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川を眺めた日 [散歩]


 このところ、週末の散歩は何だか引き寄せられるように隅田川の周辺を歩いている。

 9月最初の週末は、それまで降り続いていた雨が土曜日の昼前には上がり、日曜日は終日好天で暑さもほどほどだという。それならばと、日曜日の昼前から家内と散歩に出ることにしたのだが、二人で選んだ場所が、隅田川の河口に近い佃島周辺だった。

 今から20年以上前、我家の子供たちがまだ小さかった頃、隅田川を上り下りする遊覧船は既にあったのだが、乗ってみると両岸の眺めは堤防と倉庫ばかりで何とも殺風景だった覚えがある。その時代に比べると、今は「隅田川テラス」と呼ばれる遊歩道が両岸に整備され、街路樹も植えられて、その景観には昔とは見違えるほど豊かになった。特に隅田川の河口が二股に分かれる佃島のあたりは、船から眺める遊歩道や公園の緑がきれいで、聖路加病院やリバーシティ21などの高層ビルや中央大橋の幾何学的なデザインとの組み合わせがなかなかいい。今日は永代橋の西詰を起点に、その佃島周辺の遊歩道を散策し、月島・築地を経て銀座まで歩いてみよう。
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 東京メトロを乗り継いで茅場町で外に出て、広い永代通りを東に600mほども歩くと、重厚なアーチが印象的な永代橋が見えて来る。江戸時代までは隅田川に架かる最南端の橋だった。これを渡ってもう少し行けば富岡八幡宮の門前町として栄えた門前仲町だが、今日はその方面へは行かない。
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 永代橋の西詰から右に曲がって川岸の「隅田川テラス」に出ようとした時、マンションの植え込みの中にちょっとした石碑があった。「船員教育発祥の地」と書いてあり、その碑文によれば、明治8年11月、内務卿・大久保利通の命により、岩崎弥太郎がこの地に「三菱商船学校」を設立した由。江戸時代を通じて大型船の建造が禁じられていた日本は、明治になって西洋船による海運が始まった時に船乗りが足りず、この地でその養成を始めたという訳だ。言うまでもなくこの学校が、隅田川の対岸を1kmほど下った越中島の東京高等商船学校(現・東京海洋大学)の前身である。
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(中央区観光協会HPより拝借)

 隅田川テラスに降りると、行く手に佃島のタワーマンション群が天を突いている。斜張橋と呼ばれるタイプの中央大橋との組み合わせが、ちょっとした未来都市のようだ。
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 「佃島のタワーマンション群」と書いたが、今目の前に見えているのは、実は佃島ではなくて石川島である。元々は石川島と佃島の二つが隅田川の中にポツッとあって、江戸時代の内にこの二つが繋がったのだそうだ。石川島の方は17世紀前半の江戸開幕府早々の頃に、石川八左衛門重次という旗本が徳川家からこの島を拝領し、屋敷を構えたことからその名が付いたという。

 一方の佃島は、徳川家康との繋がりが更に深いことで知られる。1582(天正10)年6月2日に本能寺の変が起きた日、家康は堺の街を見物中だった。その家康が明智光秀の軍勢をかわして命からがら岡崎へと逃げ帰る、いわゆる「伊賀越え」の際に、多数の舟を出して淀川を密かに遡上するのを助けたのが摂津国佃村の漁民たちだった。これに恩義を感じた家康は、後に江戸を支配した際に、折からの人口増による江戸の食糧難への対策も兼ねて、佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せ、この島の砂州を埋め立てて住まわせると共に、特別の漁業権を与えたという。それが、彼らの故郷の名を冠した「佃島」の始まりなのだそうだ。

 幕末の嘉永年間に作られた江戸の古地図を見ると、石川島と佃島が繋がっただけのこじんまりとした様子がわかる。まだ月島以南の埋め立て地が何もなかった頃のことだ。
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 1830(天保元)年頃に作製された葛飾北斎の「富嶽三十六景」の中に、「武陽佃島」という作品がある。画面中央に富士の遠景が描かれているから、この絵は隅田川の上流側から河口側を眺めている訳で、だとすれば中景左の緑に覆われた島が石川島、集落のある右側の島が佃島なのだろう。現在の地名では佃一丁目の、堀で囲まれた一角が当時の佃島にあたる。
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 因みに、この佃島だった場所の北端には住吉神社が置かれている。主祭神の住吉三神は航海安全の神様とされ、全国の住吉神社の総本社が摂津一宮の住吉大社だ。佃村の漁民たちの江戸移転に際してこの「すみよっさん」を一緒に連れてくるあたり、いかにも大阪の風と言えようか。
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(左)佃島の住吉神社 (右)歌川広重 「江戸名所百景」より「佃しま住吉の祭」

 さて、中央大橋を渡ってかつての石川島へ。川沿いは遊歩道と石川島公園が整備され、永代橋や東京スカイツリーを眺めながら一休みするにはいい場所だ。ここで隅田川が二股に分かれているので、目の前の景色は右も左も隅田川の河口である。この石川島には幕末期に水戸藩が石川島造船所を設置。後にこれが民間に払い下げられ、石川島播磨重工業の前身となった。私たちの背後に林立するタワーマンション群を眺めていると、その石播の工場が1979(昭和54)年までこの場所で稼働していたことなど、今ではとても想像できない。
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 それまでは適度に高曇りだったのが、ここで一休みしている間に晴れ間が大きく広がり、日差しがいささか暑くなった。そんな時に川沿いは風が涼しくて心地よい。家内と私はタワーマンション群を抜けて東京メトロの月島駅方面へと向かう。歩いて行く道がちょうど佃島と新佃島の境目あたりで、後者は佃島の南隣に明治になってから埋め立てられた土地である。ここまで歩く間に見て来た近未来的な景観とは対照的に、新佃島は路地も路地裏も実に昔懐かしい庶民的な姿で、私などはついホッとしてしまう。
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 少々余談になるのだが、今は埋め立て地が格段に広がった東京湾も、幕末に黒船がやって来た時には隅田川の河口に石川島と佃島があるだけだった。浜離宮から西では現在の東海道本線の線路ぎわが海岸線で、埋め立て地は何もなかったのだ。これではいかにも無防備だからと、品川の沖合に7つの砲台を設置したのが、いわゆるお台場だ。その内の3号と6号の砲台が今も東京レインボーブリッジの南側に残されている。
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 さて、明治・大正時代には佃島・新佃島の更に西側が埋め立てられた。それが現在の地名で言うと月島と勝どきだ。東京メトロ有楽町線の月島駅がある広い通りが、佃島・新佃島と月島の境界になっていて、月島側へ歩いて行くと名物の「もんじゃ焼き」の店が軒を連ねている。干拓によって町が形成されていった頃、この地域で小麦粉を出汁で解いたものを熱した鉄板の上に垂らして焼きながら文字を覚えさせたのが、「文字焼き」→「もんじゃ焼き」の起源なのだそうである。

 茅場町を起点にここまで歩いてきて、さすがに喉も乾いてきた。盛夏をとっくに過ぎたとはいえ、それなりの日差しが照りつける中、今まで通りならもんじゃ焼きをツマミにビールを一杯!と行きたいところだが、今の私は年末に抗がん剤の服用が終わるまでの間、アルコールはご法度である。今日のところは我慢ガマン。それもまた人生だ。
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 明治時代の終わり頃には既にその骨格が出来上がっていた人工島の月島。昭和になると干拓による土地造成はその南の晴海へ、そして戦後はその更に沖合の豊洲、そして有明へと進んで行った。今日はそれを全部歩く時間はないが、もう少し気候が良くなったら散歩コースにも入れてみよう。

 月島の商店街から北西に向かうと、程なく隅田川の堤防に出る。少し上流方向に戻って佃大橋を渡ろう。1964(昭和39)年8月27日というから、東京オリンピック開会日の一ヶ月半前にこの橋が竣工するまで、佃島と対岸の明石町の間には無料の渡し船が運行されていたのだが、今の景観にはその面影はない。
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 その佃大橋を渡っていると、ちょうどTokyo Cruseが運行する松本零士氏デザインの観光船・ホタルナが聖路加病院をバックに隅田川を遡って来た。
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 そして対岸の「隅田川テラス」に出ると、聖路加病院に近いこの一帯は花壇がよく整備されている。それらを愛でながらゆっくりとジョギングを楽しむ外国人たち。都心にもお金をかけずに良い気分転換を図れる場所が結構あるものだ。
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 そして、植え込みの中にはもうヒガンバナの姿が。そういえば秋のお彼岸まで、あとちょうど20日だ。
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 前方に見えていた勝鬨橋の姿が大きくなると、今日の隅田川沿いの散策コースも終わりに近い。1940(昭和15)年竣工のこの橋は中央に可動橋部分を持つために、その重厚さは他の橋とは全く別格だ。ずっと眺めていたくなる橋である。
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 行く夏と始まり出した秋とが交互に顔を見せ合ったような半日。川沿いの心地よい風を楽しんだ家内と私は、それから築地と銀座を横切って数寄屋橋まで歩いた。距離にして約5.7キロ。ショッピングとは無縁ながら、こういう都心の散歩も悪くないものだ。

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「飛び道具」の時代に [映画]


 1972年5月26日、リチャード・ニクソンとレオニード・ブレジネフという米ソの巨頭がモスクワで握手を交わした。冷戦の中で増え続けた核兵器の数を相互に制限するために1969年から米ソ二大国が話し合いを重ねて来た、いわゆる第一次戦略核兵器制限交渉(Strategic Arms Limitation Talks 1 “SALT 1”)が一定の妥結に至り、モスクワで調印式が行われたのである。

 これによりICBM(大陸間弾道弾)やSLBM(潜水艦発射弾道弾)といったミサイルについて現状の数量を追認した上で、「もうこれ以上は増やさない」という約束をともかくも両国が交わすことになった。他にも制限すべき事項が多々残されてはいたが、ひとまず核軍縮の第一歩になったことは確かだ。それは、米ソ両国が核戦争寸前の事態に直面した1962年のキューバ危機から10年の時を経ていた。
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 このSALT 1の調印式の2ヶ月ほど前になる同年3月20日、ちょっと風変わりなソ連映画が世界で公開された。ポーランドの著名なSF作家、スタニスラフ・レムの小説を原作とした『惑星ソラリス』(СОΛЯРИС)。この年のカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞し、監督アンドレイ・タルコフスキーの名を世界に知らしめた作品である。

 この映画はほぼ同時期に作製されたSF映画としてスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』と比較されることが多く、当時のソ連映画界の技術や財政面での制約もあって、『惑星ソラリス』はSF的な見どころの少ない地味な映画、という印象を持った人が多かったのではないだろうか。

 加えて、日本で公開されたのは5年後の1977年で、それも岩波ホールでの上映だった。その年にはジョージ・ルーカスの『スターウォーズ』の初作が大々的に公開され、翌年にはスティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』が空前のヒット。宇宙物の映画は完全に新しい時代に入っていた。『惑星ソラリス』は日本に入って来た時から、SF映画としては既に一時代前の、地味でマイナーな物として扱われたのではないだろうか。1カットが実に長く、滴る水やざわめく緑などの描写を得意とし、流れるような映像と高い芸術性に特徴を持つタルコフスキー映画の熱烈なファンは別として。(以下、大いにネタバレあり。)
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 バッハのコラール前奏曲BWV639「我汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ」の重厚な響きと共に始まるシンプルなタイトル・ロール。それに続くのはタルコフスキーお得意の水と緑が豊かな田舎の情景だ。それは主人公の心理学者、クリス・ケルヴィンの故郷である。久しく帰郷していなかったのだろう。感慨深げなクリスが池のほとりを歩いて実家の庭先に出ると、父が招いた客人が到着したところだった。

 クリスは翌朝、宇宙に向けて飛び立つことになっていた。長年にわたり人類が探査を続けていた惑星ソラリス。その星を覆う「ソラリスの海」の上空に静止する宇宙船プロメテウスで起きていることを把握し、ソラリス探査プロジェクト存続の是非を判断するのが彼に与えられたミッションだった。

 これまでの探査によって、「ソラリスの海」はプラズマの海であり、それ全体が一つの生命体であるかのように知性や意思を持つことが解っている。しかし、プロメテウスからどのような手段で交信を試みても、それに対するソラリスからの返答はない。逆に、プロメテウスに滞在する科学者たちが幻覚のようなものに悩まされることが続き、それが何なのかを一向に解明できずに混乱するばかり。ソラリス探査プロジェクトは何年も停滞したままで、その存在意義が問われていた。
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 父が招いた客人、元宇宙飛行士のバートンも、かつてソラリスで奇妙な体験をした一人だった。同僚の一人がソラリス探査中に行方不明となり、救助に向かったバートンは、沸き上がるソラリスの海からあり得ない物が現れるのを目撃。地上に戻った彼はその一部始終を会議で発表するのだが、撮影したはずの動画には何も映っておらず、「身長が4メートルもある赤ん坊の姿を見た」という彼の話を誰も信じようとしない。

 宇宙滞在歴11回というバートンの名誉がズタズタに引き裂かれてしまったその会議の様子を収録したビデオ。それは、プロメテウスへ飛び立つ前にクリスに見せようとバートンが持参したものだった。その映像の中で、自分が目撃したことを必死に説明する若き日のバートンと、今はすっかり頭も禿げ上がり、杖を頼りに歩く現実のバートン。その落差がソラリス探査プロジェクトの停滞の長さを物語る。プロジェクト存続の是非を巡る議論は、その当時から少しも前進していなかったのだ。
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 プロメテウスに到着したクリスは、荒廃という言葉で表すしかない船内の様子に愕然とする。通路に物が散乱し、複数の人間が協働している気配がない。85人を収容出来るこの宇宙船に残っていたのは、僅か3人の科学者だけだった。

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 電子工学者のスナウトと、天体生物学者のサルトリウス。クリスへの歓迎の言葉すら発しない二人の様子は尋常ではなく、何れも自室に他人が入ることを強く拒んでいる。しかも彼らの室内には、この船内に存在するはずのない人物(のようなもの)が隠されている疑いがあった。

 そして、もう一人の物理学者ギバリャンがクリスの到着前に謎の自殺を遂げたことを二人から聞かされる。しかも、冷凍したギバリャンの遺体を安置した部屋にも誰かが出入りしている気配があった。更には、かつてクリスの同僚だったギバリャンが、その自殺の前に収録していた遺言とも言うべきビデオ・メッセージ。そこに映し出された彼は明らかに何事かに怯えていた。

 着任早々に直面した異常な事態の数々に頭が混乱するクリス。自室でいつしか眠りに落ち、そして目覚めた時に、そこにいるはずのない人物の姿を見て驚愕する。それは10年前に自殺した妻・ハリーだった。プロメテウスに滞在していた多くの科学者たちが悩まされた「幻覚」とは、このような現象のことだったのか。

 今目の前にいる「女性」の見かけはハリーそのものだが、本物がここに現れるはずがない。頭ではそう解っているのだが、妻にそうしていた時と同じようにクリスは「彼女」を抱擁してしまう。だが、「彼女」は本物ではないからハリーとしての過去の記憶は一切持たず、クリスが荷物に入れて来たハリーの写真を見て、これは誰かと問いかける。
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 あり得ない事態に直面したクリスは、ハリーを小型ロケットに乗せて宇宙の彼方に「追放」することを思い立つ。しかし、ロケットが飛び去った後に自室に戻ってみると、そこには再びハリーの姿が。ようやく話が少しずつ見えて来るのだが、それ自体が一つの生命体として知性や意思を持つ「ソラリスの海」は、どうやらそこに近づく科学者たち一人ひとりの深層心理に入り込み、その中にある物の姿を具象化して彼らの目の前に見せる能力があるようだ。スナウトの説明によれば、「ソラリスの海」との交信手段として強いX線を海面に照射した直後から、ニュートリノで出来たこのような「客人」が船内に現れるようになったという。

 クリスの心の奥底にあった、今は亡き妻ハリー。そして、その後のシーンを通じて映画が暗示するのは、ハリーは嫁に来たもののクリスの母との折り合いが悪く、クリスがそこから守ってやれなかったことであるようだ。つまり、クリスが心の中に抱え続けて来た一番の痛み、他人には最も触れて欲しくない部分、キリスト教で言うところの「原罪」とはちょっと違うのだろうけれど、彼が生きている限りずっと背負い続けて行かねばならない固有の物を、ソラリスは目に見える形にして彼の前に送り届けたのだ。ならば、スナウトやサルトリウスが自室の中に隠している「誰か」も、彼らがそれぞれに背負って来た過去の痛みを具象化したものなのだろう。
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 「ソラリスの海」から送り込まれた「ハリー」。それは人間ではなく、ましてや甦った死者でもないのだが、科学者である筈のクリスは、やがて本物の妻に対するのと同じ愛情を持つようになる。一方の「ハリー」も次第に人間と同じような感情を持つことを学び始めた。そして、本物のハリーではないことに「彼女」自身も苦しみ、自殺を試みたりもするのだが、人間ではないから直ぐに蘇生してしまう。

 「彼女」が本物のハリーではなく、クリスの心の奥底に封印されて来た重い過去を具象化したニュートリノの集合体に過ぎないことは、今後も変わりようがない。そうだとわかっていても堰き止めることの出来ない相手への愛。それをどう考えたらよいのか。決して払拭することの出来ない自分の過去と、我々はどう折り合って生きればいいのか。更に視野を広げれば、ソラリスという地球外生命に対して人類はどのように接するべきなのか。画面の中に色々な暗示を散りばめながら、タルコフスキー監督は私たちに様々な「問い」を投げかけ、登場人物を苦悩させ続けるのだが、それらに対する答は一切ないといっていいだろう。実に何とも「救われない」映画なのである。

 考えてみれば、共産主義を奉じるソ連という国で作られた映画だ。登場人物が愛に苦しみ、救いを求めても、そこで神を語る訳にはいかないのだろう。それに、クリスの目の前に送り込まれた「ハリー」をどう定義するかにもよるが、それを限りなく人間に近いものと考えるならば、神でもないソラリスが「造物主」になってしまうのに、そのことに対しても映画では特に触れることがない。そんな風に神がいないから、登場人物は苦悩を続けるしかないのだ。これでは「救われない」のも、むべなるかな。そう思うと、この映画で使用されている唯一の音楽がバッハの教会音楽「我汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ」であるのも、実によく出来た逆説と言うべきなのかもしれない。
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 タルコフスキー監督は、科学者のクリスにこんなセリフを吐かせた上で、映画をラストシーンへと誘導していくのだが、このあたりの構成は見事である。

 「君はそろそろ地球に帰った方がいい。」というスナウトのセリフに続いて映し出される緑の水草。クリスが再び踏んだ故郷の土。変わらぬ実家の姿。父との再会。そして、なぜか許しを乞うように父の足元に跪くクリス。だが、カメラがその様子を俯瞰しつつ上空へと舞い上がるにつれて私たちが知ることになる衝撃の事実・・・。本当に最後の最後まで謎に満ちた映画である。(それにしても、バッハのBWV639は何度聴いても素晴らしい!)


 この映画が世の中に送り出された1972年。それが、冒頭に記したSALT 1のように米ソ間でのデタント(緊張緩和)が始まった時期であることを深読みしているとキリがないのだが、少なくとも今よりは明確なイデオロギー対立の時代であったことは言うまでもない。そんな時代に、
 ● 地球外生命へのコンタクト方法に道徳は必要か否か、
 ● 本物の人間ではない「ハリー」への愛は成り立つのか、
 ● 個々人が抱く愛はなぜ人類愛や地球愛へと演繹して行かぬのか、
などを格調高く問いかける映画が作られていたことは、注目に値するのではないか。鉄のカーテンの向こう側であるにせよ、地球外生命であるにせよ、自分たちとは異なる相手とどうやって共存して行けばいいのか、そのことについての真摯な模索があったと考えることは出来ないだろうか。

 米ソ間の戦略核兵器制限交渉は、核兵器の運搬手段や複数弾頭化も制限の対象に加えた1979年のSALT 2の調印へと発展するのだが、同年に起きたソ連によるアフガニスタン侵攻に反発した米国議会がそれを批准しないまま、1985年に失効。そして1991年にはソ連そのものが消滅してしまったが、その後もイデオロギー対立とは異なる図式の中で、核兵器は今なお主要国にとって安全保障の最後の切り札である。

 他方、米ソ間のデタントと並行して核拡散防止条約(Treaty on the None-Proliferation of Nuclear Weapons “NPT”)が1970年に発効したものの、核兵器保有国のインド・パキスタンは加盟せず、イスラエルは核の保有を肯定も否定もしていない。そして北朝鮮は1993年に同条約から脱退し、国際社会を敵に回して核武装への道を進んでいる。加えて、主に経済のグローバル化への反発から偏狭なナショナリズム・排外主義が世界各地で跋扈し、地球外生命どころか異民族や異教徒を敵視してテロが横行する世の中になってしまった。そうなると、核兵器の密輸が大いに懸念されるところである。

 そう考えると、果たして『惑星ソラリス』を「一昔前の地味なSF映画」と言う資格が私たちにはあるのだろうか?「飛び道具」で花火遊びに興じる某国の様子を見るにつけ、またそれに対して一枚岩での対応が出来ない関係各国の醜い思惑の数々を見るにつけ、今の私たちがよほど品下がる時代の中にいることに「救いのない」思いを抱いてしまうのは、私だけではあるまい。

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89歳の雄姿 [鉄道]


 8月27日(日)午前9時26分、東武鉄道の特急「りょうもう3号」は、定刻通り新桐生駅に到着した。この駅で下車したのは私を含めて十数名ほど。その一団がホーム中ほどの階段を下りて線路を潜り、反対側のホームに上がって改札口を出てしまうと、二面二線のホームは特急停車駅とも思えない静けさに包まれた。
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 8月最後の日曜日。昨日まで数日間の暑さをもたらした太平洋高気圧が少し南に後退し、今朝の関東地方は涼しい風を送ってくれる中緯度帯の移動性高気圧に北から覆われている。今朝早く東京を出て来た時のどんよりとした空に比べると、群馬県桐生市の空はいわゆる高曇りで、一部には青空ものぞいている。そして東京よりも晩夏の緑が鮮やかな一方で、りょうもう号の車中から眺めた田んぼには僅かながら黄味が掛かっていた。目の前のことに一喜一憂してばかりの私たちの暮らしとはちがって、ゆっくりと、しかし着実に、季節はその歯車を進めているようである。

 今年の4月下旬に膵臓の約半分を切除する手術を私が受けてから、一昨日でちょうど4ヶ月が経過した。先月一杯までは何しろ「術後の養生」を最優先にせざるを得ず、体調の管理に随分と苦心することが続いていたのだが、8月のお盆に入る少し前頃からは、まるで小川を一つポンと飛び越えたように、それが明らかに楽になった。食欲もかなり回復し、体を動かすことも億劫でなくなって来たのである。自分の体にとっては、病院から処方されている錠剤だけではなく、やはり「時の経過」そのものも薬なのだろう。

 先週の経過観察でも、主治医から「暑さを上手く避け、水分をしっかり補給しながら運動を心掛けてください。」と言われていた。そうであれば今日の日曜日は少し遠出をして歩き、久しぶりに「乗り鉄」&「撮り鉄」に興じてみよう。幸いにして今日は暑さが一服し、適度な曇で日差しが柔らかいのが何よりだ。

 降り立った東武桐生線の新桐生駅は、実は桐生市の中心部からはだいぶ離れている。群馬県の太田駅と赤城駅を結ぶこの路線は、1911(明治44)年に開業した藪塚石材軌道という、石材を運ぶための人車軌道としてスタートしたのだった。要するに芥川龍之介の短編小説『トロッコ』に出て来るような、人夫が車両を押して動かす軌間610mmの細々としたものだったのである。それが同年に太田軽便鉄道へと名前を変え、2年後には東武鉄道が買収。既に開業していた東武伊勢崎線と同じ軌間1067mmへと改軌されて東武桐生線になった。

 桐生という街は絹織物の名産地として古来その名が全国に通っていたが、石材軌道という生い立ちからすれば、この鉄道が桐生の中心地を敢えて通る必要もなかった訳だ。従って、今日の私は桐生の街中にある最初の目的地まで、この駅から3キロの道のりを歩かねばならない。
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 新桐生駅前から緩やかに下る一本道を歩いて行くと、1キロ弱で渡良瀬川の橋を渡る。広々とした河原を眺めつつ、川の上流方向に目をやると、本来ならばそこに見えている筈の赤城山は残念ながら雲の中だ。それでも、街の周囲を取り巻くポコポコとした山々や河原の緑を眺めていると、遠くへやって来た気分になる。
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 橋を渡り終えてからもせっせと歩き続ける。目的地まであと2キロ。そこに10:20頃迄には着いておきたいから、それなりの速度で歩く必要がある。やがてJR両毛線の高架をくぐり、最初の交差点を左折して300mほど進むと、左手にJR桐生駅の駅前広場。その交差点を今度は右折して更に200mを歩くと、ようやくお目当てのレトロな建物が現れた。上毛電鉄西桐生駅である。
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 1928(昭和3)年11月の開業以来の姿をそのまま残すこの駅舎。マンサード屋根と呼ばれる形状の屋根を持つ洋風建築で、今や国の登録有形文化財なのだ。一度訪れてみたいと、ずっと思っていた。

「西桐生驛」という文字が今どき右から左へと書かれ、しかも「駅」の旧字が使われている。壁に貼られた一枚の紙は今日の臨時列車のダイヤをマジックで手書きにしたもので、そのシンプルさがいい。
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 そして駅舎の中に入ってみると、そこには子供の頃に見た田舎の駅のような佇まいがそのままに。自動券売機はもちろんあるが、改札口ではもしかしたら今でも硬券の切符を売っているのではないかと思うほどだ。(因みに上毛電鉄はSUICAやPASMOには対応していない。)
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 改札口の横からホームを覗くと、昭和の匂いを濃厚に残す小さなホームでは、かつて京王井の頭線で使われていた電車が客扱いの開始を待っていた。
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 おっと、こうしてはいられない。先ほどの貼り紙にもあった当駅10:27着の列車がもうすぐやって来る。私は駅裏の道を100mほど進み、遮断機のない小さな踏切の前でカメラを構えることにした。

 待つこと数分、次の踏切の警報器が鳴り始め、列車の走る音が線路から伝わって来る。そして、緩い左カーブを切り終えて姿を現したのは、上毛電鉄の名物・デハ101である。
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 これも西桐生駅の駅舎と同様、昭和3年の開業以来の「永年勤続者」。実に89歳なのだ!定期運行こそ10年前から外れてはいるが、普段からきちんと動態保存されていて、こうして年1回のイベントの日にはその雄姿を見せてくれる。今日の私のお目当てはこれだったのである。

 写真を撮り終えて駅に戻ってみると、そのデハ101に乗って来た子供連れや「鉄五郎」たちで駅舎の中は一転して賑やかになっていた。中央前橋方面からやって来た彼らの多くは、この駅で折り返しになるデハ101にもう一度乗車するのだろう。どうせそれは大混雑になるだろうから、私は一本早い電車に乗ることにして、彼らよりも先にホームに入る。その時にデハ101の窓から車内の様子をちょっとだけ撮影してみたのだが、昭和3年製造当時の様子が実にきちんと保存されていることに驚いた。
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 そういえば、私が子供の頃に東京近郊の青梅線や南武線、鶴見線などでまだ頑張っていた「旧型国電」も、基本的にはこういうスタイルだったな。天井にエアコンがない時代のレトロな照明がとても懐かしい。

 10:46発の電車にて西桐生を出発。かつて井の頭線を走っていた京王3000系の電車は、1962(昭和37)年から1991(平成3)年まで製造された車両だから、私などには子供の頃から馴染みのあるものだ。井の頭線からの引退後は地方私鉄に多数譲渡されていて、松本電鉄(現・アルピコ交通)上高地線を走る電車もこれである。ここ上毛電鉄では車内のデコレーションも手作り感に溢れていて、私が乗った車両は夏の縁日のような飾りつけが楽しかった。
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 西桐生を出て三つの駅に止まった後、上毛電鉄の電車がわたらせ渓谷鉄道(旧・国鉄足尾線)をオーバーパスすると、左から東武桐生線の線路が近づいて来る。そして間もなく到着する桐生球場前駅から赤城駅までの約2キロは、上毛電鉄と東武桐生線という二つの私鉄の単線鉄道がまるで複線のように並走するという、全国でも極めて珍しい姿を見ることが出来る。(どっちも列車ダイヤが少ないから、実際に両社の電車が並走するようなことは滅多にないのだろうが。)

 赤城駅を過ぎると車窓の眺めはローカル色を強め、のどかな風景が続く。そして、11時21分に大胡(おおご)という駅に到着。この沿線では枢要な駅で、ホームの西側(中央前橋方)は引込線によって車両工場と繋がっている。その木造の車両倉庫と大胡駅の駅舎は、これまた国の登録有形文化財なのだが、デハ101の臨時運転が行われる今日は、この車両工場も一般向けに開放されているのだ。これを見に行かない手はない。
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 駅舎を出て徒歩一分のところになる車両工場。中は既に多くの子供連れと私のような中高年の鉄五郎たちで賑わっていた。このようなイベントにはこれまでにも幾つか参加しているが、やはり地面の高さからローアングルで目の前の鉄道車両を見上げると、私などは妙に心を揺さぶられてしまう。幼い頃、夏の間に母の実家に長く逗留していた時、祖父母に連れられ東海道本線の線路端から目の高さで列車の通過を飽きることなく眺めていた、そんな遠い記憶が甦るからだろうか。
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 何にせよ、間近に鉄道に触れられるというのは楽しいものだ。予定している電車が来るまでの一時間ほど、私は車両工場滞在を満喫させていただいた。そしてここでも、臨時運行のデハ101に再び出会った。
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 桐生に初めて鉄道が通ったのは1888(明治21)年11月のこと。私鉄の両毛鉄道が小山・佐野・足利・桐生を結んだのだ。それが翌年には前橋まで伸びた。その両毛鉄道は1897(明治30)年に私鉄の雄・日本鉄道に譲渡され、更に1906(明治39)年には鉄道国有化の対象となる。言うまでもなく、これが現在のJR両毛線である。古くから生糸や絹織物の産地であった北関東では、東京・横浜に物資を運ぶための交通インフラ建設のニーズが明治の早い段階からあったということなのだろう。

 然しながら、小山から桐生まで来た両毛線は、その桐生と並んで古くからの絹の産地であった伊勢崎を経由して前橋へ向かうために、桐生から西は大きく南へ迂回するルートになり、赤城山麓の住民にとってはメリットがなかった。そこで、桐生と前橋を真っすぐに繋ぐ鉄道路線の建設が地域の有志らによって構想され、1928(昭和3)年の開業に漕ぎつけたそうである。
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 当初のプランでは、現在の西桐生・中央前橋間だけではなく、車両工場のある大胡から南へ、伊勢崎を経て埼玉県の本庄で高崎線に接続する路線も建設することにしていたそうだが、そこは環境が許さず、工事の着工もなかった。大正時代に作られた意欲的な鉄道建設のプランが昭和の初めの金融恐慌のために潰えたというのは、日本各地でよくあった話なのだ。

 大胡から再び乗車した上毛電鉄の電車は、赤城山麓の広々とした景色の中を走り、20分足らずで終点の中央前橋駅に到着。ここは89年前の姿そのままの西桐生駅とは異なり、開業当時の駅舎は米軍による空襲で焼失。その後、昭和40年代に建てられた駅ビルも老朽化のために取り壊され、平成12年に現在のガラス張りの駅舎になった。
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 だが、上毛電鉄の中央前橋駅からJRの前橋駅までは南へ1キロほど歩かねばならない。「中央前橋」と言うからには、歴史的には先に開業したJR前橋駅(=両毛鉄道の前橋駅)よりも前橋の中心街に近い立地であったのか(今の中央前橋駅周辺の様子からは、とてもそうとは思えないのだが)? そして一方のJR前橋駅周辺も、県庁所在地のJRの駅とは思えないほど閑散としており、1キロの道のりを歩く間にも閉店したままの店が多いことに驚いてしまった。
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 確かに、JR両毛線も上毛電鉄も共に単線鉄道で30分に1本程度の列車ダイヤだから、県庁所在地を走る鉄道としては些か寂しいものがある。それでなくても自動車メーカーの工場が数多く立地し、全国でも有数のクルマ社会と言われる群馬県。新幹線のある高崎との距離は10キロほどのものなのだが、前橋の苦戦は続きそうである。

 その前橋駅の高架のホームから高崎行の両毛線の電車に乗ると、地上を走っていた上毛電鉄とは違って窓の外の眺めが良い。電車が利根川を渡る頃、それまでは中腹から上を雲の中に隠していた赤城山の輪郭が見えるようになり、そのまま目を西側に転じていくと、子持山や榛名山の山並みが続いている。いつかまた上毛電鉄を訪れる時には、今度は冬晴れの日を選んでみようか。「赤城下ろし」は寒そうだが、そんな季節だからこそ出会うことが出来る凛とした山々の姿を眺めてみたいものだ。

 13:20に高崎駅に到着。家族へのお土産に「鶏めし弁当」を買い求め、上野東京ラインに乗車。電車を乗り換える赤羽までの1時間半の間、グリーン車の二階席で昼寝を決め込むことにしよう。術後4ヶ月にして初めての遠出。良く歩き回ったが特に疲れも感じず、幸い胃腸にも全く問題は起きなかった。そしてそのおかげで、初めて訪れた上毛電鉄沿線のあれこれを私なりに楽しむことが出来たのは何よりだった。

 やはり、乗り鉄はしてみるものである。

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「私」の解消 [読書]


 8月16日(水)、6連休になった会社のお盆休みも最終日を迎えた。だが、東京は終日雨が降り続き、街は人通りも少ない。8月のど真ん中だというのに気温も低めで、盛夏らしからぬ冴えない一日だった。

 毎年この日は、お盆で里帰りしていた祖先の霊を送り出す「送り火」、いわゆる大文字焼きが各地で催される。こういう時代になって、火をLEDに切り替えた地域もあったそうだが、いずれにしても大文字焼きのニュースに接すると、夏も残り少なくなったなあという淡い寂寞感に囚われてしまう。それは還暦を過ぎた今でも、私の中では子供の頃とあまり変っていないようだ。
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 もっとも、さすがにこの歳になって、全く無邪気に夏休みを過ごしていた子供の頃との違いがあるとすれば、お盆のせいかこの時期には自分がどこか仏教臭くなることだろうか。会社の夏休み最後の日、雨の中をわざわざ出かけるほどの用事もない私は、数日前に買った南直哉(みなみ じきさい)氏の新書本を読んでいた。著者は大学を卒業後、数年の会社員生活を経て仏門に入り、福井の永平寺で20年も修行を続け、今は恐山にあるお寺の院代を務めるお坊さんである。(以下、青字部分は本書からの引用。)
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 幼少の頃から病弱で、激しい発作による呼吸困難に苦しみ続け、間もなく迎えるかもしれない「死」とは何か、それとは逆に「生」と何かを子供なりに考え続けたという著者。やがてそれは「自分の存在の根拠とは何か」という問いに発展し、高校時代には哲学書・思想書の類を読み漁ってみるのだが、肝心なところがわからない。とりわけ、自分が存在することの根拠を“唯一絶対”の創造神の存在に投げてしまうキリスト教の考え方には、ついて行けなかった。

 そんな著者は、やがて日本曹洞宗の開祖・道元禅師の『正法眼蔵』にある有名な一節に出会う。
 「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己を忘るるなり。」

 そもそも「この『私』はそれ自体で本当に存在するのか。その一貫性を根拠づける何かがあるのか。」 「昨日の『私』と今日の『私』が同じ『私』であることの証明は、昨日の『私』はすでにいない以上、無理」であるならば、「今までも、今も、今後も存在する『私』を当たり前のように前提にすること」もまた無理なのではないか。まして「『私』の存在は『自己決定』によって始まったわけではない」のであれば、「『自己』自体が幻想に過ぎない」 つまり、「一貫して変わらない(と思い込んでいる)“私”の存在が、老・病・死の苦しみの大前提」なのだ・・・。

 「(中略)仏教は根拠を求めて苦しむ人間に根拠を与えて救うのではなく、そのような人間の在り方そのものを解体することによって、『苦しみを消去してしまえばよい』と考えるのです。
 これは、どう考えても尋常な話ではありません。どう転んでも仏教が「ヒューマニズム」になることは金輪際ありません。『ありのままの自分』を大切にするような考え方と真逆にあるのが、仏教なのです。
 これほど極端な考え方に、シンパシーを感じる人が昔から今までかなりの数存在し続けてきた、考えると不思議なことです。」

 ブッダや道元の言葉を通じて、「自己」の実在を否定する仏教の考え方に巡り合った著者は、「これは、“絶対に正しい何か”の話とは別物だ。何の確信もない。でも仏教を選択するのだ」という“賭け”に出て仏門に入り、結果的に今に至っているという。

 そんな経緯があるためか、本書における自分の仏教についての考え方は基本的に偏っており、一般的な仏教を知りたい人には向かないと著者は謙遜している。だが、本書の後段で著者も述べているように、「絶対の真理」や「絶対者」の存在を前提にしていて「答え」がひとつでなければならない宗教とは異なり、仏教が投げかけるのはあくまでも「問い」であって、それに対する答えの出し方は様々なのだから、著者なりの仏教論があっていいのではないか。読者の一人として、少なくとも私はそれを楽しませていただいた。

 「苦」、「無常」、「無我」、「縁起」、「因果」、「業(ごう)」、「空」・・・。仏教書を読めば必ず出て来るキーワードに関する著者なりの説明も、なかなか興味深い。普段から明快な文章を得意とする著者の手にかかっても、様々な比喩を用いながら理解のヒントを提供するという手法を用いざるを得ず、言わんとしていることを読者はそこから懸命につかみ取ろうとするしかないのだが、そもそも仏教とはそういうものなのだろう。「不立文字」にして「教外別伝」なのだから。
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 本書のクライマックスは、「『悟り』―それは『開けない』」と題された章である。

 まず、「煩悩」とは何か。それを「本能的な直接性を失って、それが『意識』と『言葉』を持つ人間における欲望として発現する」ものと説く。本能としての「空腹を満たすこと」と煩悩としての「美味しい」とは別物で、前者は物理的に満腹になればそれで終わりだが、後者には際限がない。同じ理由で、「所有」に対する欲求も「煩悩」の最たるものだろう。

 そこで、「煩悩にとらわれた凡夫がブッダの教えに従って修行して、悟った結果、煩悩をコントロールするか、煩悩を滅して解脱し、最後は涅槃に至る」という仏教のプロセスが始まるのだが、多くの場合、修行と苦行を混同し、或いは修行それ自体が自己目的化し、目指すところの「悟り」とは何かを取り違えているという。

 「人間の『煩悩』や『欲望』が意識や言語に深く浸透されている」のであれば、煩悩による苦しみは「『私』という在り方(=『私』という言葉を使う実存)でいる以上は決して解決し」ない。ならば「問題の解決は『欲望』の消去ではなく、欲望する『私』の解消、或いは改造」、言い換えれば「『無常』であるにもかかわらず、それ自体で存在していると思い込むような『私』の錯覚を解消すること」になり、そのために座禅や瞑想などの修行方法が伝えられて来た。

 しかしながら、「そのような修行が結果的にもたらす心身状況を特別視して『真理』と考え、結果的に『実体』化すること」は避けねばならないという。修行によって得られる一種の恍惚感を以て「悟った」などとしてはいけないということだ。これは「決して完結しない修行」であって、道元が言うところの「悟った上にも悟る(悟上得悟)」という姿勢が肝要だというのである。

 そして、その修行としての「座禅」。道元の「只管打坐」という言葉がつとに有名だが、著者によればこれは「ただ坐る」という意味で、「『悟り』のための座禅を否定する言葉」だという(!)。座禅を重ねて行くと次第に感覚が開放され、身体の内外を区別する感覚が曖昧になって、やがては「非思量」という、自意識が融解してしまう状態になるそうなのだが、それでも「ただ、そうなる――というだけのこと」で、それがブッダ本人の到達した境地と同じかどうかを決める根拠は一切ない、と突き放している。本書の表題である「『悟り』は開けない」とは、そういう意味なのだろう。
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 然らば、歴史的事実としてはゴータマ・ブッダの死を意味する「涅槃(ニルヴァーナ)」とは何か? 「悟りの境地」とは、要するに「死」と同じことなのか?

 例えば“唯一絶対”の神によって「自己」の存在が与えられ、その「自己」を実体のあるものと考えるならば、「『自己』のうちに『自己』であることを根拠づける不変の何ものか」、つまり「『霊魂』のようなもの」の存在を想定することになる。ならば死とは生きている世界から(霊魂が)移動するだけで、それが最終的に天国へ行くのか地獄へ行くのかはともかく、「自己」の存在は永遠に変わらない。それが「古今東西、最も一般的な死の考え方」だと著者は言う。

 それに対して仏教では、自分の死を自分で語ることは誰にも出来ないのだから、死が何であるかは絶対的にわからないものだとしたうえで、生と死は対立概念ではなく、「『生きている』とは『死んでいくこと』」であり、「死に侵された生こそ『自己』が実存することの『無常』」と考える。とすれば、「『自己』が生きる意味(=『自己』の存在根拠)を欲望し続けることを止めてしまえば、死も無意味になる」わけで、「無意味でわからない死を、無意味でわからないまま受容すること」「その無意味を怖れることも、その無意味に憧れることも、無視することも欲望することもなく、ただ受容する態度が、『死』を『ニルヴァーナ』に転換する」のだという。さすがにここまで来ると、凡夫の私にはまだ十分に呑み込めていない、というのが正直なところではある。
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 では、座禅という修行を重ね、「自己」の実存への欲望を滅することが出来たとして、その先はどうするのか。実践することが最も重要とされる仏道は、畢竟何のためにあるのか。そのことへのキーワードとして、筆者は「他者の受容」を挙げている。

 既に述べたように、死が何であるかは絶対的にわからない。それと同じく、我々には絶対にわからないのが「他者」である。絶対的にわからない死を「わからないもの」として受け入れることは、やはり絶対的にわからない「他者」を「わからないもの」として受容することと根底で繋がっているのだと、著者は説明する。

「まず座禅という方法によって『自己』の無根拠さを自覚する。この自覚において、『自己』がそれ自体で存在するのではなく、『他者から課された自己』という構造で存在していることを認識する。このいわば『自己』の初期化から、再度『他者』といかなる関係をつくり出し、それによってどのように『自己』をプログラムし直して起動させるかを問う――。」

 このことを著者は「『自己』を『他者』に向かって切り開く」とも表現している。他者との対話を成り立たせ、「他者との間に利害損得とは別の関係をつくり出」し、「自他に共通の問題を発見して、一緒に取り組む」こと。そして、「仮にその行動から利害が生じるなら、そのときは一方的に自分が他者に利を譲る覚悟をする」こと。それが仏道だというのである。

 考えてみれば、「我思う、故に我あり」という西洋の啓蒙主義を土台にして近代資本主義が勃興し、その資本主義の枠組みの中で経済効率の更なる向上を日夜追い求めることが世界のスタンダードになってから、もう既に久しい。けれども、とりわけ1990年代以降の米国で金融とITが興隆して以降、世界は大きな金融危機を度々経験する一方で所得格差は拡大の一途を辿り、行き過ぎた資本主義経済がもたらす弊害はもう誰の目にも明らかである。資本主義の原動力は「我思う・・・」どころか、今や「我所有する、故に我あり」だ。こうして資本主義経済と市民社会、議会制民主主義との間のバランスが崩れてしまったことが、移民・異教徒・富裕層などへの激しい憎悪を呼び、世界各国はテロの横行に揺れている。

 そのような風潮の中で、著者が説明するような仏道の実践は極めてハードルが高いと言わざるを得ないし、まずは修行を続けて「自己」を求める欲望の解消を図るというのは、いかにも遠回りなアプローチであるようにも見える。それこそ、ブッダの言うように「犀の角のように独り歩む」覚悟が要ることだろう。しかしながら、中庸と寛容の精神を持って他者を受容するこうした仏道の実践でも行われない限り、このまま行けばこの世は利害が衝突するばかりの本当にとんでもない世界になってしまうのではないかと、本書を読み終えてからその思いを新たにした。
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 同じ日の夜、日経新聞の夕刊に目を通していると、シンクタンク出身で現・法大教授の渡部亮氏がコラムにこんなことを書いていた。米国では、日本では考えられないような超高所得の資産家や企業家が誕生し、その政治献金によって連邦議会議員に圧力をかけ、自らの利権擁護を図っていることについての評論である。具体的には、高所得者からの圧力を受けて、社会福祉関連支出を削減し、その分を高所得者の減税に充てようと、トランプ政権が医療保険制度改革法(いわゆるオバマケア)の廃止を議会に上程。しかしながら、低所得者の医療費負担増が自らの票田に影響する民主党と共和党穏健派がこれに反対、その他の税制改革法案も滞っていることを指している。

 「表面上これは政治問題だが、その背景には経済の論理が民主主義の論理を圧倒してしまったという事情がある。経済成長や利益追求を優先した結果、繁栄の基盤であった議会制民主主義や健全な市民社会が危機に瀕している。低所得者向け減税や社会福祉支出などの所得再分配政策を行わないと、米国の社会的混乱は激化するであろう。
 資本主義は所得格差や金融危機といった弊害を生みやすい。民間の利益追求の行き過ぎを政府が制御する必要があるが、経済的利権がらみのイデオロギー対立によって制御不可能になっている。」
(2017年8月16日付 日本経済新聞夕刊 『十字路』より抜粋)

 私たちは、この日本をそんな国にしてしまってはいけないのである。

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仏の国の通史 [美術]


 8月11日(金)、今年から始まった「山の日」のおかげで、お盆休みを合わせると会社は来週の水曜日まで6連休だ。

 私は今年の4月下旬に開腹手術を受け、今はまだそこからの養生過程にあるので、山の日といっても山歩きはまだ封印中である。もっとも、この夏は特に8月に入ってから天候不順が続いており、東京では何だかんだ毎日雨が降っている。この時期に山へ行っていたとしても、山頂から一望千里という訳にはいかなかっただろう。

 この日は夕方から家内と上野に出かけ、東京国立博物館で開催中の日タイ修好130周年記念特別展『タイ ~仏の国の輝き~』に足を運んでみた。

 私が1996年から2003年まで香港に赴任していた間、仕事でも家族旅行でもタイにはよく出かけたものだ。独特の民族文化を今も色濃く残した非常に特徴のある国で、どこへ行っても食べ物は美味しいし、暑さの中で万事ゆったりと物事が動いていく感じが好きだった。そして、私たち日本人にも親しみのある仏教が今なお非常に盛んだが、それは我が国のものとは随分と有り様の異なる仏教で、そこが何ともエキゾチックである。そんなタイに残された仏教美術の名品を通じて同国の歴史と文化に触れるという企画。東京メトロの車内で盛んに流れる広告を最初に見た時から、これは行こうねと家内と話していたのだった。

 東京国立博物館は毎週金曜日が21時閉館なので、遅い時間からでも展覧会を楽しめる。この日、私たちは17時半過ぎに入場。祝日の夕方だが、世の中はお盆の帰省の初日ということもあってか、博物館の中はガラガラで、実にゆったりと展示物を鑑賞することが出来た。
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 特別展の鑑賞を始めて感心したのは、展示物の説明と共に、タイという国の歴史そのものに関する説明が実にわかりやすいことだ。

 家に帰って高校時代の世界史の教科書をひっくり返してみると改めて気付くのだが、タイを含めた東南アジアの歴史に関する教科書の記述は、さながら中国史とインド史の谷間にすっぽりと落ちていて、極めて断片的にしか述べていない。だから、私自身も極めて不勉強なことに、タイという国の通史を全く理解していなかった。東南アジアにあって帝国主義の時代に欧米列強の植民地にならなかった唯一の国、という断片的な知識がかえって邪魔をして、遥かな古代からタイ人の王国が連綿と続いて来たかのようなイメージを勝手に持ってしまっていたのである。

 ところが、タイの地理を改めて整理してみればわかるように、この国の北部はユーラシア大陸の一部でインドシナ三国やミャンマーと陸続きだ。そして南部のマレー半島から南はマレーシアやインドネシア、そしてフィリピンなど島嶼部の多い国々との船での往来が古来盛んで、それはインドと中国を結ぶ海上交易のルート上にある。だから、古くはヒンドゥー教、その後はイスラム教の文化が入り込み、民族的にも華僑や印僑のプレゼンスが大きい地域だ。要するに、極東の島国に住む私たちとは比べ物にならないほど、タイは歴史上、周辺の民族に揉まれ続けて来たのである。

 チャオプラヤ川の肥沃なデルタが広がるタイの平野部には、BC36世紀にも遡るという世界でもかなり早期の農耕文明が興り(世界遺産にもなった遺跡あり)、AD6~11世紀にかけてチャオプラヤ川沿いのタイ中央部から北部にかけて都市国家が成立。これが世界史の教科書にも一応名前だけが載っているドヴァーラヴァティ王国である。これを形成したのはモーン族という、古くから東南アジアに居住していた、肌が浅黒くて目がギョロッとした民族だそうだ。
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 ついでながら、タイ国政府観光庁のHPには
「かつてはタイ族の起源は中国から南下した民族であるとされていましたが、以上のような先史時代の遺跡、またドヴァーラヴァティ王国やクメール王朝などの史料から、現在その説は否定されています。」
という風にきっぱりと書かれているところが面白い。「俺たちは中国人の末裔なんかじゃないぞ!」という気概を見せているようで。

 そのドヴァーラヴァティ王国では上座部仏教の信仰が篤く、造営された数多くの寺院に法輪が造られたという。「車輪が転がるように仏陀の教えが広まることを意味する」法輪が盛んに造られたのはこの王国の大きな特徴なのだそうだ。
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(7世紀に造られた法輪)

 その後、7世紀頃から現在のカンボジアでクメール族の王国が隆盛になり、ドヴァーラヴァティから独立して9世紀にはアンコール朝が成立。11世紀には強大になってタイ中央部も勢力下に治める。有名なアンコール・ワットが建設されたのは12世紀初めのことである。(このアンコール・ワットに象徴されるように、クメール族はなぜかヒンドゥー教の強い影響を受けていた。)
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 しかしアンコール朝の繁栄も長くは続かず、中国を支配したモンゴル人のの勢力がインドシナにも及び始めると、アンコール朝の支配下にあったタイ族が玉突きのようにして雲南地方から南下。13世紀前半にタイ中北部を支配してクメール族の勢力を駆逐する。こうして成立したのが、タイ族初の王朝となるスコータイ朝だ。「幸福の生まれ出ずる国」という意味を持つこの王朝下では上座部仏教に基づく仏教文化がいよいよ栄え、タイ語の文字や文学が生まれるなど、現在にも繋がる「この国のかたち」が形成されていく。日本でいうと鎌倉時代の初期にあたる。
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 特別展に展示された14~15世紀のこの王朝下の仏像は、私たちが一般的に持っているタイの仏教文化のイメージそのものではないだろうか。
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 その後、14世紀半ばになると、スコータイの南にアユタヤ朝が成立。これがスコータイを併合し、東のクメール王国にも侵攻して首都アンコールを陥落させる。以後400余年の間、この王朝は国際交易国家として栄え、秀吉・家康の時代には朱印船貿易に携わった日本の商人たちもここに集い、日本人町も誕生した。言うまでもなく山田長政(1590~1630)が活躍した時代である。(日本人町に集まったのは商人だけではなく、戦国時代末期に主君を失った浪人たちが傭兵として海を渡ったケースも多かったのだ。)
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(薙刀を持っているのが日本人義勇兵)

 しかし、アユタヤ朝はその成立以降、西に隣接する現在のミャンマーを支配していた王朝と何度も戦火を交えた。その中で1765~1767年にかけて起こった戦争で首都アユタヤは陥落し、街はミャンマー軍によって徹底的に略奪・破壊され、アユタヤ朝は完全に滅亡してしまった。

 私は香港駐在時代に家族を連れてアユタヤを訪れたことがある。石造りの仏教遺跡の数々を巡り、それらがミャンマー軍によって破壊されたという説明も受けたのだが、まるで古代遺跡のように風化したその様子から、ミャンマーとの戦争とは、例えて言えばポエニ戦争(ローマvs.カルタゴ)のような古い話なのかと恥ずかしながら思っていた。しかし、それが18世紀の戦争だったとすれば、それなりに砲火(少なくとも銃火)を交えるような戦争だったのではなかろうか。
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(アユタヤの遺跡の一つ、ワット・プラシーサンペット)

 このアユタヤ朝滅亡のあたりから、世界史の教科書においてタイに関する記述はなくなり、その次は帝国主義時代の列強諸国による東南アジアの植民地化の話まで飛んでしまう。だが実は、1767年のアユタヤ朝滅亡の後、15年間の争乱を経る中でタイ族の勢力はミャンマー軍を再び撃退し、1782年にチャオプラヤー・チャクリーが内乱を鎮めてラーマ1世として即位。これが現在も続くラッタナコーシン朝(またはバンコク朝)である。

 その後、19世紀半ばに王位にあり、映画「王様と私」で有名なラーマ4世の時に清朝への朝貢を止めて冊封体制から脱し、西洋との自由貿易を開始。続くラーマ5世の時代に数々の近代化政策が実施された。因みに、今年で「日タイ修好130周年」という1887(明治20)年の日タイ修好通商宣言は、このラーマ5世の外交政策の成果物なのである。

 首都バンコック最大の観光地の一つである「エメラルド寺院」は、ラーマ1世の時代に建てられたものだ。予備知識を何も持たずに行くと、奈良や京都の名刹のように古いものと考えてしまいがちだが、実は日光の東照宮より150年以上も後に建てられたもので、タイの歴史の中ではかなり新しい存在なのである。
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(Google Earthで俯瞰した「エメラルド寺院」)

 仏像を鑑賞するというよりも、私の場合は今回認識を新たにするになったタイの通史の方に目が行ってしまったが、こういう機会に学び直すことが案外あるものだと思った。タイの通史をもう少しきちんと頭に入れていたら、香港駐在時代に何度も足を踏み入れたあの国の姿をもっとまともに見つめることが出来たかもしれないという大きな後悔も含めて。人間、還暦を過ぎてもなお、まだ知らないことだらけだと痛感している。

 いつもなら東京国立博物館の特別展は黒山の人だかりなのに、「山の日」の夕方に訪れた今回は入場者も少なく、展示室のソファーからもゆっくりとタイの仏様の微笑を鑑賞することが出来た。金曜日の夜に行くのはおススメである。

 外に出ると日没後の残光がそろそろ消えようかという頃で、本館のライトアップが美しかった。

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Fさんを悼む [自分史]


 8月9日(水)、ここ最近にしては少々遅くまで会社に残っていた。還暦を過ぎたこの歳になっても、どうしてもその日の内にやっつけておかねばならない仕事というのが時にはあるものだ。集中してPCに向かっているうちに、つい時を忘れてしまった。

 帰宅してシャワーを浴び、晩飯をつまみながら日経新聞の夕刊に目を通していると、直近の物故者に関する追想記事が2面に載っていた。そして、そこにあった顔写真を見た次の瞬間、もう30年近く前の遠い記憶が私の中に次々と甦り始めた。その写真は、私が30代のまだ前半だった頃にロンドンの現地法人でお世話になったFさんの、トレードマークとも言うべき笑顔だった。そのFさんが亡くなられたのは約2ヶ月前、今年の6月半ばのことである。
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 ロンドンの金融街、シティ。その南端にあるCannon Street駅で地下鉄を降りて、私が現地法人のオフィスに「初出勤」をしたのは、1988年4月25日(月)の朝のことである。その日から一年間、私は東京の本社からの業務トレーニーとして、そこにお世話になることになっていた。当時の私は新卒入社の8年目。前々年の5月に結婚し、前年11月には長男が生まれたばかりだった。

 当時の会社には「勤務地希望調査」という制度があって、各々の社員が現在の部署で仕事を続けたいのか、或いは異動の希望があるのか、後者の場合にはどんな分野の仕事をしたいのか、その希望を(一応ではあるが)職制を通じて人事部が定期的に吸い上げる仕組みになっていた。以前の部署で海外とはおよそ無縁な仕事を4年近く続けていた私は、この勤務地希望調査で「国際業務」と「市場関連業務」に手を挙げていた。その数年前から私の会社が属する業界では、外圧によって規制緩和が段階的に始まっており、会社としても国内の伝統業務ばかりに拘ってはおられず、「海外」と「市場」にも強くなる必要があった。そういう時代が早晩やって来るのなら、私も若い内にそれを経験しておきたかったのである。

 そんな希望を出していた私を、当時の部署の部長であったIさんは精一杯後押しして下さったようだ。その結果、1988年2月の中頃に人事部から異動の内示が私にあり、4月からロンドンの現地法人で一年間の業務トレーニーに出よとのこと。

 そのロンドン現法とは、規制緩和が日本で今後も更に進み、業界と業界を隔てる垣根が取り払われた時のために、既にそうした規制のない英国で垣根の向こうの仕事の経験を積んでおくことを目的に、1970年代に設立されていた。垣根の向こうとはまさにマーケットを相手にする業務。ならばロンドン現法での業務トレーニーとは、要するに「国際業務」と「市場関連業務」を同時に勉強して来いという訳だ。あまりの「願ったり叶ったり」に、私はしばらく茫然としてしまった。

 異動の内示を受けて、改めて部長のIさんに挨拶をすると、
 「いやあ、おめでとう!ロンドン現法の社長はF君だろう? 君のことを宜しくって、今度手紙を書いておくよ。」
と言って下さった。「筆まめ」で有名だったIさんも、ロンドン現法を率いる社内きっての国際派Fさんも、共に私が卒業した高校の大先輩だった。

 Bank of Englandからは目と鼻の先にある大きなビルの上層階。その社長室で初めてFさんと対面した。眼光鋭く、極めて理路整然とした語り口、しかし人柄は実に穏和で、その人懐っこい笑顔が大きな魅力、というのが私の受けたFさんの第一印象だった。

 「私は入社してから7年間、ずっと国内の仕事ばかりしていたので、『海外』や『市場』はまだ何にも知りません・・・。」
 「だからトレーニーとして来たんでしょ? 遠慮することはない。わからないことは先輩たちに何でも質問してみなさい。皆忙しそうにしてるけど、聞けばちゃんと教えてくれるから。聞けるのは今だけだよ。」

 Fさんにそんな風に励まされて、ともかくもロンドンでの私の第一歩が始まった。
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(ロンドンの金融街・シティ)

 ロンドン現法は、日本からの派遣社員が20名、現地スタッフが約200名の大所帯だった。それにもかかわらず、社長のFさんは現地スタッフ一人ひとりの顔と名前をよく把握しておられ、オフィスの中では分け隔てなくあらゆるメンバーと気さくに接しておられた。最近の言葉でいう「上から目線」とはおよそ無縁の人で、いつも私たちと同じ高さから語り掛け、多くのヒントを与えて下さったのである。

 そして、「弁舌爽やか」とはこの人のことを言うのかと思うほど、実に明快で説得力のある話し方。しかもFさんの英語は日本語のそれと同等かそれ以上に雄弁で理知的なのだ。わかりやすくて知的だから誰もがFさんの話を聞きたがり、誰とも気さくに接してくれるから日本人・外国人を問わずFさんの周りには自然と人の輪が出来る。それがFさんのお人柄だった。Fさんを知る人はおそらく全員が、こんな所に限りない魅力を感じていたはずである。短い期間ではあったが、ロンドン現法の末席のそのまた末席からFさんの薫陶を受けたことは、私にとってかけがえのない財産になった。

 1988年といえば、その頃の日本は空前の株価バブルに酔っていて、いわゆるジャパン・マネーがロンドン市場を席捲していた。株価が上がるからワラント債の発行ラッシュで、ロンドンでは毎週のように日系銘柄のワラント債の調印式が開かれていた。そのおかげで現地の日系社会も羽振りが良かったのだが、その年の夏を過ぎると昭和天皇の容態悪化が本国から連日伝わるようになり、「歌舞音曲の自粛」はロンドンにも及び始める。日系企業の派手なパーティーなどは潮が退くようになくなった。

 そんな中、Fさんが6年にわたる現法社長の任務を終えて東京の本社に帰任されることになった。10月の終わり頃だっただろうか、自粛ムードの真っ只中で私の会社は現法社長交代パーティーを敢えて開き、歴史のあるロンドンのホテルに多くの取引先・関係先を集めた。無論、日系社会のためだけのパーティーでは全くなく、極めてオーソドックスな内容だったから、何ら誹りを受けるようなものではない。そして会場では日本人・外国人を問わず、実に多くの人々がFさんとの別れを惜しんでいた。
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(Fさんの社長交代パーティーが開かれたロンドンのホテル)

 それから、歳月は流れた。本社に帰任されたFさんは当然のように役員に選ばれ、最後は会長にまでなられた。そして私が香港に駐在中の、あれは2001年の初夏の頃だったと思うが、Fさんが中東への出張の帰りに香港に寄って下さったことがあった。おそらくフライトの乗り継ぎの関係で香港経由の帰国になって、それなら会社の拠点に寄ってみようということになったのだろう。

 本社の会長が来るともなれば、拠点長が空港まで出向き、会長様御一行をお迎えして道中をご案内するのが普通なのだろう。だが、お伴も連れず我が身一つで中東を歴訪されていたFさんは、香港拠点長のMさんに予めこう伝えていたという。
 「香港での出迎えは要らない。空港に車を回して、ドライバーがわかるようにだけしといてくれればいい。後は自分でホテルにチェックインしてからオフィスへ顔を出すよ。」
 実際にそうやってFさんは独り飄々とオフィスに現れたと、後になってMさんの秘書が語っていた。

 拠点長のMさんがFさんを連れて、オフィスの中を一回り。現地スタッフ達と打ち合わせをしていた私たちの部署のドアが開いた。
 「ここはプロファイのチームで、あそこにヘッドのK君が座っていますよ。」
Mさんの声が聞こえた次の瞬間、私は10年ぶりぐらいにFさんと目が合った。

 「あっ、Fさん。すっかりご無沙汰しています!」
 「いやあ、どうも暫く。それにしても君、相変わらず血色が良くて元気そうだねえ。」
 「ありがとうございます。まあ、ご覧の通りの酒池肉林の香港ですから、おかげさまで栄養だけは足りてます。(笑)」

 Fさんの近くへ行って挨拶をした私は、半袖ポロシャツにチノパン、首から携帯電話をぶら下げた全くの現地スタイル。今日はFさんが来られるから背広にネクタイ、という発想は私たちにはなかった。そして、Fさんもお互いにフランクな接し方を寧ろ好まれた。

 ついでながら、ここまで「Fさん」と綴って来たように、私の会社では人を肩書では呼ばないのが伝統だった。上下の垣根が低く、虚礼が実に少なく、相手が部長だろうが役員だろうが「〇〇さん」と呼んで、社内ではどこでも自由闊達な議論をしていた。そして、Fさんはまさにそういう社風を象徴するような人だった。

 翌日の朝はFさんが宿泊していたホテルに集まり、6人ほどでFさんを囲む朝食会。ここでも和気藹々と色々な話題に花が咲き、相変わらずのFさんの人を惹きつけるお話を皆が楽しく拝聴することになった。どんなに偉くなられても決して威張るところのない、気さくなFさんのお人柄は本当に昔のままだった。
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 その翌年の春、私の会社と他2社との合併が正式にスタートした。以前の会社としては最後の会長となったFさんは、その合併を機にご退任。程なく外資系企業の日本法人の会長へとスカウトされた。内外に知己の極めて多かったFさんのことだから、まさに引く手数多だったのではないだろうか。

 だがそれから数年を経て、Fさんは病魔に襲われることになった。それも、英国の高名な物理学者スティーヴン・ホーキング博士と同じASL(筋萎縮性側索硬化症)という原因不明の難病だった。筋肉の萎縮と筋力の低下が進んでいく病気で、Fさんはやがて言葉を発することが出来なくなった。スカウト先の会長職を辞されたのは致し方のないことだった。

 あの弁舌爽やかなFさんが言葉を話せなくなってしまった。周りの者でさえ何とも残念に思ったのだから、ご本人にとってはさぞかし不本意なことだったろう。けれどもFさんはそれを筆談にかえ、やがてそれも出来なくなると視力入力のパソコンなども駆使して、世の中に色々なことを発信し続けたという。最新の技術に常に興味を持ち、病床にあっても常に前を見続けておられた。

 「病床で書いた英語のスピーチの表題は『A POSITIVE LIFE』(前向きな人生)。これ以上にFさんをよく表している言葉もない。」

 日経新聞の追想録は、こう結んでいる。

 以前にも書いたことだが、私はこの春に初期の膵臓癌が見つかり、4月の終わりに開腹手術を受けた。それから3ヶ月が経過した今の時点で、体の回復具合は想定の範囲内にあり、各種の検査を通じて現時点で転移は見られないとの医師の話だ。そして、将来の転移リスクを可能な限り減らすべく、今月からは抗がん剤の服用が始まっているが、その副作用との兼ね合いを図って行かねばならず、将来のことも考えると、まだまだ不安は拭えないというのが本音のところだ。けれども、難病の中にあっても終始前向きであり続けたFさんの写真を眺めていると、癌の一つぐらいでクヨクヨしていてはダメなんだと、あの忘れようもない笑顔がそう教えてくれているように思う。
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 2017年6月19日没、80歳。Fさんの「お別れの会」は、お盆明けの8月21日に東京のパレスホテルで行われるそうである。

 合掌

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帝都の治水(補遺) [散歩]


 前回は昭和5年に竣工した東京の荒川放水路について書いてみた。
 http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2017-07-29

 その関連で、週末の散歩がてらに見て歩いたことのいくつかを、補遺として残しておくことにしたい。

 JR総武線・亀戸駅の北口に出ると、南北に走る広い道路が明治通りだ。その明治通りの一本東側の細い路地を北に向かう。この路地はいかにも駅裏の飲み屋街といった感じで、今は土曜日の午後2時前だが、餃子屋の前には行列ができ、もうもうと煙を上げるモツ焼き屋は昼間っから繁盛してそうだ。

 なおも直進し、自動車通りに出たところで右折。そこから300mほども歩くと、道の左側に小さなお社がある。それが亀戸水神である。有名な亀戸神はここから蔵前橋通りに沿って西へ1kmほど行ったところだ。天神様は言うまでもなく菅原道真公のことだが、この亀戸水神のご祭神は弥都波能売神(ミズハノメノカミ)という神様である。
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 日本神話ではイザナミが数々の「神産み」をしたことになっているが、ミズハノメノカミはイザナミの尿から生まれた女神で、水を司る神様だという。神社の御由緒によれば、室町時代末期の1521~46年頃の創立で、このあたりを開墾した土民が水害を防ぐために堤防を築き、大和国吉野の丹生川神社からこの神様を勧請したことがその始まりなのだそうである。(亀戸天神の創立は江戸時代に入ってからのことだから、亀戸では水の神様の方が先輩格になる。)
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 地図を見ると、ここは旧中川と隅田川に東西を挟まれた土地だ。旧中川は幾つにも蛇行した、いかにも増水時には暴れそうな川で、徳川家康が大規模な治水工事を行う以前には利根川の水も東京湾に流れ込んでいたから、水害は繰り返されたのだろう。また、江戸時代の初期に水路として旧中川と隅田川を結ぶ北十間川が開削されたが、隅田川の氾濫時には水が逆流して被害が広がったそうである。20世紀に入って荒川放水路の開削が行われた背景の一つとして、隅田川の下流では室町時代から治水の重要性が認識されていたということを、ここでは押さえておきたい。
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 水神様に二礼二拍手一礼を済ませた後、神社への参道だったと思われる道路を200mほど進むと踏切があり、その右手にはカーブの途中に作られた駅がある。東武亀戸線の亀戸水神駅だ。週末の昼間は10分間隔のダイヤで二両連結の電車が亀戸・曳舟間3.4kmを往復する、東京23区内にありながらローカル色の濃い路線で、私自身も乗車するのは今回が初めてになる。けれども、東武亀戸線の開業は1904(明治37)年と、非常に早い部類のものだ。世が世ならば、これが東武鉄道の本線になっていた可能性もあるのだが、そのあたりの経緯についてはまた別の機会に纏めてみることにしよう。
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 亀戸線の電車に乗って曳舟駅で伊勢崎線の普通列車に乗り換え、そこから二つ目の鐘ヶ淵駅で下車。前回見たように、この鐘ヶ淵駅から次の堀切駅にかけては、荒川放水路の開削に伴って東武伊勢崎線のルートが変更になった箇所である。
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 1902(明治35年)に東武伊勢崎線の吾妻橋(現・とうきょうスカイツリー駅)・北千住間が開業した時には、鐘ヶ淵駅から緩やかな左カーブで荒川放水路の中央近くまで張り出した上で放水路の右岸に戻るルートになっていたのだが、新ルートは鐘ヶ淵駅から左急カーブを切って荒川放水路の土手に迫り、その土手に並行して暫く走った上で、再び左急カーブで従来のルートに戻ることになった。だから、鐘ヶ淵駅は上り線ホームの全体と下り線ホームの北端がその急カーブの中にある。
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 駅を出て線路の東側の路地を歩いて行くと、程なく荒川の土手に上がる道がある。そこから鐘ヶ淵駅を眺めてみると、確かに線路が急カーブで土手に迫っていく様子がわかる。
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 線路は土手の法面(のりめん)ギリギリまで近づいてから土手に並行した直線部分を形成しており、荒川放水路の開削計画と折り合っていくためには、こうするより他はなかったと思わざるを得ない。
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 このルート変更がなければ旧線の線路があったであろうあたりには野球場が整備され、球児たちの声が広い空に響き渡っていた。
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 線路を下に眺めながら土手沿いに1kmほど歩くと、頭の上を高速道路が横切る所に隅田水門があり、荒川から隅田川へと通じる水路が現れる。昔の綾瀬川の地形を利用したもので、この地点では荒川と隅田川に挟まれた陸地は400mほどの幅しかない。
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 そして、この水門の直ぐ先に現れるのが堀切駅だ。荒川の土手に沿った線路の直線部分が終わり、左カーブで元々のルートに戻ろうとする地点にあるため、ホーム全体が急カーブの中にある。
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 上り線ホームからの出口(=東口)は荒川の土手に面した一ヶ所だけ。自動改札を出て15段の階段を上ると川の堤防の上に出るなどというのは、東京23区内ではこの駅だけではなかろうか。こういう「寂れた感」が悪くない。
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 そして、下り線ホームの駅舎が実にレトロでいい。東京を遠く離れたローカル私鉄のような雰囲気だ。辺りには商店一つなく、実にひっそりとした駅前である。
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 ところで、作家・永井荷風(1879~1959)は、かつて荒川放水路の左岸を川上から川下へ散歩した時の様子を、以下のように記している。

 「西新井橋の人通りは早くも千住大橋の雑沓を予想させる。放水路の流れはこの橋の南で、荒川の本流と相接した後、忽ち方向を異にし、少しく北の方にまがり、千住新橋の下から東南に転じて堀切橋に出る。橋の欄干に昭和六年九月としてあるので、それより以前には橋がなかったのであろうか。あるいは掛替えられたのであろうか。ここに水門が築かれて、放水路の水は、短い堀割によって隅田川に通じている。
 わたくしはこの堀割が綾瀬川の名残りではないかと思っている。堀切橋の東岸には菖蒲園の広告が立っているからである。」
(『放水路』 永井荷風 著、昭和11年4月)

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 荷風が「綾瀬川の名残りではないか」と推測した短い掘割に築かれた水門は、先ほど通り過ぎた隅田水門のことだ。他方、堀切橋については若干の説明が必要になる。

 1902(明治35)年に東武伊勢崎線の吾妻橋・北千住間が開業した時に、堀切という駅は旧ルート上、つまり今は荒川の河道になっている箇所のどこかに設置されていたのだが、僅か3年後の明治38年に客扱いが休止となり、更に明治41年には廃止されてしまった。止まったり発車したりを頻繁に繰り返すことに向いていない蒸気機関車にとって、鐘ヶ淵・堀切間の距離が短すぎたというのが理由とされるが、利用者が少なかったこともあったのではなかろうか。

 それが、1924(大正13)年に荒川放水路の開削に伴う東武伊勢崎線のルート変更の際に電化も完成し、先ほど見た場所に堀切駅が復活することになった。その時に、地元の要望があって駅の近くに荒川放水路を渡る堀切橋が架けられた。それが荷風も見た初代の堀切橋だ。(先ほど見た、頭の上を越えて荒川を渡る首都高6号向島線の高架橋とほぼ同じ位置にあったようである。)そもそも堀切という地名は荒川放水路の対岸、つまり現在の葛飾区側のものであり、その堀切地区の人々にとって、かつての最寄り駅が今度は川向こうになってしまった。だから堀切橋が新たに架けられたのである。
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 ところが、その後の1931(昭和6)年に京成電鉄が上野線(日暮里・青砥間、現在の京成本線)を開業し、荒川放水路の右岸(葛飾区側)に堀切菖蒲園駅、左岸(足立区側)に京成関屋駅を開設すると、葛飾区側の堀切地区の人々も、足立区側の堀切駅周辺の人々も、都心に出るには京成電車の方が便利になり、東武の堀切駅は乗客を大幅に奪わることになってしまったという。そして、堀切橋自体も戦後になって250mほど上流の、現在の新堀切橋へと代替わりしている。今や、新堀切橋を渡って堀切駅を利用する人などは皆無であろう。
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(京成本線の全通後)

 堀切駅までやって来たところで雨が降り出した。曳舟や鐘ヶ淵で何人も見かけた浴衣姿の人々は、今夜の隅田川花火大会がお目当てだったのだろうが、ちょっと気の毒なことだ。私も傘を持っていなかったので、堀切のもう一駅先の牛田まで行き、そこから目と鼻の先にある京成関屋駅から京成電車に乗って都心へ戻ることにした。

 そのため、荒川放水路開削のために東武伊勢崎線がルート変更になったもう一つの箇所、つまり小菅・五反野間でJR常磐線をオーバーパスする部分については、今回は自分で見て歩くことが出来なかったが、実は戦後になって、このオーバーパスは俄かに注目を集めることになった。

 1949(昭和24年)7月5日朝、日本国有鉄道初代総裁の下山定則氏が公用車で出勤途上に失踪、翌7月6日未明に轢断死体で発見されるという事件が起きた。この死体が生体轢断なのか死後轢断なのかを巡って専門家の見解が分かれ、多くの自殺説・他殺説が飛び交う中、警視庁は捜査結果を発表することなく同年末に特別捜査本部を解散し、15年後には殺人事件である場合の公訴時効が成立。戦後最大の迷宮入り事件の一つとされる、いわゆる下山事件である。

 下山総裁は7月5日の朝、公用車で都内の自宅を出発。通常ならば午前9時前には丸の内の国鉄本社に出社するところを、この日は運転手に命じて日本橋・丸の内一帯を複雑なルートで周回。9時37分頃に三越百貨店前に停車させ、「5分位で戻る」と言い残して三越に入店、そのまま消息を絶った。

 その後、浅草行の地下鉄銀座線の車内や東武伊勢崎線・五反野駅で下山総裁と思しき人物が目撃され、午後2時から5時頃まで同駅近くの旅館に滞在。そして午後6時以降は五反野駅から南の東武伊勢崎線沿線で、同様の人物が複数の人間によって目撃されている。そして、日付が替わった7月6日の午前0時半過ぎに、国鉄常磐線の北千住・綾瀬間の下り列車用線路上で下山総裁の轢断死体が発見された。

 この時の死体発見現場が、東武伊勢崎線がJR常磐線をオーバーパスした地点から、綾瀬方の最初の踏切の手前までの場所であったそうである。(その後、現場付近の常磐線は高架になったので、同踏切は今はなく、道路との立体交差になっている。)
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 前日の出社前の下山総裁の不可解な行動。「影武者」によるアリバイ作りの匂いがする目撃情報(その一例として、自他共に認める愛煙家だった下山総裁が、現場付近の旅館に3時間滞在する間に一本の吸殻も残していないこと等)。轢断場所での血液反応の異様な少なさ。轢断した貨物列車の一本前に現場を通過した進駐軍専用列車の存在。下山総裁失踪の前日に国鉄が発表した3万7千人の従業員に対する整理(=解雇)通告。ソ連・中国との冷戦の激化を受けた米国の対日占領政策の「逆コース」化・・・。

 今もなお多くの謎が残る下山事件の現場は、今回その歴史を辿ってみたように、荒川放水路の開削計画がなければ今の場所ではなかったのだ。東武伊勢崎線のルートが旧線のままであったなら、今の五反野駅に相当する駅がその後に開設されていたのかどうか。そこに駅前旅館があったのかどうか。もしかしたら下山事件の発生現場は全く違う場所になっていたのかもしれない。

 歴史にifはないと言われるが、ついそんなことも考えてみたくなった。

帝都の治水 [歴史]


 記録的短時間大雨情報という言葉を、この夏はずいぶんと頻繁に聞くようになった。

 気象庁の「大雨警報」が出ている時に各地の気象台から発表されるもので、その雨が、
 ● 数年に一度しか起こらないようなもの
 ● 一時間に100ミリ前後の猛烈な雨が観測されたもの
というのが凡その基準になっているそうだ。

 2013(平成25)年から運用されているが、現在までの月別の発表件数を調べてみると、今年(2017年)7月の44件(但し26日現在)というのが断トツの数字になっている。やはり、「最近よく聞くなあ。」という印象と合っているのだ。8月・9月の台風シーズンを前にしてこれだから、今年は年間の発表件数が過去最高になるのではないか。
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 一時間に100ミリなどという途轍もなく激しい雨が降ると、直ぐに気になるのは河川の氾濫だ。雨量が多い上に総じて河川が急傾斜な日本では、昔から各地で水害の発生が年中行事のようなものだった。今夏も、九州北部豪雨の際に筑後川とその支流の氾濫が周辺地域に大きな被害をもたらし、直近では秋田の雄物川の氾濫が注目を集めたばかり。現代ですらそうなのだから、明治以前の日本では多くの地域にとって治水が何よりも重い行政上の課題であったはずである。そして、大雨のたびに暴れ川となる河川に橋を架けるのは大変な事業だったことだろう。

 幕末期に歌川広重が残した『江戸名所百景』を見ると、江戸の隅田川に架かる千住大橋・両国橋・新大橋などの様子が巧みに描かれている。橋はどうしてもそこに人が集まるから、色々な意味で要所になりやすい。中でも両国橋の西詰などは当時の江戸で最大の繁華街だった。
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 その一方で・・・と思うことが一つある。隅田川に架かる橋の周辺のこのような賑わいに対して、それよりも川幅の広い荒川の流域はどんな様子だったのだろう。空の上から眺め下してみると、東京湾に流れ出る数々の河川の中でも荒川は有数の大河で、特に河口近くの川幅が広い。それなのに広重の錦絵の中に荒川の様子がちっとも出て来ないのはなぜなのか。残されているのは「逆井の渡し」という、荒川の西を流れる小さな川の鄙びた風景だけである。
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 答は簡単で、広重の時代、いや明治時代を通してみても、東京の下町に荒川という河川は存在しなかったからである。

 1910(明治43)年8月というと、日本が大韓帝国を併合する韓国併合条約の調印を月末に控えていた頃である。梅雨前線の南下によって5日頃から雨が降り続いていたところへ、11日に房総半島をかすめて太平洋に抜けた台風と、14日に駿河湾から甲府、更に群馬県西部へと抜けた台風とによって関東各地に集中豪雨が発生。この結果各地で河川が氾濫し、東京も含めた関東南部は未曾有の規模の水害を被ることになった。明治43年の大水害と呼ばれるものである。

 奥秩父の甲武信ケ岳(2475m)直下を水源とする荒川は、秩父盆地を貫いて寄居で関東平野に出ると、熊谷付近から次第に南を向き、現在のJR川越線の指扇・南古谷間で入間川を合わせた後、概ね南東方向に東京湾を目指す川である。昔から河道が安定せず、増水時にはその名の通り暴れ川になることで有名だった。その荒川が、利根川と共に明治43年8月にも暴れまくったのである。

 「山間部では山崩れを発生させ、家屋や田畑、橋や道路などの埋没・流失を招き、そして川へ大量に流れ込んだ土砂や流木は、濁流とともに堤防を決壊させました。明治以降、荒川最大の出水となるこの洪水は、利根川の洪水と合わせて埼玉県内の平野部全域を浸水させ、東京下町にも甚大な被害をもたらしました。記録に残る埼玉県内の被害は、破堤945箇所、死者・行方不明者347人、住宅の全半壊・破損・流失18,147戸、床上浸水59,306棟、床下浸水25,232棟にものぼりました。」
(国交省関東地方整備局 荒川上流河川事務所HPより)

 入間川と合流した後、当時の荒川は今よりももっと大きく蛇行を繰り返しながら、東北本線・荒川橋梁あたりで現在の隅田川の河道を通っていた。つまり、この時代までの江戸・東京にとって、荒川=隅田川であり、千住大橋あたりまでを荒川、そこから下流を隅田川と呼んでいたのである。蛇行が多いのは普段の川の流れが遅い地形になっているからであり、大雨による増水時にはそれが氾濫の原因になった。

 「埼玉県内では、県西部や北部に人的被害が多く、床上浸水被害が県南や東部低地に多かったのが特徴です。交通や通信網も遮断され、鉄道は7~10日間不通。東京では泥海と化したところを舟で行き来し、ようやく水が引いて地面が見えるようになったのは12月を迎える頃だったそうです。」
(同上)

 この年の水害損失額は当時の国民所得の3.6%にあたる112百万円にのぼり、明治時代としては最大の水害であったという。あの荒川の水がそのまま隅田川に流れ込む構造になっていたのだから、大雨の際にこのような水害が起きるのは避けられなかったのだろう。だから、「江戸名所百景」に登場する隅田川も、実際には広重が描いたようなのどかな情景ばかりではなかったに違いない。
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(現在の墨田区役所付近の隅田川の洪水。川の対岸は山の手側。)

 この未曾有の水害を受けて、明治政府は素早く動いた。時の首相兼蔵相・桂太郎が大蔵省秘書官に直々に命じて予算面における治山治水計画の骨格を作らせ、それを内務省に持って行って15年計画の具体案を発案させたという。先に大蔵省が金の算段を済ませたものであれば、内務省の具体案も話が取りやすいという訳だ。この水害発生時に、桂自身は軽井沢の別荘で静養中だったという。ところが大洪水によって鉄道も電信も不通となり、桂は東京と連絡がつかないまま現在の信越線・篠ノ井線・中央本線経由で帰京せざるを得なかった。その道中で水害の様子を目の当たりにした桂は、治山治水を急がねばという意を強くしたそうで、実際に工事は翌明治44年から早速始まっている。

 水害を防ぐための治山治水計画の内、首都・東京における対策は何といっても荒川の水を隅田川から切り離すことであり、そのために4つの案が出されたという。
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(荒川の水を隅田川から分離する計画案-国交省関東地方整備局 荒川下流河川事務所HPより拝借)

 第1案は、千住大橋の下流側で隅田川を分流させる新たな河道を建設する案だ。工事区間が最も短くて安価だが、これより上流部分の水害予防策にはならず、メリットが少ない。

 これとは逆に第2案はもっと上流の、入間川との合流地点あたりから荒川を早くも分流させてしまう案である。確かに水害は防げるだろうが、新たな河道の工事区間が極めて長く、なおかつそれが東京・山の手の市街地を縦断せざるを得ないので、実現性には乏しい。

 第3案と第4案は基本的に同じで、赤羽の岩淵地区付近に水門を設置し、そこで荒川を隅田川から分流させて中川の河口に繋げるというものである。それが日光街道の宿場町・千住の北を経由するのが第3案、南を回るのが第4案という訳だ。結局は新たな河道用の用地取得が比較的容易な第3案が採用された。これが、今となってはその名を語られることもなくなった荒川放水路である。
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(明治42年の赤羽・岩淵地区。当時、今の荒川の流れはなかった)

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(現在の赤羽・岩淵地区)

 ところで、この明治43年の大水害の11年前の8月27日に、東京・本所区と栃木県足利町を結ぶことを創立の趣意とした鉄道会社が、北千住と埼玉県・久喜の間で鉄道の営業を開始していた。現在の東武鉄道伊勢崎線の黎明期である。同社の社史には、「2時間間隔で1日7往復の混合列車を運転した。」とある。(混合列車とは客車と貨車とを併結させた列車のことだ。) そしてその3年後には、鉄路は北千住から吾妻橋(現・とうきょうスカイツリー駅、つまりその時点での東京側の終点)まで伸びていた。(無論、電化はまだ先の話である。)

 明治42年(つまり大水害の前年)作成の地図で北千住付近の様子を眺めると、確かに現在の荒川は皆無で、隅田川の流れだけが存在している。そして、明治29年の暮に日本鉄道の土浦線として開業していた現在のJR常磐線の線路を、北千住駅の北方で東武鉄道がオーバーパスする様子が描かれている。(その構造は現在も同じなのだが、当時は両鉄道共に、あたり一面の田んぼの中に建設された築堤の上を走っていたことが、その地図から見てとれる。)
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 ところが、明治43年の大水害を踏まえた「荒川放水路」の建設計画が世に出されると、東武鉄道伊勢崎線のルートが2ヶ所で変更を迫られることになった。
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 その一つが、この「田んぼの中のオーバーパス」だ。大正8年作成の地図では、このオーバーパスが荒川放水路計画ルートの真ん中に位置していたことが明確にわかる。あたりの水田は既になくなったようだが、荒川放水路(の予定地)にはまだ通水がなされておらず、昔の道路がそのまま残っていたりしている。
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 この荒川放水路を避けるために東武鉄道がルート変更を行ったのは1923(大正12)年7月、つまり関東大震災の僅か2ヶ月前のことだった。今度は北千住の先から荒川放水路を鉄橋で渡り、小菅の監獄に最も接近したあたりで左カーブを切りながら常磐線を越えている。(勿論、常磐線も新たに鉄橋を建設し、僅かではあるがルートが変わった。) つまりオーバーパス地点が旧線より北東側に移り、そこから先も西新井駅までのルートは旧線より北東側に変更となったのだ。そして、翌1924(大正13)年10月に新ルート上で小菅・五反野・梅島の3駅が新たに開業している。

 もう一ヶ所のルート変更は、北千住から南の鐘ヶ淵駅までの箇所である。S字状の線形の内、右下の部分の膨らみが荒川放水路の中央部にまでかかってしまうので、鐘ヶ淵駅の北側で直ぐに左急カーブを切り、荒川放水路の土手の淵に沿って北千住に向かうルートに変更する必要があったのだ。そして、土手に沿って走る部分の北端に堀切駅を開設。それは上述の小菅・五反野・梅島の開業と同日であった。
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 1911(明治44)年から工事が始まった荒川放水路の開削。それは総延長22kmにわたって川幅455~582mの河道を開削するもので、そのルート上にある土地の買収の総面積は11平方キロ、移転した住戸は約1,300戸に及んだ。地面の掘削や川底の浚渫によって掻き出した土量は東京ドーム約18杯分にもなり、その内の55%は両岸の築堤に使用されている。新たに4本の鉄道橋と13本の道路橋が架けられ、既存の河川との接点には3ヶ所の閘門と7ヶ所の水門が設置された。掘削や土砂の運搬をまだ人力に頼る部分も多く、大変な工事であったようだ。(途中、1923(大正12)年に関東大震災が発生し、築堤などに被害が出た一方で、通水前の河道は周辺住民15万人の避難場所にもなったという。)

 数多くの困難を経て、1924(大正13)年10月に赤羽の岩淵水門が完成すると、いよいよ通水を開始。工事開始からちょうど20年目にあたる1930(昭和5)年に、荒川放水路は竣工となった。総工費31.4百万円は、今の価値に換算すると2,300億円に相当するという。そして(上流にダムや調整池が整備されたことの効果は勿論大きいが)、これ以降現在に至るまで、荒川放水路の決壊は一度も起きていない。

 荒川放水路の開削が行われたこの20年間は、日露戦争終結の6年後から満州事変勃発の前年にかけての期間である。その前半には第一次世界大戦による好況期があったものの、その後は戦後不況に関東大震災、そしてニューヨークの株価大暴落に端を発した昭和金融恐慌と重なっている。日本にとっては苦しいことの多い時期であったが、一方でこの開削工事は失業者の受け皿としての公共事業にもなったのだろうか。

 明治43年の時点であのような大水害が起きたほど、帝都東京の治水が脆弱であったことにも今更ながら驚かされるが、それを受けた荒川放水路の開削は、この20年を逃しては出来なかったのかもしれない。勿論、今とは違って用地の確保にも工事の方法にも荒っぽい面はあったのだろうが、大都市のインフラ整備は何といっても政治家の決断力とリーダーシップにかかっているのだ。新聞紙上に「豊洲」・「築地」という文字が躍るたびに、私はこの20世紀初頭の開削事業のことを思い浮かべている。

 今や、人口の河川であることは殆ど認識されなくなった荒川放水路。1965(昭和40)年には正式に荒川の本流と定められ、以後「放水路」という言葉は消滅している。

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空虚な祝日 [季節]


 1969(昭和44)年7月20日というと、私が中学1年の夏の或る一日だった。私が通った中学の伝統行事であった「夏の海浜生活」、要するに臨海学校があり、私はこの日を挟む一週間を内房の富浦町で過ごしていた。この年は7月14日に関東甲信地方が梅雨明けを迎えており、とにかく毎日が真夏のカンカン照りだった、というのが私の記憶に残る冨浦での一週間である。

 この臨海学校には本当に長い伝統があって、私たちを指導してくれた先輩方(水泳部のOBが中心)はみんな褌(ふんどし)姿だった。海上に櫓(やぐら)を立てて飛び込みを教わり、日本の古式泳法を教わり、そして最後には生徒全員で4kmの遠泳。梅雨明け後の夏空の下でこんな毎日を過ごしたことは、もう半世紀近くも前のことなのに、今もどこかわくわくする思い出になっている。
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 さて、この年の7月20日は日曜日だった。臨海学校の真っ最中だったから当時の私たちに曜日の感覚はなかったが、実はこの日は、これから空の彼方で始まろうとしていることに世界中の人々が固唾を飲んでいた日曜日だった。サターンⅤ型ロケットで打ち上げられた米国の宇宙船コロンビア号が有人の月探査船イーグル号を切り離し、人類が史上初めて月面に降り立つという、いわゆる「アポロ11号計画」がそのクライマックスを迎えようとしていたのである。
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 イーグル号の月面着陸時刻は協定世界時の7月20日20時17分40秒。日本時間では翌21日の午前5時17分40秒である。当時としては当たり前のことながら臨海学校はテレビのない生活だったから、私たちはリアルタイムではこのニュースに接していない。しかしそれは引率の先生方から口頭で伝わり、当然私たち生徒の間でも話題になった。

 櫓の上から海に飛び込んで、しばし海の深さを全身に感じた後、再び海面に浮かび上がって息を大きく吸い込むと同時に視界に飛び込んで来る真っ青な夏空と白い雲。私たちがそんな日々を過ごしていた時に、その夏空の彼方では人類の新たな歴史が始まっていた訳だが、ともかくも7月20日といえば「夏の海」というのが、この時以来私にとって一種の刷り込みのようになった。そしてこの日は、関東甲信地方における梅雨明けの平年値でもある。

 それから四半世紀が過ぎて、1995(平成7)年の法改正で7月20日は国民の祝日になった。言うまでもなく「海の日」である。「国民の祝日に関する法律」によれば、海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことが祝日制定の趣旨なのだそうだ。然らば、それが何故7月20日なのか。それは、この日が戦前から「海の記念日」に定められていたことに基づくものだ。

 今ではあまり語られることもないが、明治5年から18年にかけて計6回にわたり、明治天皇による地方巡幸が行われた。その内訳は以下の通りである。
  第1回: 大阪・中国・西国巡幸(明治5年5月23日~7月12日)
  第2回: 奥羽・函館巡幸(明治9年6月2日~7月21日)   
  第3回: 北陸・東海道巡幸(明治11年8月30日~11月9日)
  第4回: 山梨・三重・京都巡幸(明治13年6月16日~7月23日)
  第5回: 山形・秋田・北海道巡幸(明治14年7月30日~10月11日)
  第6回: 山口・広島・岡山巡幸(明治18年7月26日~8月12日)

 この内、明治9年に行われた第2回の奥羽・函館巡幸は、とりわけ大きな意味を持っていたのではないだろうか。何しろ、東北各地と道南が戦場になった戊辰戦争の終結からまだ7年、廃藩置県の断行からは5年しか経っていなかったのだ。

 西南雄藩の出身者ばかりが光を浴びる新国家の中で、ひとえに損な役割を負わされることになった東北地方。とりわけ旧会津藩の人々は、移住の地としてあてがわれた陸奥・下北の地で大変な苦労を背負って来た。他方、新国家といってもまだ憲法もない頃だから、この段階の日本は「立憲君主制」とも言えず、ひとまず「王政復古」をしただけの状態だ。まずは明治天皇自らが東北各地を訪れ、その存在を民に知らしめること、そして戊辰の戦役以来の怨念が残る地において民を慰撫するというプロセスが、どうしても必要であったのだろう。この巡幸が東北地方と函館をセットにしていることが、何よりも戊辰戦争を強く意識したものであったことを示している。
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(福島県下桑野村の開墾地に到着した明治天皇)

 巡幸に先立って、まずは先発隊が行先の調査を入念に行っており、この奥羽・函館巡幸では参議・大久保利通が自らこの先発隊の指揮を執った。大久保はその調査結果を本隊並びに留守を預かる三条実美に報告し、巡幸の本隊は皇族をはじめ、岩倉具視・木戸孝允・大隈重信といった面々によって構成されたという。明治9年といえば西南日本で不平士族が不穏な動きを見せていた頃で、実際に10月には神風連の乱・秋月の乱・萩の乱などが起きている。そんな情勢の中、天皇巡幸のお供とはいえ新政府の高官たちが二ヶ月近くの間、よく政府を留守に出来たものだと思ってしまう。

 東北地方にはまだ鉄道がなかった時代。巡幸は基本的には馬車による移動だった。明治天皇御一行は現在の福島県・宮城県・岩手県・青森県の各地を巡った後、用意されたお召し船で函館へ渡り、帰路は三陸経由で横浜へ。この函館からの航海は三日連続の荒天だったそうだが、明治帝は最後まで泰然としていたとされる。

 この時のお召し船は明治丸と名付けられた鉄製汽船だった。明治の初年に各地に建設された洋式灯台のメンテナンスのため、灯台巡視船として新政府が英国に発注した船で、この巡幸の前年に日本に到着したばかり。要するに当時の日本にあった汽船としては最新鋭のものだった訳で、明治天皇を乗せたこの船が横浜港に無事到着したのが、明治9年の7月20日だった。これを踏まえ、昭和16年になって当時の逓信大臣・村田省蔵の提唱によって7月20日が「海の記念日」に制定されたのである。(と言っても祝日ではなく、国民を挙げてお祝いするような日ではなかったようだ。)
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(東京海洋大学に保存されている明治丸)

 「明治天皇が船で横浜に着いた、それだけのことでなぜ記念日に?」と言うなかれ。そこは私たちなりに当時の日本の姿を想像してみるべきだろう。

 武家諸法度によって大型船の建造が禁じられてから200有余年。明治の日本は必要な汽船をともかくも外国に発注せざるを得なかった。優先順位としては軍艦、次いで物資を運ぶための輸送船だった筈だ。明治天皇が明治丸に乗船した明治9年というと、洋式の汽船で人を運ぶというのはまだ極めて珍しかった頃で、事実明治丸は客船ではなく、前述のように灯台巡視船だった。そして、明治天皇が軍艦以外に乗船した初めての船だったのである。しかも、函館からの帰路は三日続きの荒天だった。「よくぞご無事にご帰還あそばされた」というのが、新政府の高官たちの心境ではなかっただろうか。

 そして、明治天皇が明治丸に乗船したそもそもの理由であるところの奥羽・函館巡幸。そのことの重さを、私たちは理解する必要があるだろう。

 伝統的に天皇は京都御所の外には滅多に出ず、御所の中でも御簾の向こうで姿の見えない存在だった。明治帝の先代・孝明天皇まではそうだったのだ。それが明治維新で日本が王政復古を迎えたために、天皇は俄かに近代国家の君主として洋装になり、必要な場合には民の前に姿を現すことが求められるようになった。しかも、今回の訪問地は戊辰の戦の怨念が残る奥羽・函館である。途中から軍艦ではない船に乗り、帰路は三陸沖の荒波を越えていく三日間の旅だ。この巡幸の実施に踏み切ることは、明治天皇にとっても大きな決断だったのではないか。その大きな使命を無事に終えて、明治天皇は7月20日に横浜港に降り立ち、帝都に戻ることが出来たのである。

 「市民革命」の本家本元のフランスでは、フランス革命とナポレオン戦争で5百万人近くの死者を出したと言われ、その後も王政と共和制とを行き来したために争乱が相次いだ。それに対して、日本の戊辰戦争による死者は約1万5千人だったそうである。そして、日本が1871(明治4)年に廃藩置県という「ただ一つの勅諭を発しただけで、二百七十余藩の実権を収めて国家を統一」し、駐日英国公使ハリー・パークスをして「ヨーロッパでこんな大変革をしようとすれば、数年間は戦争をしなければなるまい。」と驚嘆せしめた、その同じ年にフランスではパリ・コミューンの蜂起があり、一週間で2万人以上の犠牲者を出している。明治維新の少し前、米国では議会制民主主義の下で南北戦争(1861~64)が起こり、4年間で60万人超の死者を出した。更に同時期の中国は何をかいわんやで、太平天国の乱(1851~64)の死者数は2千万人を超えたとされている。

 明治天皇は奥羽・函館巡幸の道中において、沿道各県の県庁・裁判所・学校・工業関係施設・神社・墳墓など予め手配されていた箇所の視察に留まらず、農民の田植えの様子見るために馬車を止め、田畑の開墾に関する農民の苦労話に耳を傾け、といったことにも意を用いたそうだ(無論、この機を捉えた天皇への直訴は固く禁じられていたが)。「中央集権国家」とか「近代天皇制」といったことをそもそも快く思わない人々には違う意見があるかもしれないが、生まれたばかりの明治国家が、ともかくもこうしたプロセスを経ることで地域間の確執を乗り越え、世界レベルで見れば極めて穏和に初期の地固めを進めて行ったことを、私たちは改めて認識すべきではないだろうか。(天変地異が起きた場合も含めて)動乱期にあっても総じて日本の社会が安定していることは、今でも諸外国からの評価が極めて高いポイントの一つなのである。
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(田植えの様子を視察する明治天皇)

 この「海の記念日」がベースになった「海の日」は1996(平成8)年に施行された。(私自身はその年から海外赴任となったので、7月20日が休みになったという実感はなかった。)ところが、2003年に日本に帰任してみると、「ハッピーマンデー制度」とやらの法改正で、「海の日」は7月の第3月曜日になっていた。「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」という極めて漠然としたお題目だけが残ったまま、7月20日の「海の記念日」とは切り離されてしまったのである。

 「海の日」に関連し、海洋基本法には「国及び地方公共団体は、(中略)海の日において、国民の間に広く海洋についての理解と関心を深めるような行事が実施されるよう努めなければならない」という条文があるのだが、私たちが普通に暮らしていて、国や自治体がそういうことをしているという実感を持つことはまずないだろう(地域によっては「海の日」に関連したイベントがあるのかもしれないが)。明治天皇の奥羽・函館巡幸という歴史との繋がりが断ち切られてしまい、国民にとってはただ漫然と7月の第3月曜日が祝日になっただけ。要するにこれは単なる愚民化政策ではないのか。

 明治天皇のエピソードに因んだものであること、昭和16年という戦時体制下で制定された記念日がベースになっていることを忌み嫌う人々の言論を意識して、「海の記念日」との関係を敢えて希薄化させているのかもしれないが、それは本末転倒というものだろう。紀元節を「建国記念の日」、新嘗祭を「勤労感謝の日」などと言い換えているのと同根で、「国民の祝日」なのに国の歴史や伝統文化との繋がりをわざわざ見せないようにしている馬鹿げたやり方だ。これでは日本を知らない日本人を増やすだけである。

 さて、2017年の関東甲信地方は、「海の記念日」を待たず7月18日に梅雨が明けた。以後は連日の猛暑である。還暦を過ぎた私は、夏の海に行かなくなってもう久しいが、半世紀近く前に「海の記念日」を過ごした内房・冨浦の海は、今はどんな様子だろうか。

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女帝の暑い夏 [歴史]


 7月10日(月)、カラ梅雨気味の首都圏は猛烈な暑さに見舞われた。太平洋高気圧が一時的に勢力を増し、あの九州北部豪雨をもたらした前線は、今は朝鮮半島の中部まで押し上げられている。首都圏は朝から真夏の干天で、最高気温のランキングには館林37.1℃、熊谷35.4℃、甲府34.4℃、東京・練馬33.8℃と、お決まりの地名が並んでいる。
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 私が子供の頃、昭和30年代の終わりから40年代の前半にかけては、いくら真夏といっても東京で気温が30℃を優に超える日が何日も続くなどということは、あまりなかったように思うのだが、古代の日本では、今頃はどれぐらい暑かったのだろうか。

 今から1372年前、すなわち645(皇極天皇4)年の7月10日というと、旧暦では6月12日にあたる。現在の奈良県高市郡明日香村では朝から大雨だったそうだ。

 この日は、新羅・百済・高句麗の三国から貢物を持参した使者を迎える「三国の調」の儀式が飛鳥板葺宮の太極殿で予定され、皇極天皇に従って大臣・蘇我入鹿も入朝することになっていた。この機を捉え、かねてより専横を極める蘇我氏の打倒を画策していた中大兄皇子・中臣鎌足らがクーデターを挙行し、宮中で入鹿を殺害。その翌日には入鹿の父・蘇我蝦夷を屋敷の中での自決に追い込み、蘇我本宗家は滅亡した。言うまでもなく、これが後に「大化の改新」と呼ばれる一連の改革の口火を切ることになった「乙巳(いっし)の変」である。入鹿を討つために太極殿の柱に隠れていた中大兄皇子も、蒸し暑さに汗びっしょりではなかっただろうか。因みに、斬り殺された入鹿の死体は外に放り出されて雨に打たれたという。

 この時の天皇は前述の通り皇極天皇(594~661年)だ。皇室史上では推古天皇に続く二人目の女帝であり、しかもこの乙巳の変で一旦皇位を退いてから10年後に斉明天皇として再び即位、即ち重祚(ちょうそ)となった初めての天皇である。更に言えば、皇統系譜の中ではそれほど血筋が良いとも言えないのに皇位に就くことになった、ちょっと不思議な天皇なのだ。
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 第29代の欽明天皇以降、6世紀~7世紀前半に登場した歴代天皇の系図を眺めてみると、欽明天皇から敏達天皇へと世代交代が行われた後は、敏達 → 用明 → 崇峻 → 推古という兄弟間での皇位継承が続いた。(それ以前の応神王朝や継体王朝においても、兄弟間で皇位が継承された前例はある。)だが628年に推古天皇が崩御すると、敏達天皇の直系の孫にあたる舒明天皇が即位。皇位が一世代飛ぶのは異例なことだ。更に言えば、舒明の后となり、後に皇位に就く皇極の出自は歴代天皇とはいささか異なっている。

 皇極の父は、敏達の皇子(の一人)である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)と、どの天皇の子孫なのかよくわからない漢王の妹・大俣王との間に生まれた茅淳王(ちぬのおおきみ)だ。そして母親は、欽明天皇の皇子(の一人)である櫻井皇子と名前も出自も未詳の女性との間に生まれた吉備姫女である。だから、皇極自身は皇統の系図の中では極めて傍流と言うべきものだ。それが、夫・舒明の崩御を受けて皇位を継承し、女帝となったのである。

 一般に家系図というものは世代間の関係を見るためには適しているが、時間軸がないので誰がいつからいつまで生きたのか、誰と誰が同時代の人間なのかといったことを読み取ることが難しい。そこで、前述の期間について歴代天皇の生存期間と在位期間を年表の中に図示し、そこに家系図的な処理を加えてみると以下のようになる。
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 敏達・用明・崇峻・推古という兄弟の中では、推古女帝の寿命の長さが突出している。何しろこの時代に74歳まで生き、在位は35年にも及んだのだ。その間に、生きていれば有力な皇位継承者だったはずの厩戸皇子(用明天皇の皇子、いわゆる「聖徳太子」)は既に病没していた。(蘇我氏も馬子から蝦夷を経て入鹿へと世代交代している。)推古の次が敏達の孫の世代に飛んだのは、そうした推古時代の長さが大きな原因であったのだろう。

 そして、敏達の孫の舒明が在位12年の後に48歳で崩御。その時点での後継者候補は、舒明と蘇我法堤郎女(ほほてのいつらめ)との間に生まれた古人大兄皇子、厩戸皇子の息子・山背大兄王(共に生年不詳)、そして舒明と皇極の間に生まれた中大兄皇子(当時15歳)だった。そうした有力候補がいる中で、皇位はなぜか后の皇極へと継承された。

 その皇極は3年半ほど皇位にあったが、645年、自分の目の前で蘇我入鹿斬殺のクーデターが起きると、たちまち降板して同母弟の軽皇子に譲位。これが第36代の孝徳天皇となる。それまでの皇位継承は前天皇の崩御を受けて行われていたから、皇極 → 孝徳は日本で初めての譲位となった。それにしても、傍流の皇極のそのまた弟が、よくぞ天皇になれたものである。

 クーデターから一週間後の7月17日(新暦)、日本史上で初めて年号が立てられ、この年が大化元年となった。孝徳は新たに造営した難波長柄豊崎宮を都とし、「大化の改新」としての諸々の制度改革が行われる。だが、それらを実質的に仕切ったのは皇太子の中大兄皇子だったのだろう。その皇太子は653年に都を飛鳥に戻すことを孝徳に建議。だが、それを退けた孝徳は一人難波宮に取り残されてしまい、失意の内に翌年病没したという。既に述べたように、その後は皇極が61歳で重祚して斉明女帝となった。
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(今は耕作地に囲まれた飛鳥の宮殿跡)

 推古天皇の在位期間である6世紀末から7世紀の初めというと、隋・唐という統一王朝が中国に現れ、その覇権が周辺地域に及んでいくという、東アジアにとっては激動の時代の始まりであった。それでも、中国から海を隔てた日本としては遣隋使を、次いで遣唐使を送り、というように「まずは中国に学ぶ」というスタンスでよかったのだろう。ところが皇極天皇以降の時代になると、唐帝国の覇権によって朝鮮半島が動乱の時代を迎える。「三韓」の中で最も劣勢に立たされていた新羅が生き残りを賭けて親唐路線に転換し、唐が進める「遠交近攻」戦略に敢えて乗っかることで、高句麗や百済への対抗を始めたのだ。

 そして、斉明天皇としての即位から5年。660年に唐と新羅が連携して百済に侵攻。百済国王が捕虜になってしまった。蘇我氏の時代から日本とは親交のあった百済は日本に救援を要請。放っておけば唐の覇権が日本に直接迫りかねない事態となった。

 これに対し、斉明女帝は直ちに百済の要請を受け入れ、中大兄皇子、大海人皇子(後の天武天皇)らを引き連れて難波から瀬戸内海を西走。伊予の熟田津(にきたつ)や博多を経由して筑紫国朝倉の朝倉橘広庭宮へと進む。661(斉明天皇7)年5月9日(新暦の6月11日)のことだった。しかし、その朝倉では宮の建築のために付近の神社の木を無断で伐採したことから、神様の怒りに触れて宮殿が倒壊。鬼火が出没し、病が流行したという。そして、既に68歳の高齢に達していた斉明は、この年の7月24日(新暦の8月24日)に朝倉宮で崩御した。それは、きっと暑い夏の日であったのだろう。唐・新羅連合軍に対して日本軍が惨敗した白村江の戦(663年)の2年前のことである。

 この朝倉橘広庭宮は、今月の九州北部豪雨で大分県日田市と共に甚大な被害を受けた福岡県朝倉市に位置している。(正確な場所はまだ比定されていないようだが。)朝倉は日田方面から西方へ流れる筑後川が形成した平野の北端にあり、標高300m前後の丘陵の南斜面を後背地とする、いかにも有史以前から人々が住みついていたであろう地形の中にある。斉明天皇も宮殿からこの肥沃な平野を眺めおろしていたことだろう。
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 その朝倉が、今年7月5日(水)に前例のないほどの豪雨に見舞われた。北上して来た梅雨前線に南からの湿った空気が吹き込み、この日一日だけで516ミリという、7月一か月の平均雨量の1.5倍近くの雨が降ったのである。(朝倉と並んで大きな被害を受けた大分県日田市ではこの日一日で336ミリ、ちょうど7月一か月の平均雨量に匹敵する量だった。)
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(2017年 九州北部豪雨 朝倉と日田の雨量)

 こうなると、北側の丘陵から筑後川の支流が幾つも流れ出るのどかな地形がかえって災いし、市内の各地で土砂崩れや河川の氾濫が相次いだ。道路の冠水で一時的に孤立した地区が幾つもあったのは、報道されている通りである。
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 今年の首都圏はカラ梅雨だが、本来ならば7月は大雨の季節。乙巳の変や斉明天皇の筑紫遷幸の経緯を紐解きながら、私たちの遥かな祖先も、この国のこうした気候の下で歴史を刻んで来たことを改めて思う。

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