今から振り返っても殆ど信じ難いほどのことだが、ともかくも5時間近くを要する手術を受けて延べ1ヶ月弱も入院をしたというのは、私の生涯で初めてのことである。

 この病気をしたことで、私のこれまでの人生と今後の人生とが滑らかに繋がって行くのか、そして後者がいつまで続くことになるのかは、今の時点ではまだわからない。いや、寧ろ最悪の事態をも想定しておく必要があるのかもしれないのだが、向こう半年ぐらいの経過を見なければまだ何とも言えず、今ジタバタしたところで何の意味もない。

 ともかく、まがりなりにも自分のブログと向き合う気力を取り戻した今、この4ヶ月間の空白を何らかの形で埋めなければならない。この間に思い浮かんだことを書き連ねればキリがないが、個人の感情に走ることはなるべく避けて、事実のみを極力淡々と記録しておくことにしたい。

2017年3月
 会社の仕事は例年になく忙しさを増していた。それは、「分刻みのスケジュールをこなす」という類の忙しさではなく、会社経営全般の今後の方向性を深掘りし、方針を打ち出していくためにあれこれと考え、アウトプットを産み出して社内コンセンサスを形成して行かねばならない、そういう意味での忙しさだった。

 東北の震災が起きた2011年以降、私の会社にとっては製品市場の縮小・低迷が続き、逆風の時期を過ごして来たのだが、昨年(2016年)の夏頃から潮目が俄かに一変し、今度は逆に従来の生産能力では顧客からの注文に応じきれないほどのタイトな状況が続くようになった。苦しい時期に歯を食いしばって開発し投入した高品質・高機能の製品が漸く市場に認められたこともあるのだが、やはり中国をはじめとする新興国経済の質的な向上によって、日本の限られたプレーヤーにしか作れない高品質・高機能の素材が今まで以上に求められるようになったことが底流にあるようだ。更には、いわゆるIoT(物のインターネット)の時代がこれからいよいよ幕を開けると、我々が日々生産している素材の用途が今後飛躍的に拡大していく可能性がある。

 そんな訳で、週末には会社の幹部を集め、我社が近未来を見据えて取り組むべきことについて幅広い議論を行い、社長と共に海外も回って将来の生産設備増強のフィージビリティを考えた。忙しかったが、これほどのポジティブな環境変化は長い社会人生活の中でもそう体験出来ることではない。それに没頭している間、自分の私生活におけるブログの更新などは、当然のことながら私の頭の中にはなかった。
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 加えて、これは会社生活とは全く異なる次元の話ではあるのだが、この4年間務めて来た自宅マンションの管理組合の副理事長の仕事も、この3月に佳境を迎えていた。

 世の中ではどこも同じなのだろうが、マンション管理組合の理事の仕事は基本的に区分所有者の間での輪番である。各人の経験や能力とは無関係に順番が回ってくるお役目だから、最低限のことをして、まずは無難に任期が務まればいいということになりやすい。だから、各年度の理事会の運営に大きな変化は起きにくいものだ。

 マンションも新しいうちはそれでもいいのかもしれないが、築何十年も経って建物・設備の老朽化が進んだマンションとなると、そうもいかない。建物の外観だけでなく、内部の各種配管にも劣化が現れ、水漏れ事故などを起こしがちだ。それは、人間が歳をとって循環器系の病気になりやすいのと同じようなものである。4年前、私に理事の役目が回って来たのは、まさにそうした状況の中で、次回のマンション大規模改修の時期と内容を待ったなしで検討せざるを得ないタイミングであった。

 理事を引き受けた時、自分も無難に2年の任期を過ごせばいいやという思いがない訳ではなかった。だが、実際に理事会に出てみると、意見は色々出るけれど、それをまとめ、問題点を整理し、具体的なアクションプランへと組み立てられる人は非常に限られていた。そもそも、或る事案について、皆の理解を共通のものにするためのアウトプットを作れる人がいないのである。メンバーの大半は私よりもずっと年上の、既に仕事をリタイアした人たちだから仕方がないのだが、事態を静観するだけでは何も進まない。結局それらを私が一手に引き受けることになり、副理事長に祀り上げられて2期4年を務めてしまった。そして、その集大成のような仕事がこの3月に山場を迎え、平日の夜や土日に多くの時間を費やすことになった。

 本業の仕事とマンション管理組合の仕事という、まさに二足の草鞋。しかも、自分が動かなければ何も進まない。この何年か、そのことに我ながらストレスを溜め続けていたことは確かだった。
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2017年4月5日(水)
 以前から予約を入れていたのだが、高校時代の同級生S君が院長を務めている消化器内科クリニックで、朝から胃の内視鏡検査を受けた。S君には以前から何度もお世話になっていたのだが、今回は本当に久しぶりで、前回から3年弱が経過していた。検査を受けるのがついつい面倒だった、という言い訳しかないのだが。

 胃の検査そのものは特に問題もなかったのだが、その直前に受けた超音波検査の結果、膵臓の真ん中あたりに一点黒い影があるという。念のためということでS君がCT検査を手配してくれたので、その日の午後に別の場所で同検査を受けることになった。

4月7日(金)
 昼休みにS君から携帯電話に連絡があった。「前々日のCT検査の結果、膵臓の「黒い影」は良くないので早急に入院して手術を受ける必要あり。」とのこと。ついては翌8日(土)の夕方にMRI検査を受け、翌週の12日(水)にS君のクリニックで大腸の内視鏡検査を受けた上で所見の説明を受けることになった。

 彼からそういう内容の連絡を受けたこの日は、夕方から会社のキャンティーンで新人歓迎会を兼ねた花見の宴が催され、立場上、私は夜遅くにお開きになるまでその場にいたのだが、いつになく酔いがひどかった覚えがある。

4月12日(水)
 休暇を取り、S君のクリニックで朝から大腸検査。夕方近くになってS君から所見の説明が始まる。その時刻までに家内も来てくれて、二人で説明を聞いた。

 問題の膵臓の直径2cm前後の「黒い影」は腫瘍の疑いありとのこと。一般に膵臓癌は発見が遅く、手遅れで手術も出来ないケースが多いのだが、私の場合はそれがもっと早い段階のものと見られるとのこと。このままあと3ヶ月も放置すれば手遅れになるので、早急に手術を受ける必要があるそうで、何とS君は東京の湾岸地域にある専門病院(「A病院」としておこう)にも既に連絡を回してくれて、13日(木)の午後に部長先生の診察の時間を既に予約してくれていたのだった。家内と私はS君の厚意に深く感謝しつつ、ともかくもここから先のことは医師の指示に従い、治療を最優先にして行こうという思いを互いに確認し合うことになった。

4月13日(木)
 午後、初めてA病院へ行き、部長先生の診察を受ける。CTやMRIの画像を交えての説明はS君が話してくれた内容と一致しており、膵臓癌としてはまだ比較的早い段階なので、開腹手術により膵臓の約半分(尾部)を切除し、併せて転移の可能性のある周辺のリンパ節や胆嚢・脾臓・片方の副腎も切除。約3週間の入院が必要で、術後2ヶ月程度経ってから抗がん剤の服用を始めるとのことだった。その後、18日(火)に再びA病院で入院に関するガイダンスがあり、23日(日)の入院、25日(火)の手術という日程が決められた。(知人の話では、こんなスピード感をもってA病院で手術を受けられるなどということは、普通だったらまずあり得ないとのこと。素早く手配を進めてくれた旧友S君に改めて感謝である。)
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4月23日(日)
 昼前にA病院に入院。10階、4人部屋の窓側のベッドで、東京湾の眺めが素晴らしい。すぐ近くの高架を新交通システム「ゆりかもめ」が走り、彼方では羽田を次々と離発着する航空機の様子を眺めることが出来る。午後には山仲間のH氏が早速お見舞いに来てくれて、沢山の文庫本を置いて行ってくれた。

4月25日(火)
 家族三人は朝6時に家を出て病院に来てくれた。私は早朝から手術の準備があり、7時50分に手術室へ向かう。家族の見送りを受けて8時には手術台に乗っていた。それから暫くは全身麻酔の準備があったのだが、そこから先のことは一切の記憶がない。手術が予定通り5時間ほどで終わったということは後から知らされたことで、何時だか解らないが医師に揺り起こされた時には、開腹手術を受けた部分の鋭い痛みがあった。
その日は酸素マスク等を付けたままICU(集中治療室)で一晩を過ごす。暫くの間は家族の面会が許され、痛みに歯を食いしばる私の左手を家内と娘が握ってくれたことを覚えている。

4月26日(水)
 点滴による麻酔を続けつつも、まだ鋭い痛みは続いているのだが、この日の昼前にはICUから元の病室に戻された。寝てばかりでは良くないので、看護士に付き添われ、点滴の台を杖代わりにして病棟内の廊下を少しずつ歩く訓練が始まる。といっても、まだおっかなびっくりで僅かな距離しか歩けないのだが。

4月29日(土)
 A病院の病室で私は61回目の誕生日を迎えた。術後の回復が比較的順調とのことで、この日の朝、腹部に差し込まれていたドレン管が医師によって外された。点滴はまだ続いているが、ドレン管がなくなっただけでも廊下を歩くのはだいぶ楽になる。午後には家族三人が集まってくれて、病室でささやかな誕生日祝いの一時を過ごした。この頃から点滴に代えて病院食が段階的に始まったのだが、正直言って味が全く口に合わず、出された物が殆ど喉を通らないのには閉口した。栄養士さんもだいぶ細かく相談に乗ってくれたのではあるが・・・。

5月5日(金)
 昼間に2時間程度点滴を外して外出してもよいことになり、入院後初めて外の空気を吸ってみることにした。病院の北隣には芝生がよく整備された広い公園があり、バーベキューの施設などもあって、この連休中はなかなかの賑わいである。家内と娘と三人でその公園をゆっくり歩き、緑の木陰に座ってのんびりとした時間を過ごした。昔からアウトドアが好きだった私にとって、今は仕方がないこととはいえ、日がな病院の中で過ごす他はないというのは、やはり一つのストレスだ。早く自由に外を歩ける身になりたいものである。以後は毎日、13~15時ぐらいの時間帯は外出許可を取って、家内と二人で外を歩くことにした。
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5月10日(水)
 術後の経過が順調であったことから、この日をもって退院となることが前日に決まった。入院日から数えると17泊、手術日から数えると15泊。それでも、この手の手術を受けた者としては入院期間が短い方だそうである。もちろん、開腹をした部分にはまだ微妙な痛みがあり、術後3ヶ月ぐらいは重い荷物を持ったり走ったりすることは控えなければならない。また、手術の際に実は小腸も少しいじっているので、尾籠な話ながら下痢が当分は続く。そして、内臓を切除する際に色々な血管や神経を切っているため、味覚や食欲がおかしくなっている。時の経過と共にいずれ元に戻るのだそうだが、現時点では喉を通る(=食べたいと思う)食物が限られ、一回に食べられる分量も平常時の半分程度だ。そのため、手術前に比べて体重が10kgほど減った。何よりも筋肉が落ちてしまったことを実感する。

 ともかくも二週間強にわたってお世話になった病院を出て、昼前に自宅へ。会社には来週から出勤させてもらうことにして、今は色々なことのリハビリに努めることにしよう。

 その翌日、近くの植物園をゆっくりと歩きながら眺めた新緑が、何とも目に眩しかった。
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(To be continued)


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